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TV 版 AIR #9 シナリオ考察の続き

 さてさて、そんなわけで引き続き TV 版 AIR のシナリオ考察の続き。今日はちょっとだらだらと。関連して 先日のエントリ の方に kagami さんからコメント頂いてますが、こちらに合わせた形で書かせてください。

# あ゛、無駄に濃いので、興味ない方は適当にスルーしてください。(^^;)

 以下、ネタバレありますのでご注意を。一応文字反転で。

 原作の summer 編のラストシーン(実は柳也のホントの連れ添いが裏葉だったことに気付くシーン)はトリック的な色合いが強く、TV 版では映像化のマジックとして両親+娘の構図を強調し、話をその線に整合させていることは、先日の kagami さんのコメントのご指摘の通りだと思います。先日のエントリには書きませんでしたが、八百比丘尼の

 「それなら、わらわの心持ちはわかりますまい」

といったセリフが削られていることや、裏葉が宿した柳也の子の描写が全面的に削り落とされていることからも、その辺のことは推測できますよね(母親が二人いると困るし、娘も別にいると困る(^^;))。

 これに関して、実際問題として summer 編を 2 週間で突破するためには『そうせざるを得なかった』ということも分からなくもないのですが、一方で、はてこれで本当に良かったんだったっけか?? というのも少なからずあるんですよね。なぜかというと、それをやってしまうと、「小さくてもちっぽけな幸せ」が、(狭義的な)「家族愛」のみに限定されてしまうから。それは原作の AIR という作品のニュアンスとはちょっと違うんじゃないか、と。

 もう少し補足しますと、(いずれ TV 版 AIR が終わったときにでも整理しようと思ってたことですが) AIR という作品の構成的な肝は、

 「大きな歴史(生物の進化)の中にある、(個人の)小さな幸せの物語」

を対比的に描いた、というところにあると思うんですよ。最近アップされた、 のりさんAIR レビュー はこの辺のところにうまく言及してますが、私はこの構成こそが、AIR という作品を AIR という作品たらしめている所以ではないか、と考えています。

 小さな幸せの物語が他者への愛から始まり、その連なりが大きな歴史へと繋がっていくという構図は、なにもことさらに強調せずとも当たり前のことで、そこから AIR と CLANNAD のテーマの同質性を論じることは(可能ではありますが)あまり意味がないように思えます。というのは、これと似たようなテーマを持つ凡作は数多にあるわけで、テーマの良さのみが AIR や CLANNAD の作品としての良さの理由ではないはずだからです。AIR や CLANNAD が優れているのは、そのテーマの描き方が出色の出来だったから だという、当たり前の事実も忘れてはならないと思うんですよ。

 そしてそのテーマの描き方という観点から見ると、ゲーム版の AIR と CLANNAD は、全くといってもいいほどに違っている。

 まず、CLANNAD は、どこまでも「今生きる人の物語」を大切にしていた。これはギミックに頼りすぎた AIR という作品の反省などからも来ていたのでしょうが、とにかく人間関係や思いやりといったものを、多面的に優しく描き出すことによって、立体的な「街」(=人のつながり)を『暖かく』描き出した作品でした。トリックやギミックなしのガチンコ勝負で挑んできた作品、とでも言えば分かりやすいでしょうか。(^^;)

 これに対して AIR は、「今生きる人の物語」を大切に描きながらも、その背景に "1000th summer" という、大きな生物の進化の歴史を持ってきていて、そこを『冷徹に』描いている。

 例えば、往人が方術を受け継いで空にいる女の子を救わなくちゃいけないとか、我らがみすずちんに神奈の記憶が降り注ぐなんて、ぶっちゃけ、長い歴史の過去の人々からのとばっちり以外の何物でもない(^^;)。あるはずのない痛みに苦しみ、記憶を失い、壊れていく少女たちと、それを救うために少女を探し続ける方術を受け継ぐ者たち。それは歴史という名の冷徹な時の流れに翻弄される者たちの、どこまでも悲しい物語でしかない。

