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智代アフター 〜It's a Wonderful Life〜 (★×4) ネタバレインプレ

 というわけで時間がかかってしまいましたが、智代アフターのネタバレインプレです。長文だし、反転しちゃうとめんどいので反転なしで。思いっきりネタバレしてるので、未プレイの人はスルーしてください;。

 この作品を地雷判定している人の多くは、作品のテーマを「永遠の愛(変わらない愛)」と考えて、ラストで朋也と智代が共に歩んでいけなくなってしまうなんてあり得ない(あるいは後味が悪い)と非難している様子。けれども、そういう即物的な物事の捉え方をしたり、死別・離別といった表面的な部分をなぞっている限り、この作品の本質に近づくことはできないように思います。

 結論から先に書いてしまうと、この作品は「努力だけでは叶わない現実による挫折」というキーワードから読み解いていくと分かりやすいです。

 本作では、「人生の宝物」という言葉がキーワードに使われていましたが、「人生の宝物」とは何か。「智代」とか「永遠の愛」とか、あるいは「二人で過ごした幸せな記憶」といった解釈をしている人が多そうですが、それはちょっと違う。というのも、幸せな思い出、楽しい思い出、嬉しい思い出などが「人生の宝物」になるのは当たり前なんですよね。

 確かに実際問題として、世の中には、当人の努力次第で幸せな思い出や楽しい思い出を作っていくことが可能なものは結構ある。本作の前半ルートでは(やや芝居がかった話が多い点について目をつぶることにすれば)智代や朋也、河南子、鷹文などのおせっかいや努力によって、みんながハッピーになっていく。その擬似的な家族による共同生活によって紡がれたのは、確かに楽しい思い出であり、これが『人生の宝物』になるのは当たり前。

 けれども現実は、努力すれば必ず成功するというものではない。朋也のように常に負けないように頑張ったとしても、(大小の差や難易度の差はあれ)自分の力だけではどうにもならないことは必ずある。それは受験に失敗することかもしれないし、就職に失敗することかもしれないし、失恋することかもしれないし、世間から謂れのない誹謗中傷を受けることかもしれないし、大切な家族を事故や病で失うことかもしれない。多くのギャルゲものは「零れ落ちる奇跡のカケラ」でこれらがハッピーエンドになってしまうものですが、実際の現実はそんなに甘くはない。本作の場合には、有子さん(ともの母親)の死に至る病であったり、朋也を襲った事故であったり、朋也を死に至らしめる手術の失敗であったりする。そうした、『当人の努力だけではいかんともしがたい』挫折や不幸、悲しみというものは、現実世界には必ずあるんですよね。

 こうした「当人の努力だけでは回避できない」不幸な事実や結末は、文字通り『どうにもならないこと』。けれども、そうしたことから生まれる悲しみは、忌避することや忘れることでは解決しない。乗り越えていかなければならないものなんですよね。

「とも…これから、どんなことがあっても…どんなつらいことがあっても…
 私はのりこえてみせるから…だからともも…がんばるんだぞ…」
「うん」
力強く、ともは頷いてみせた。
「どっちがつよくなれるか、競争だな…まけないぞ…」
「うん」


 智代アフターにおける朋也は、こういう『どうにもならないこと』に対して、「どうにもならないかもしれないけれど、とにかく頑張ろうとする」キャラとして描かれている。それは一見無謀かつ無駄に見えたりするけれども、実はものすごく大切なこと。なぜなら、それが、現実的にどうにもならない理不尽に対する唯一の対抗策だから。

 もちろんどこまでやっても失敗することはあるし、もっと出来たのではないかと後悔することもある。けれど、「自分はここまでのことをやった、けれどもうまくいかなかった、だからどうにもならなかったことなんだ」と自分を諦めさせざるを得ないほど全力で頑張ることが大切。そうすることによって初めて、時が経って振り返ったときに、苦い後悔だけではなく、いろいろな感情を伴った『思い出』としてそれが想起されるようになる。その積み重ねこそが、その人にとっての人生の宝物なんだと思うんですよ。

 こうした気質を持つ朋也に対して、智代の方は物事に依存する気質を持っている。それは最初は朋也であり、その次はともだった。彼女は、その物事から見返りや結果としての『成功』を求めてしまう、一種の依存症を持ったキャラなんですよね。実際、彼女は天賦の才を与えられていて、努力次第でなんでもこなしてしまうし、結果的になんでも得てしまう。ところがその彼女が、自分の力では初めてどうにもならないことにぶち当たる。それが「とも」であり、それをきっかけに、彼女は変わっていく。

 けれども、実際に目の前に『どうにもならないこと』(=朋也を襲った記憶喪失)が現れたとき、やはり彼女は失うことを恐れてしまう。朋也を失うかもしれないというリスク(挫折)を忌避しながらの三年の月日を経て、手術を受けた末、彼女は初めて、自ら達観に至るんですよね。

