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うわ、なにげに 2 ヶ月も更新してなかったですね;。というわけで今日は書こうと思ってたネタを一つ。
先日仕事をしていたときのこと。ある新製品に関する説明をコンパクトにまとめる必要があって資料を作成していたのだが、これがなぜかなかなか上手くまとまらない。内容についてはよく理解しているし、キーポイントになる点も分かっているし、説明のストーリーラインも概ね出来ているつもりなのだが、いざ書いてみるとかなりの分量オーバになってしまう。
はてさてこれはどうしたものだろう……と思い込んでいるときにはたと気づいた。コンパクトにまとめられない理由、それは知識をうまく丸めることができていないことであった。
業界や業種によっても異なるだろうが、最近のコンピュータ業界や医学業界などはまさに日進月歩の世界である。古い知識や常識がウソになる……ということはないにせよ、新技術や新製品が矢継ぎ早に開発され、有用性が認められればどんどん市場へと投入されていく。当然、その最前線でやっていくためにはそれらをどんどん吸収し、追いつき追い越していかなければならない。……のだが、人の記憶には限度がある。ある程度を超えれば全体像が見えなくなり、uncontrollable な知識の渦に巻き込まれ、破綻していく。個々の知識を覚えていても、それらを有機的に体系化することが難しくなってくるわけである。
そんなときに必要になるのが、「知識を丸める」という作業である。簡単に言えば、ディテール(詳細)に偏りすぎている知識を切り落としていき、エッセンスのみを残す作業である。
例えばコンピュータシステムを例に取れば、まず設計(アーキテクチャ)があり、これを Java や Visual Basic などの高水準言語で開発し、それがマシン語に変換されてコンピュータにより処理される。しかし今日の開発において、設計を考えている人がマシン語レベルでの内部挙動を考えていることはない。それは、「そこまで細かく考えなくても特に問題が生じない」からである。ところが、技術者は概してボトムアップ、つまり下からの積み上げで物事を学習するため、上位の水準で物事を考える場合でも下位の挙動を無視できない。結果、より高水準の新製品や技術が出てきても、下位の知識を切り捨てたり抽象化することができずに、知識のオーバフローに至ってしまうのではないだろうか。
もちろん、低水準の知識を「どの程度に丸めるか」というのは難しい問題ではある。あまりにも細かくしすぎると先に書いたように知識のオーバフローになるが、逆にあまりにも丸めすぎると今度は実態が伴わなくなる。かつては優秀な技術者だったはずなのに、いつの間にか「どう考えても実現できないような」理屈や理論を振り回したり、「現場がどうやっても回らない」ようなマーケティング施策をぶち上げている……なんていう話はないだろうか(私の身近には結構ある(^^;))。
兼ねてから技術者の限界年齢は 35 歳だとか 40 歳だとか言われてきたが、もしかしたらその原因の一つはこうした「知識が丸められないこと」にあるのかもしれない。ある程度は細部を残しつつも、『人が覚えきれる』程度に丸めること。それが技術者が技術者として生き残るための条件なのかもしれない。
……や、別に根拠はないですけどね;。でもなんとなくそんなふうに思ったり。
せっかくの GW だし、前々から書きたかったネタを一つ書いてみたり。
しばらく前の話だが、何人かの方々とメールをやり取りしていて、昔、社会人なりたての頃に先輩から指摘されたことを思い出した。それは、「感謝すべきところで謝ってはいけない」ということである。
「すみません、ついつい〇〇だったりしまして……。」
この言い回しは非常に便利で、日常的なシーンでもつい使ってしまうことが多い。例えば、会社で何か手助けをしてもらったときに「すみません、うっかり忘れてしまって」と言ってしまったり、あるいはお店でおまけしてもらったときに「いつもすみません」と言ってしまったりすることはないだろうか。
私自身そんなクセがあったのだが、あるとき先輩から「いやなんでそこで謝るのよ?」と苦笑いされながら指摘されて、はたと気が付いた。本来、感謝すべき文脈のところで「すみません」という言葉が口を突いて出ていることが多かったのである。
こういう言い回しはヲタクに多いように思う。相手に対して気後れがあったりすると、つい相手に対して恐縮して「すみません」という言葉が口を突いて出てしまう。常に自己反省を欠かないように意識している人(=常に失敗した部分のことばかり考えてしまう人)にも、同じようなクセが多いように思う。
しかしあまりにも萎縮しすぎているコミュニケーションは、相手から見ると気持ち悪いものである。実際、「すみません」から始まる文は、往々にして次のように続くことが多い。
「すみません」 → 内面の開示(〇〇だったんですよ) → 認めて&許して欲しい(また〇〇してくださいね)