 それでも、そこには確かに小さな幸せがある。それが最期の最期で本当の連れ添いを見つけられた柳也であり、記憶を失いカラスになっても観鈴のそばに居続けたいと思った往人の行く末であり、観鈴のゴールであったわけです。どれも「大きな歴史」から見ればあまりにちっぽけな幸せだけれども、そこには「当人にとっては」大きな幸せが存在していた、というのがこの AIR という作品の構成上の肝だったはず。そしてその幸せの「形」を、「家族をなして互いを思いやること」といった具合に極度に具体的に限定していないというのも、AIR という作品の特徴の一つだと思うんですよ。

 つまりもっと単純に言えば、(幸せが具体的に何であるのかはともかくとして、)

 「大きな歴史の流れの中では、我々は悲劇的でちっぽけな存在だけれども、
  それでも確かにそこにはそれぞれに『本当の幸せ』があるんだよ。」


という確かな実感そのものこそが、AIR という作品の壮大さに触れて涙した多くの人々の根底にあるんじゃないかと思うんですよね。(それが Key 制作陣が意図したものかどうかは別として。)

 ところが、TV 版 AIR は「本当の幸せのカタチ」を表層的に狭義的な「家族愛」に限定してしまっている(少なくとも summer 編に関しては)ので、分かりやすくはあるけれど、厳密に言えば原作の感動のカタチとはちょっと違うんじゃないか、と思うんですよね。

 もちろん、だからといって TV 版 AIR がダメだ、とかいうつもりは毛頭ないし、違うといっても誤差範囲内に収まっている、とは思います。ただ、#6 なんかを見ていると、「決して諦めない」がこの TV 版 AIR の持ち味でもあると思えるので、ついいろいろと欲が出てしまうんですよ(汗)。

 ……や、まあしょせんは原作原理主義者のたわごとだと聞き流してもらえると嬉しいんですけどね(^^;)。

# あー、なんか読み返してみたら全然まとまってないです。ごめんなさい。
# でも書き直す気力もないのでそのままアップ。(ぉ)

 っていうか、悪いのはすべて 13 話構成にしなかった企画そのものなわけですよ。13 話目の週に総集編なんかやってる場合じゃないんですってば〜(涙)。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2005/3/7 00:05 | 3.アニメ&コミックス

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コメント

幸せの定義によっても違ってくると思うのですが、
やはりどちら(AIR・TV版AIR・クラナド)
も最終的にはamor fatiとしての作劇ではないかと…。

つまり、どちらも宿命的に生起する生死の哀しみすら愛し、
その宿命を受け入れるということにモティーフが置かれているように…。

AIRやクラナドの共通点は悲劇が発生した後も物語が続き、
その受容が求められるということで、まさに悲劇の作劇法の
オーソドクスであり、そして大変良く出来た作品だと思います。

究極的には幸福であるかどうかではなく、
生と死に対する受けとめに帰結しているように感じます。
死ぬのは、常に愛する者ですから…。

投稿者 kagami : 2005年3月9日 14:12

kagami さん、コメントどもです。
amor fati って何? ……と調べてしまいましたが、運命愛、ですか。
なるほどそうなんでしょうね。

> 生と死に対する受けとめに帰結しているように感じます。

人間の究極的なテーマとも言えるものでもあるでしょうからね。
ただこの辺難しいのは、受け手の力量の問題もある、ということかと。
現実的に AIR が発売された直後は、そこまで高度な議論がなされな
かったという事実も加味しなければならないのかなぁ、とは思います。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2005年3月11日 01:40

麻枝氏、 涼元氏のテキストがそのクライマックスにおいては殆ど詩的表現となるのは、必然的なことなんでしょうね。

っと申し遅れましたがはじめましてでした。

Air−CLANNNAD両作品は確かに、言葉では語れない、人と生命と世界に対する「ある感慨」を私達と共有していて、これを解釈的・説明的に言葉で捉えることは不可能であるように思います。

アニメ版Airについては私はDVD待ちなんですけど、お二方の感想を拝見するに、その最もコアな「何か」を確かに共有しているようで、「観ずに死ねるか!」って感じです。

投稿者 Tito : 2005年3月11日 04:17

突然訪問します失礼しました。あなたのブログはとてもすばらしいです、本当に感心しました!

投稿者 ヴィトン バッグ : 2013年3月15日 13:57

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