 逆境を乗り越え、永遠の愛を信じて、
 ひたすら信じて、ふたりで生きた日々があるんだから。
 それは私だけの宝物だ。
 かけがえのない宝物だ。
 苦しくて、胸が張り裂けそうなこともあった。
 泣き叫んだときもあった。
 そんな日々があったからこそ、今、すべてが輝いて見える。

 彼と出会ったことも、彼と過ごした日々も、絶望した日も、
 ひとりで 泣き続けた日も、
 これから歩んでいく道も、
 過去も、未来も、
 すべてが、あの日見た夕焼けと同じように、輝いて見えた。


 成功体験だけが人生の宝物ではない。
 人生の宝物、それはその人が頑張って生きた日々、全力で戦い抜いてきた日々そのもの
 そういう生き方をしていれば、きっと、つらかったことや悲しかったことすらも、すべてのものが美しく、輝いてみえる。

 多くの(特に若い)プレイヤーにこの物語が届かない(共感してもらえない)のは、そういう体験をしたことがない or 感覚的に分からないから、じゃないかと思うんですよ。例えば、どんな人でも自分の家族や愛しい人が死に至る病に冒されれば、おそらくはすべてを投げ打っても全力で頑張ることでしょう。けれども、そうした経験のない(ある意味では幸せな)人の場合、「どんなに努力しても届かないものがある、かなわないものがある」という挫折を味わったことがあんまりないんじゃないかと思うんですよ。現代っ子って、全力で頑張っていない(だから失敗しても挫折感すら味わうことがない)か、頑張っていたとしても失敗したときに逃避行動に走る(気分を紛らわせてそのことを忘れようとする)ことが多いんじゃないかと思うんですよね。希望格差社会の言葉を借りていうのなら、挫折を先送りすることで今の自分を繋ぎとめている人が多いんじゃないか、と。けれども、それでは人生の宝物(=かけがえのない思い出や記憶)は作れないよ、というのが本作の主張だと思うんですよ。

 つまり「人生の宝物を探しに行こう」というのは、要するに『どんな苦難があっても、全力で頑張って生きていこう』、っていう、プレイヤーに対する応援のメッセージだと思うんですよね。(特にエピローグの智代のモノローグは、麻枝氏からのプレイヤーへのメッセージとしてのダブルミーニングとも取れますよね。)

 生きていればいろんなことがある。嬉しいこと、楽しいこと、喜ばしいことばかりではない。ゲームのようにハッピーエンドになるばかりではない。けれども、たとえその結末が受験の失敗でも永遠の愛でも記憶喪失でも死であろうとも、本人が全力で頑張ったその結果であるのなら、それはかけがえのない人生の宝物になる。(よって、大きな視点に立って言えば、智代にとっては朋也のことだけが人生の宝物というわけではない。とものことも、鷹文のことも全部が智代にとっての宝物。極端に言えば、失われた 8 ヶ月すらも彼女にとってかえがえのない宝物。)

 だから、敢えてこの作品のテーマを言うのであれば、それは "It's a Wonderful Life"。つまり、「生きていくこと(Life)そのものの尊さと素晴らしさ」だと思うんですよ。(このサブタイトルも非常にシャレてていいですね。)

 全体のストーリーライン自体は極めて予定調和的で、話の展開も旧作の穴を埋めるところからスタートしているので、プレイしていてどういう展開になるのかは見え見え。というのも、前半戦のテーマは変わらない愛と変わっていく人間で、CLANNAD 全体のテーマとして現実の理不尽による挫折がある。となれば、究極的には死ぬか記憶喪失。前半戦で記憶喪失というキーワードが出てきたこと、ヒロインが死んでしまうのは渚アフターでやってしまっているので、そうなると記憶喪失しかない。加えて、途中でモノローグが智代による後日談であることにも気付いてしまったので、最終的に主人公が亡くなってしまうであろうことも推測がついてしまうという始末。……にもかかわらず、後半戦でテーマを一段上に昇華させて、ここまで人を感動させることができるのはさすがとしか言いようがない。こういうところについては、さすが麻枝氏、と唸らされるところ。

 ただ、かといって手放しで褒めにくい作品でもあるんですよね。というのも、作品全体がテーマ優先で作られていて、「それはさすがに無理ありすぎ」と思われる設定やシーンがいくつもある。例えばアフター部の奇病難病は一人称視点のトリックを使うためにああならざるを得なかったんでしょうが、それにしても無理がありすぎる。あるいは有子さんが身を寄せた村にしても、たかが数日間で村の様子がまるで変わるのも、さすがにファンタジーの度が過ぎるといわざるを得ない。テーマ的必然はあっても、物語としての説得力には欠ける点が結構あるんですよね。そういう意味で、★× 5 じゃなくて × 4 ぐらいかな、という感じです。

 それにしても、CLANNAD 本編側智代ルートで描かれなかった「現実という名の理不尽との闘いとその克服」という、元来のテーマをきっちり消化した上で、そこから『人生の宝物』へとテーマを広げたのは素晴らしいの一言。もしかしたら、年齢的に若い人の中には現時点ではまだピンとこないテーマかもしれませんが、そういう方には、人生に挫折したと感じたときに是非リプレイしてほしい一作。多分、非常に前向きなメッセージが心に染み入ってくると思います。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2006/1/6 00:23 | 1.ゲーム(Windows)