相手に嫌われたくないという気持ちから「すみません」という言葉が出るにもかかわらず、言葉を重ねるほどどんどん逆効果になり、泥沼に陥っていく。相手が多少気の回る理解のある人なら、そういう性格を見て取って善意的に解釈してくれることもあるだろうが、そういうことが出来ない人だと、「こいつキモい」と思われて終わりである。
確かにとりあえず「すみません」と自分から一歩引いてみるのも時としては有効な手だし、常に自分のことを省ることは大切である。相手に対する気遣いが足りてなかったりするのは論外だし、謝るべきところは謝るべきなのも当然である。けれども、なんでもかんでも謝ってしまうと、感謝すべきモノすらも覆い隠されてしまうのではないだろうか。
ではどうすればいいのか。実は非常に簡単で、「すみません」と口を突きそうになったら、それを「ありがとうございます」に置換してみて不自然でないかどうかを考えてみる。これだけでよい。
「……謝るんじゃなくて、礼を言うべきだろ。お前がここにいられるのは、母親のお陰だろ」
「そっか……そうだよねぇ」
何度も何度も、佳乃は頷いた。前述した私の先輩は、上下関係を問わずよく的確にお礼を言う人だった。謝罪の言葉で始まるコミュニケーションより、感謝の言葉で始まるコミュニケーションの方が何倍も好転しやすいだろう。日常生活で感謝の気持ちを示せるシーンは意外に多い。なんとなく日常に疲れているようなときでも、感謝の言葉は欠かさないように心がけたいものだと思う。
# ……しまったオチがないよ、このエントリ。(^^;)
最近は blog ばっかり書いててこっちの雑記がすっかり手薄になっていたり(汗)。書きたいネタはいくつかあるんですが、タイミング逃すと微妙に書きづらいものも。そんなわけで今日は少し古めの話で恐縮ですが、ゆとり教育の見直しについて。
ご存知の方も多いでしょうが、先週、中教審(中央教育審議会)がゆとり教育の見直しを含んだ現行の学習指導要領の見直しに入ったとか。時期に失した感はあるとはいえ、ようやく見直しがかかるというのは喜ばしいことだと思う。
以前の雑記にも書いたことだが、いわゆる詰め込み教育に対する反省からスタートした「ゆとり教育」は、理念は正しくても実践としては無茶がありすぎると思う。ゆとり教育の理念に関してはこのページなどにうまく整理されているが、現実的にこの理念を学校という大量教育システムの中で行っていこうというのは相当に難しいことである。現場で活躍される先生方には、何かと気苦労も多かった難しいシステムなのではないだろうか。
詰め込み教育には非難もあるが、実は私などはむしろ詰め込み教育は(どちらかというと)正しいと思っているクチである。「ゆとりを持って、学習指導要領の内容を 100% きちんと理解させていき、落伍者を出さないようにしましょう」というのは理屈の上では正しいように見えるが、私からすると「そんな無茶な」と思ったりする。実際問題、私自身かつての学生時代を振り返ってみても、試験前日に徹夜で暗記するぞー!と頑張って覚えた内容なんて、今ではほとんど残っていない。試験当日には 10 の内容を覚えていたとしても、しばらく経って 2 〜 3 も覚えていれば御の字だろう。人間はマシーンじゃないんだから、最大瞬間風速はともかくも、しばらく経てばその記憶はこのみちゃんやいいんちょの笑顔で上書きされるのが人情というもの。
つまり、教える物事や学習する物事、その分量を決めるときには、「忘れる」ことを前提にして考えるべきだ、ということ。人によって「どの程度頭に残っているか」は異なると思うが、私の場合、仕事で 10 のことを覚えたいと思ったら、少なくとも 30 〜 50 ぐらいは調べたり頭に叩き込むよう努力するようにしている。っつーか、実際問題として記憶力がさっぱりな私の場合は、そうでもしなきゃまるで頭に残らないわけなんですよ(^^;)。
先日の雑記に書いたことと被るが、「取りこぼしなく、覚えた全部の内容を役立てたい」というのは、厳しく言えば勉強に対する姿勢の甘えのように私には思える。「取りこぼしがある」ことを前提にカリキュラムは組まれてしかるべきではないか、と思うのだがどうだろうか。かつての詰め込み教育がベストとは思わないのも確かであるが、せめて出してしまった赤字ぐらいは取り戻して欲しいと思う。
いやもう、ぶっちゃけ『あり得ない』クォリティとしか言いようがないんですが、これ(^^;)。
今までそれなりの数のコミックもアニメも見てきたつもりですが、『桁が違う』としか言いようがない出来。カレイドのように違う方向性での傑作はもちろん多数あるんですが、ある方向性への『突き詰め度合い』という意味で言うと群を抜いているという印象。まず作品への愛があり、かつ実力も伴い、コストもきちんとかけている。想いも力も兼ね備えたこんなアニメ作品は、もう二度と見られないかも。いや〜、ヲタクやってて、ホントによかった、ってヤツですね。
そんなわけで今日はちょっとした書評を一つ。「希望格差社会」という本について。
知人からの推薦で、山田昌弘氏の「希望格差社会」という新書を読んだ。著者の方はもともと「パラサイトシングル」という言葉を提唱した有名な人なのだそうだが、私は本書を読むのが初めて。一通り読んでみたが、読めば読むほど鬱になる、非常にシビアな『良著』だった。
本書の要点をなるべく簡単な言葉でまとめると、おおよそこんな感じになる。(乱暴ですが(^^;))
- ここ 10 年弱のビジネスの国際化などによって、社会に構造的な変化が生じた。個人の自由が高まる半面、個人が自分の行動に対して責任(リスク)を負わされるようになってきた。
- その中で人々は横並びで自分の生活レベルに対する過度な期待を抱く一方、実力が伴わない多くの人は頑張ってもきっと報われないという実感から、日常的な努力を放棄するようになり、ますます期待を実現できなくなる。その結果、勝ち組と負け組の二極化がさらに加速する。
- 負け組はリスクを先送りすることで自分の夢を維持しようとするが、10 年〜20 年後には破綻して、若者層が社会にとっての不良債権と化すだろう。
期待と努力は卵と鶏の関係なので、どちらが本質的原因と言うことは難しいが、本書は負のスパイラルに陥っている若者層の現状を極めて的確に捉えていると思う。例えば、結婚できないパラサイトシングル(←というか私のことですが(笑))に関する言説を引用してみよう。
理由はいろいろあっても、パラサイト・シングルは結婚相手のいない独身者であり、フリーターの大多数は、サービス業や専門職の下請け等に従事する単純労働者である。現実に送っている日常生活は、理想とする将来に結びつくわけではない。(中略) つまり、現実の日常生活と将来の理想的な生活に決定的な断絶があるのが、パラサイト・シングルやフリーターなのである。
この断絶に、「夢」が入り込むのである。パラサイト・シングルの語る結婚生活の夢は、男性ならかわいい奥さんが文句も言わずに家事をしてくれるといったものだし、女性なら収入が高くてかっこいい男性が、家事を手伝ってくれるといった夢である。(中略)
ここに、自己実現の罠が生じる。(中略) 結婚にも同様のロジックが働く。一度、理想的な結婚生活を夢見ると、理想の切り下げができなくなってしまうのだ。妥協すれば、いままで何で待っていたのだろうという後悔が出てきてしまうからだ。(中略) 理想の仕事や理想の相手に到達できなければ、今まで、フリーターやパラサイト・シングルをやっていたという「苦労」が一気に水泡に帰す。そういう状態に直面することを避けるために、フリーターやパラサイト・シングルをし続けなくてはならない状況に追い込まれているとも言えるのだ。
※ 山田 昌弘氏「希望格差社会」 p.217〜218より引用(下線は原著にはない)
うわーっ、すいません、ごめんなさい(汗)。……と謝りたくなるほど身も蓋もない、デリカシーのカケラもない分析。心情的には思わず反発したくなるが、冷徹ながらも非常に的確な社会分析を行っている。
階層振り分けパイプラインシステムとしての教育論なども交えながら、こうした現状分析に対して、山田氏は最終的に以下の二つのポイントを改善施策として提言している。
- 過度な期待の調整(冷却)システムの構築
- コスト(努力)とリターン(報酬)に対する正当な見積もりの提示システムの構築
端的に言えば、現在の社会構造に併せた形で、個々人の『身の丈』に見合った希望・期待を持たせる(場合によっては過度な期待を諦めさせることも含めて)ような社会システムを作り上げるべきだ、ということ。それにより、将来に対して「見通しが立たない」というリスクが抑えられ、社会を安定させることができる、というわけである。
確かに、心情的にこの結論や提言が納得できるかと言われると辛いものがあるし、実際、amazon の書評を見ていても、比較的多くの人たちが感情的に納得していない様子が窺える。しかしこの本が指摘している、「普通の人たち」(=ボリュームゾーン)を救う社会システムの欠如と、それによる若者層の不良債権化と社会の不安定化は、残念ながらおそらく正しい指摘だと思う。細部の正確性はともかく、「日本は将来的に立ち行かなくなる」という日常的な皮膚感覚と、具体的な客観データとをうまく橋渡ししており、総体としての議論は的確ではないだろうかと思う。一部に我田引水な議論もあるとはいえ、非常によくまとめられた良著であった。
私なりに敢えて一つだけコメントすると、個人向け施策と、ボリュームゾーン向け施策とは異なるものである、ということもきちんと書いておくべきではないかと感じた。本書の最後の提言には具体的な説得力がない、と批判している人が多いが、それはボリュームゾーン(=一般人)向けの議論を、自分自身(=個人)向けの議論と混同してしまっているからではないだろうか。本書は社会学的な視点からの施策(つまり『なるべくたくさんの人』をまとめて救うための施策)を議論しているため、その対策はかなり抜本的で大掛かりになってしまい、「現実性がない」と感じられてしまうのかもしれない。しかし、山田氏が描き出した『現在の絶望的な日本の状況』に対して、我々ひとりひとりがこれをどう捉え、どう対処するのかは全く別問題である。
例えば、本書の中では「横並び意識を改め、分相応の生活をして、お金の掛からない趣味や家族の団欒を楽しめば、幸せな生活を送れる」という考え方は無理がある、としているが、それはマクロ施策として『一般人全員』に適用するのが無理だと言っているだけであり、ある個人として見たときには、これが現実的な選択肢になることもある(実際、そうやって心豊かな暮らしを手に入れている人たちもいる)。つまり、社会システムとして「多くの人たちをまとめて救う」施策は難しくても、個々人のレベルで見た解決策(=自分にのみ当てはまればよい解決策)には、様々なものが考えられるのではないだろうか。
そういう意味で本書は、20 代や 30 代ぐらいの人たちが、「今」の自分の在り方、これからどうすべきかを改めて考え直す、いいきっかけを与えてくれる一冊ではないかと思う。予備知識も全く要らず、ゆっくり読んでも一週間とかからず読めるだろう。もともと学生向けの講義をまとめ直したものらしいが、先行きどうなっても構わないという世捨て人でもない限りは、この本を読んでちょっとだけ頭をひねって考えてみてもいいのではないだろうか。むろん夢や希望なしで人は生きていけないが、かといってそれらが『奇跡』によって皆に等しく天から降り注いでくるほど、きっとこの世の中は優しくない。そう、
『起こらないから奇跡って言うんです。』
っていうことである。(←これが書きたかったのかよ、おい(^^;))
なんだか先週半ばあたりからなかなか風邪が治らず。良くもならず悪くもならず、という微妙な状態が 1 週間近く続いてるわけですが、そんな最中にもかかわらず、友人たちと 5 人で劇場版 AIR を早朝観賞。……がしかし、これがまた微妙な……(^^;)
えー、まず先にお断りしておきますが、このインプレはあくまで原作ファンが 1 回だけ見たのみでの感想です。あまり冷却期間も置かずに書いているので、的外れな部分も正直言ってあるかと思いますが、その辺は差し引いて読んでもらえると助かります。……と前置きかきかき。(^^;)
※ 以下、劇場版 AIR のネタバレありますのでご注意ください。
正直なところ、劇場版 AIR は時間の制約(90 分)などを考慮しても原作通りになるとは思えず、もともと監督の出崎氏が原作を壊してくることで有名と聞いていたので、逆に AIR という作品をどう料理してくるのだろうか? というぐらいのつもりで見に行った。……のだが、その出来はと言えば、率直に言って非常に苦しいものだった。
見終わってからあれこれ考えてみたのだが、劇場版 AIR のまずさを一言に集約するならば、様々な意味で「中途半端」だったこと、だと思う。
◇ 劇場版の中で閉じきっていないエピソード
多くのところで、原作との舞台設定やキャラ設定などがあまりに原作と乖離していることに非難が上がっているが、私は原作の様々な設定をぶち壊したことそのものが問題だとは思わない。そもそも劇場版という 90 分の尺で同じ設定を再現できるとも思えないし、やったところで TV 版 AIR のダイジェストとなるのがオチだろう。そういう意味で、例えば、呪いの設定を「告白すると体に変調を来たす」などといった具合に、「90 分ものアニメ」として分かりやすいものに作り変えていることは私としては歓迎したい。
しかし問題なのは、そうでありながらも設定やその意味付けが『劇場版 AIR』の内部で閉じきっていない、という点である。
劇場版 AIR は極めて散文的に物語が作られているが、そのバックボーンにあるものとして都合よく原作の設定を間借りしているように思う。例えば、最初は海を見たいと言い出した神奈が、後半ではいつの間にか母上に逢いたいという話に摩り替わっている。あるいは、観鈴が往人に入れ込んでいく途中過程を全部すっ飛ばして、いつの間にか往人を誘惑までしてしまう。こういった「行間」は、劇場版だけでは埋め切れていないのではないだろうか。(一度見ただけなので、この辺は私の見方が甘かった可能性はあるが)
個人的に特に致命的と思えたのが、観鈴の髪を切るシーンと、その後に続く浜辺のゴールシーンである。原作では、観鈴が髪を切ることには晴子との母娘関係をやり直すそのスタートという意味が篭められていたし、浜辺のシーンには、逆に母娘関係を一通りすべてやり切ってゴールインして一生涯を閉じる、という意味が篭められていた。しかし、劇場版ではこれらのカットに対する『意味付け』が十分に出来ていない。このため、劇場版単品で解釈すれば「訳の分からない唐突な」カットになってしまうし、逆に原作からその背景設定を間借りして来れば、(頭の中でうまく「都合よく」再解釈してあげないと)今度は劇場版の独自設定と原作設定との間に齟齬を来たしてしまう。
ピースとして借りてくるのは構わないのだが、そうであるのなら『劇場版』のみで完結しうる新しい意味付けを与えて欲しかったと思う。原作にあった「意味付け」を借りること、ひいては原作にあった『感動』を間借りすることは、作り手としてちょっと卑怯ではないだろうか?
◇ 絞りきれていないテーマ
意味付けが不十分になってしまったのは劇場版の尺の短さゆえというのもあるのだが、私にはテーマを絞りきれなかったという中途半端さも一因しているのではないかと思う。
まず、劇場版 AIR のテーマは、@ 恋愛物語、A 親子の関係と絆、B 1000 年の大きな物語、の 3 つだと思うが、これは基本的に原作も同じである。しかしこの 3 つの要素は、原作ではその背後にある麻枝&涼元ワールドの大きな思想によって包括されている。つまり、原作には『進化』(人の想いを受け継ぎ、明日の幸せを願い、未来へと一歩を踏み出していく)という基本モチーフがあり、その基本モチーフの中で 3 つのテーマが一貫性を持って語られる。そうしたバックボーンがあるからこそ、悠久の物語の中での『ひと夏のささやかな物語』と『人々の生き様』が限りない輝きを放つ。しかし、その根幹部分を描くための翼人と 1000 年の呪いという設定がごっそりと抜け落ちてしまっているため、上記の 3 つのテーマは、ただの独立した 3 つのプロットになってしまっている。端的に言えば、3 つのテーマが一つの作品の中で噛みあっていない、という印象を受けた。(最後のゴールシーンで、なぜ晴子と往人が並んでいるんだ、というツッコミが多数あったが、上記のようなことを考えれば当然のツッコミだろう。) それでも無理に 3 つのプロットをなぞろうとするから、尺が足りず、生き様の描き込みも通り一遍になってしまっているのではないだろうか。
だったら、いっそどれか一つのテーマに絞るべきではないかと思う。@に絞るのなら神奈の話も髪を切る話もゴールシーンもカットすべきだと思うし、逆にAに絞るのなら二人の間の微妙な関係をもっと手厚く描いた方がよかった。そうすれば、劇場版の尺でも十分に収まったのではないだろうか。
(余談だが、パンフレット掲載の準備稿の方が良かったという意見も散見されたが、個人的には異を唱えたい。あの準備稿はいわば原作からのカット&ペーストだから良いのだが、とても 90 分の尺に収まるものではない。)◇ 作品テーマを十分に消化できていない作り手
私はインタビュー記事などの事前情報を一切見ずに行って上記のような感想を持ったのだが、帰りがけに友人にいくつかのインタビュー記事などを見せてもらって、どうしてこういう作品になってしまったのか、という見当がついた。
むろんインタビュー記事は額面どおり受け取れるものではないし、しょせんは憶測なのであまりあれこれ書くことは避けるべきだろう。しかし、出崎監督も脚本の中村氏も、自分たちの持つ枠組みの中でしか、AIR という物語を捉えられなかったのではないだろうか。先に書いたように、劇場版 AIR のテーマが個々に独立した 3 つのプロットの集合体になってしまっているのもそう。端的に言えば、原作 AIR の表層部分を形だけ真似ている感が拭えない。
そもそも AIR という作品に関しては 2ch AIR スレッドの Wiki や Kカスタネダ氏、あらえる氏、あるいは私自身など、すでに様々な考察サイトが山ほどある。趣味でやっている観客サイドですらこの程度の物語理解はしているのだと考えると、(大変失礼だとは思うが)制作をする人たちの作品理解がこの程度でいいのだろうか?と頭を悩ませてしまう。
個人的には、出崎監督には(準備稿をすべて読み返すぐらいなら)せめて原作テキストをすべて印刷してざっと目を通す、ぐらいのことはして欲しかった。確かにゲームをプレイするとうざったいものだが、テキストを抽出して読みやすく印刷すれば、たかがしれている分量である。そもそも不十分だと感じている脚本家からの伝言ゲームで原作を理解しようなどというのは、創作一般に対するリスペクトに欠ける行為ではないだろうか。もし出崎監督が、ほんの数%でも謙虚に他人の著作を受け止める姿勢を持っていたのであれば、全く違った結果になったのではないか。そんなふうに思えてならない。
私として返す返すも残念なのは、比較的制約条件の少ない(ある意味では原作を著しく崩すことも許された)環境であるにもかかわらず、原作/オリジナルの狭間のどっちつかずの非常に中途半端な作品に仕上がってしまったということである。原作を壊すというのなら徹底的に壊して、全くオリジナルストーリーにしても構わない。「借り物」でない、オリジナルの劇場版『AIR』の感動を作り上げて欲しかった。
もっともつらつらと思いつくままに書き連ねてみたが、今回一緒に劇場を見に行った 5 人の中では、肯定派 2 人、否定派 3 人と票が分かれたのも事実。肯定派の両名は「原作から切り離して出崎アニメとして見れば」という言い方もしていたので、そういう視点で見ればまた違った面白さがあるのかもしれない。少なくとも現時点では私には原作から切り離してもこれといった面白さは受け止められなかったが、また時間を置いて見返すと違った面白さが見えてくるのかもしれない。
なにはともあれ、今日はどっと疲れました……うぐぅ。風邪も微妙に悪化してるような。(汗)
# あ、もしツッコミありましたら掲示板へどーぞ。(^^;)
今さらもいいところだが、先日、プリンセスチュチュ全 26 話を 3 日ほどで一気観賞(^^;)。前半戦はかなり首を傾げながら見ていたのだが、後半戦のラストスパートが凄まじく、最終話では見事に泣かされる始末(苦笑)。いやはや参りました、という感じ。
もちろんチュチュの作品の魅力の一つに、様々なバレエやオペラ作品のオマージュになっていることが挙げられると思うのだが、私はその方面には全く造形がないし、そうした魅力はすでに多くの Web サイトで語り尽くされている様子。そこで、私はちょっと視点を変えて、メタフィクションとしてのプリンセスチュチュの面白さについて考察してみたいと思う。(以下、作品のネタバレがあるのでご注意を。)
一応念のためにメタフィクションとは何かについて解説しておくと、『作品の内部から作品の構造そのものについて言及することで、視聴者や読者に「作品の構造」に目を向けて考えさせるように意図的に仕組まれた作品』のことを言う。例えばこの作品の舞台である金冠町という町の物語は、作中に出てくるドロッセルマイヤーによって紡がれているが、それはプリンセスチュチュという作品そのものが、佐藤順一氏らをはじめとする制作スタッフ陣によって作られ語られていることと符合する。このように、メタフィクションでは、作品中に現実世界の投影を持ち込んだりすることで、作品の外の世界、つまり現実世界に言及したりしていく。例えば CROSS†CHANNEL や Prismaticallization、未来にキスを などを初めとするその手のゲームは、まさに作品の内部から現実世界を語るための舞台装置として、メタフィクション構造を見事に活用している。あるいは、某 E〇〇〇〇〇 (一応伏字)のように、叙述トリックのための道具として利用されたりすることもある。
しかしこの作品におけるメタフィクションは、全く異なる目的、すなわち作品のテーマをより強固に描き、作品中のキャラクターたちの実在感を増すための舞台装置として使われているように思う。これについて、以下にもう少し私の考えを述べてみたい。
そもそもこの作品の舞台設定やストーリーラインには、恣意的なところが非常に多い。例えば、あひるがみゅうと(王子)を好きになった理由は「ヒロインが王子を好きになるのは物語の当たり前」として全く語られていないし、あひるが心のかけらを集めていくことで状況が次々と悪化していくことも「努力すればするほどどんどん不幸になっていくのは物語の当たり前」として扱われている(しかもこれらはご丁寧にもドロッセルマイヤーのツッコミつき!)。
この作品がこうした「物語のお約束ごと」を前面に押し出している理由は、本作が『与えられた運命への抗い』をテーマとしているからであろう。例えば第 1 クールのラストで、あひるやふぁきあたちは、ドロッセルマイヤーが作った設定(例えば王子に愛を告白すれば光の粒になって消えてしまうとか、決して王子を救うことができない騎士、といった作品の設定=「与えられた悲劇的な運命」)に対して、精一杯に逆らおうと努力する。(余談だが、第 1 クールの中では、ドロッセルマイヤーに心を与えてもらえなかったあやつり人形のエデルがその設定に逆らい、最後にあひるに触れて「暖かいのね….それに柔らかい…」と語ったシーンが、私には非常に印象的だった。) 敢えて作品世界が「作られたものである」ことを前面に押し出すことで、そうした作品のテーマをより強固に描くことに成功しているのではないだろうか。
このテーマは第 2 クールにも継承されているのだが、本作の凄いところは、第 2 クールでは作品のメタフィクション構造をさらにうまく使ったことで、同じテーマをより強固に見せてくれた点にあると思う。
例えば、第 2 クール後半で現れる「図書の者たち」。彼らは本の最後のページを切り捨てることで意図的に物語を止め、悲劇の訪れや痛みを忌避し、幸せな時間を永久なものにしようとする。あるいは、あひるは心の底では「みにくいあひるの子という本当の自分に戻ること」を恐れてしまい、ペンダントを外すことができなくなってしまう。こうした「無理をしなくてもいい、そこそこ居心地のいい今のままでいたい」という感情は、実は今の若者世代(私も含めて(^^;))の多くが持つ、割と普遍的な感情ではないだろうか?
あひるやみゅうと、るう、ふぁきあなどがドロッセルマイヤーという「この世をあやつる物語の紡ぎ手」に弄ばれるように、我々もまた運命という名のいたずらに翻弄され、与えられた物語の中で自分の無力感を日々感じている。そんな中で、「これ以上不幸になることは避けたい、問題は先送りしてとりあえず今のままでいたい」と思うのは無理のないことかもしれない。しかし仮に自分がみにくいあひるの子でも、それを受け入れ、それでもなお自分の物語の中に還ってハッピーエンドにしようともがくことは、人間として現実世界にコミットし、生きていくことに他ならないだろう。最終話で、あひるが本来のあひるの姿に戻り、カラスたちの中央(=つらい現実)で踊る姿。あるいはふぁきあの自分の中にある恐れの気持ちとの戦い。彼らはせいいっぱいの努力で、自分たちの物語をハッピーエンドにしようともがく。それは、我々と何ら変わらない、『現実世界に生きようとする、ホンモノの人としての心のカタチ』ではないだろうか?
メタフィクションとして描かれた「閉じた世界」の中の者たちの、作られた世界への抗い。それは我々の日常的な閉塞感と重なる。だからこそ、「たかがおとぎ話の中のキャラクターたち」であるあひるやふぁきあ、みゅうと、るうたちの中に、人としての強い想い、我々と何ら変わらない確かな『魂』の存在を感じるのではないだろうか。
#21 以降はアクロバティックとしかいいようがないような薄氷を踏む展開で、特に #23 の時間巻き戻しは、メタフィクションとしても反則スレスレの大技だったと思う。しかしこの作品の場合、そういうふうにメタフィクションであることを最大限に活用したことが、むしろキャラクターたちの実在感を強め、彼らの思いや気持ちを我々に強く感じさせるための舞台装置として極めて有効に働いたように思える。最後まで一通り見てみると、あれほど乱暴で無茶な展開がまるで気にならなくなり、むしろ物語の終着点ではそのハッピーエンドを深めるために一役買っているというのは、驚きというより他にない。『作り物』であることを意図的に強調することが、逆にその中にいるキャラクターたちの感情を『作り物ではない』と思わせてくれるのに一役買うという不思議な逆説的関係。いやはや、メタフィクションにはこんな使い方もあるのか!? と、私にとっては目から鱗の体験だった。
……っていうか、理屈はともかく、全編通してふぁきあカッコ良すぎ、#24 と #26 のるうちゃんも反則なぐらいにかわいい(^^;)。るうちゃんなんか、全然萌えキャラじゃなかったのに、最後には一番おいしいところを全部かっさらっていったような気がするのは私の気のせいですか??(汗) いや〜、ラストシーンには泣かされましたよ、ホントに。
この前の土日はいわゆるセンター試験だったわけだが、新聞で問題を見てたら数学の試験にコンピュータのプログラム(BASIC)の問題が(^^;)。正直なところ隔世の感があって驚いたのだが、ふらふらと Web サイトの日記を巡回していたら、「学生に今さら BASIC の問題なんて解かせてどうするんだ」という趣旨の非難が書かれていて、思わず「??」と首を傾げてしまった。
コンピュータに詳しい方ならご存知かと思うが、BASIC はすでに実際の開発現場では使われていない古典的なコンピュータ言語である。現在では Java や C#、Visual Basic といった言語、モノによっては C/C++ や COBOL、自然科学分野であれば FORTRAN といった言語が使われており、もはや BASIC が出る幕は皆無。そういう意味で、「BASIC なんて今さらやってどうすんの? まるで使えないじゃん」という非難は一見的を射ているように思える。
確かに、「どうせ勉強するなら実際に役立つ知識を学びたい」という考えは気持ちとしては分からなくもない。しかし、高校から大学までの勉強は、論理的な思考力の育成や、過去の歴史を学ぶことによって得られる情緒の育成といったところに本当の価値があるのではないかと思う。
だって、考えてもみて欲しい。ほとんどの社会人にとっては、BASIC はおろか、物理も化学も数学も古典も、まるで役に立つものではない。小学校の九九や四則演算はともかくとしても、高校から大学にかけて学ぶ「小難しい」知識の類は、研究職などのその筋の専門家でもない限り即戦力として役立つような知識とは言い難い。しかし、だからといってこれらは無駄な勉強かというとそうでもなく、こうした高度な概念を学習することを通して得た論理的思考力は、どんな仕事にも応用が効くわけだし、過去の歴史や古典的名作に触れることで得た情緒は、その後の人生を豊かにしてくれるものであろう。そうした『カタチとしては残らないモノ』こそが、高校や大学時代の『役に立たない』学習で得られる最大の収穫なのではなかろうか。
世の中の多くの職業は、高校時代や大学時代の知識で済まされるほど甘いものではないだろう。むしろ社会に出て本当に役に立つのは、そこで学んだ知識そのものではなく、その学習から培われたモノではないか。そういう観点からすると、それ自身が即戦力になる知識でなくとも、まず最初にとっつきやすい言語である BASIC を通してプログラミング的な思考に慣れていく、というのは、多くの一般人にとっては決して悪い選択肢ではない(むしろ適切かつ現実的なアプローチである)と私には思えるのである。
……などとつらつら書いている最中に、かつて久しぶりに大学時代の恩師を訪ねたときのことを思い出した。その恩師に、卒業後に研究分野とは全く違う業界に就職してしまって、学生時代にいろいろ親切に教えて頂いた知識が生かせなくて申し訳なく思っている、という話をしたら、あっさり軽く笑い飛ばされた。
「何言ってるんですか、〇〇君。そんなの、大学の研究職に残ってたって同じだよ。」
おっしゃる通りだ、と思った。研究職に就いたところで、数年単位で研究内容や分野を変えていかなければ食い続けていくことなど出来ない。そこで本当に役に立つ一番の資産は、過去に学んだ知識ではなく、そこで培われた『論理的思考力』であり、『経験』である。研究職だからといって学生時代の知識がそのまま役立つほど甘い世界ではないという当たり前のことを指摘され、恥ずかしい思いをしたことが今でも記憶に残っている。研究職ですらそうなのだから、一般的なサラリーマン職業であれば言わずもがな、であろう。
そういう意味で、掲題の「学校は何を学ぶところか?」という問いに私なりに答えるのであれば、
学校とは、知識を学ぶところではなく、論理的な思考力や情緒の育成といった、カタチにならない財産を身に付ける場所である
と思うのだが、どうだろうか?
# いやそれはキレイゴトだろ、とかツッコミ受けそうな気もしますが……。(汗)
……なわけですが、前クール分を消化しきっていなかったりする今日この頃(^^;)。今日はリリカルなのはについて手短に。
※ 以下、なのは最終回のネタバレありますのでご注意を。(^^;)
とらハシリーズの番外編シナリオのアニメ化。リリちゃとは随分作品設定も違っていたものの、総じて言えばさすが都築氏と唸らされる内容。前半戦は今一つ盛り上がりに欠けたが、後半戦の持ち直し具合は見事なもので、ラスト 3 話(#11〜#13)の展開や演出には目を見張るものがあった。
落としどころもあいかわらず上手い。最後まで母親に名前を呼んでもらえなかったフェイトが、自分から友達の名前を呼び、一歩を踏み出し始めることによって物語は幕を閉じる。それは広げた風呂敷に比べるとあっさりしすぎているほど小さな幕引きかもしれないけれど、そんな平凡でささやかな結末が持つ暖かさが素直に心地よい物語だったと思う。こういう結末のカタチは、都築氏ならではだろう。
もっとも、不満点がないわけでもない。一番の不満は、とらハの背後にある『重たさ』を感じさせる部分が弱かったという点。特に、なのはが背負う重さがきちんと描き込まれていないため、フェイトが背負う重さに対するバランスが悪い。物語の落としどころが「友達」であるのなら、なのはにとっての「友達」の重みをもっと丁寧に描き込んでおく必要があった。この役割を担うのが、なのはの友達であるアリサ・バニングスや月村すずかといった新キャラだったはずなのだが、前半戦に十分な山場がなく、むしろなのはと彼女たちの『距離感』ばかりが目立ってしまった節がある。なのはにとっての友達というのが、平凡な日常の中で、一緒に泣いて笑って怒っていられるかけがえのないものであるということをもっと説得力を持って描けていたら、なのはがフェイトにかけた言葉は全く違った重みを持っていたのではないだろうか。
とはいえ、今クールのアニメとしては屈指の出来。こと #12 A パートで踏み出していくフェイトの姿と、#13 B パートの解放劇は素晴らしかったとしか言いようがない。出来ればまた再び、都築氏脚本の TV アニメを見てみたいものだと思う。
あー、でもやはり最大の不満事項は、愛さんが出てきたのに那美さんが出てこなかったことですが(笑)。
自分はといえば、あいもかわらず自宅に篭もってヒッキー状態。というか、溜まってる仕事も早めに掃いておかねばというわけで元旦早々から会社の仕事をしていたのだが、年末のコミケ〜忘年会ラッシュがなにやら体に堪えている様子。(苦笑)
そんなわけでちょっと逃避ぎみに雑記を書いてみたり。今日は先日書き残した PSP について。
実を言うと PSP はもともと購入予定ではなかったのだが、発売日前日にリッジレーサーズが過去のコースの再録があるということを知って急遽早朝行列に並んで購入してみた。巷で数多く言われているように、ハードウェアスペックとしては従来の携帯ゲーム機と一線を画すもので、16:9 の高精細ディスプレイや予想以上の高音質内蔵スピーカ、内蔵無線 LAN、ディスクメディアでありながらも 3〜4 時間程度は駆動するバッテリ、しかもこれが(ダンピング的価格設定とはいえ) \20k 程度の価格というのだから凄い時代になったものだと思う。
PSP を購入し、いくつかゲームをプレイしてみて思ったことをつらつらと。
- レジューム機能が非常によく出来ている。
- 基本的にはゲームやそのタイミングなどを問わず、ハードウェア的にいつでもスリープできる、というのが素晴らしい。携帯ゲーム機であれば必須なのだが、きちんとこれを可能にしていたハードは今までなかった。
- やむを得ないとはいえ、外部出力がないのが大きな減点事項。
- PSP は外部出力を持たないため、TV に映してプレイすることができない。理由ははっきりしないが、技術的に見ると、おそらく PSP 本体の解像度が 480x272 ドットしかなく、携帯機としては美しいもののテレビに映してしまうと粗さが目立ってしまうことも一因しているのではないかと思われる。が、やはり不便。
- ギャルゲー会社にとっては大きなビジネスチャンスか?
- 携帯ムービープレイヤーの HMP-A1 を利用して分かったことなのだが、出先で楽しめる携帯機に向いているコンテンツの条件として、「あれこれ操作しなくても遊べる or 楽しめるもの」というものがあると思う。特に電車内やコミケの行列、あるいは会社帰りの食事中などでは『ながら』プレイができるもの、というのが非常に重要なのだが、ギャルゲーはその条件にピタリと合致する。
でもって、なんといっても楽しいのがインターネット対戦。詳しくは PSP Wiki の XLink の項を参照していただきたいのだが、簡単に言うと、パソコンに無線 LAN アダプタを付け、PSP からの通信を PC 経由でインターネットに送る(=PC をブリッジとして使う)ことによって、本来なら直接通信が必要な無線 LAN 対戦をインターネット経由で対戦可能にしてしまおう、というもの。とりあえずみん GOL ポータブルをネット経由でやってみたのだが、これがめちゃめちゃ楽しい。(^^;) チャットしながら楽しめるのでかなりお勧め。PSP をお持ちの方は上記ページを参照して、是非トライしてみて頂きたい。参考までに、設定などのポイントを以下に整理。
- LAN カードとしては USB タイプのものが便利(私は MELCO の WLI-USB-KB11 を利用)。Windows 2000 で利用する場合には、Client Manager 2 などの SSID 設定ツールもインストールする。
- LAN カードのネットワークドライバとして TCP/IP プロトコルを入れ、IP アドレスにダミー値を振る。(例: IP アドレス = 169.254.105.217、サブネット = 255.255.255.0、デフォルトゲートウェイや DNS サーバ = 無指定) ※ この IP アドレス自体は実際には利用されないが、XLink Kai のドライバをアタッチするために必要な模様。⇒ (2005/01/04 追記) どうも TCP/IP ドライバ自体を取っ払ってしまっても問題ないらしい。
- ネットワークルータの設定を変更し、ポート 30000 を XLink Kai を動作させるマシンに振り向ける。
- PSP Wiki XLink 紹介ページにある設定をすべて行う。
- PSP のゲームの対戦モードに入ると無線 LAN が起動するので、この状態で PC 側の SSID 設定ツールを起動し、SSID を拾って PSP と AdHoc 接続する。(ゲームごとに SSID が違うので、ゲームを変えた場合には再設定が必要)
- AdHoc 接続できたら XLink Kai を起動。PSP の接続状態をチェックした上で、ゲームの種類を選択する。
ちょっと複雑なとこもあるのでスクリーンショットもつけた方がいいかも? なにはともあれ、3,000 円程度の USB 無線 LAN アダプタを購入するだけでインターネット対戦が出来るので、PSP をお持ちの方はやってみる価値はあるかと。
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