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コメント

うす、河南子、じゃなくてけろっちゃです。
この作品、特にアフター部分がある意味でリアリティーを帯びているのが、秀逸ですね。
これがCLANNAD中に付随する一つのアフターだったら、光の玉(「零れ落ちる奇跡のカケラ」)というギミックのために伝えたいテーマが薄れたと思います。「本作はCLANNADとは別の作品です。登場人物(キャラクター)や世界観などあらゆる類似に関わらず、両作品に関係はございません。」というオフィシャルの文章も、単純なレーティングという話ではなく、そのあたりを念頭に書かれた文章なのかもしれないという気がします。
#読みすぎか?
敢えてアナザーワールドとして、そして「ハッピーエンド」でないことに対して起こる批判を予測しつつも、この作品を世に送り出したスタッフに敬意を表します。
#あ、もっと河南子を出してほしい。

投稿者 けろっちゃ : 2006年1月6日 01:34

毎回オチが死なのが、一番リアリティーがないような印象を受けました。

死ってのは最上級の別れですし、それだけに訴えかける力は大きいですが
こうも連発されると死に頼りすぎじゃないかなーと思ったんですが、その辺はどうですか?

投稿者 水 : 2006年1月7日 21:02

> けろっちゃ氏
さすがにそれは読みすぎでしょう^^。> 関係ございません
とはいえ、確かにこのルートは CLANNAD 本編とは切り離した方がよいでしょうね。
本編は「思いやり」というテーマで一貫性がありますが、このルートはそのテーマを
別側面から補完する内容になっていると思うので。

どういうことかというと、CLANNAD のテーマが「他者に対する思いやり」だとしても、
現実的に渚のような生き方をしたら、ただのお人よしとして、善意を食われるだけ
食われて終わってしまう、と思うんですよ。某 Fate の士郎のように;。
それでも、そうやって『他者に尽くす』生き方で得られたものは、あなたの人生の
宝物だと思いますよ、というのがこの智代アフターのいわんとするところではないかと。

CLANNAD 未完成インプレにも書きましたが、CLANNAD という作品って、ある意味では
偏りすぎのところがあって、「現実でそれをやったらただのアホな子だよね;」な
部分があるんですが、そういう生き方にもちゃんと価値があるよ、という話(智代
アフター)を CLANNAD 本編に入れちゃうと、本編のテーマがぼやけてしまう。
そういう意味において、私は切り離してリリースしたことは結果的には正解だった
んじゃないか、という気がします。まあ、結果論だとは思いますが;。

> 水さん
はじめまして。書き込みありがとうございます。
死に頼りすぎ、というわけじゃなくて、単にテーマがずっと変わってないから描く
内容も変わっていないだけの話じゃないかと;。Kanon は確かに「死」が演出効果と
して使われていたと思いますが、AIR、CLANNAD、智代アフターはどれも「生」を
テーマとしているので、対極としての死が使われるのは仕方ないことでしょう。
(演出効果としての「死」の利用は、AIR 以降はかなり押さえられていますが。)

智代アフターに限定して言うと、同じテーマは手術が失敗しなくても描けただろうと
思います。が、手術が失敗した方が同じ内容を端的に、かつ強力に描けるという点で
正解だったのではないかと。

ただ、この作品の『リアリティー』というのは、「実際ありそうな話かどうか」と
いう、設定や展開面でのリアリティーではない、と思うんですよ。だって、朋也の
奇病難病、鷹文の事故、智代との復縁など、どれを取っても「あり得ない」。
けれども、その箱庭世界の中で味わった『感情』そのものは、リアルの世界の中でも
実際に味わうことのある感情なのではないか、と。

智代アフターに共感した人は、ぶっちゃけ物語そのものに共感しているわけではなく、
過去の自分の思いにシンクロさせることで共感してるんじゃないかと思いますが、
どうなんでしょうね?^^

投稿者 まちばりあかね☆ : 2006年1月7日 22:20

地雷扱いされているのは、結局これが「智代アフター」だったからなのではないでしょうか。
いくら関係がないと言われても、発売前の情報ではそれは建前で単なる後日談を描いたファンディスクだと勘違いしてしまうのも無理がないのでは。
CLANNADとは全く関係の無い新作ゲームなら、こんなにもネガティブな感想ばかりにはならなかったかと・・・AIRがそうでしたし。

投稿者 ばあごん : 2006年1月8日 00:55

> ばあごんさん
> 単なる後日談を描いたファンディスクだと勘違いしてしまうのも無理がないのでは。
いやそんな厨房みたいな人ってどれだけいるんでしょうか;。
さすがに直球勝負のタイトルからして、そんなゆるいゲームだと思う人は少ないのでは;。

とはいえ単純に期待する内容とのミスマッチはあるとは思います。
CLANNAD と無関係なゲームであったとしても、やっぱり文句は出るんじゃないかと。
AIR の発売当時の感想を思い返しても、「観鈴が死ぬのは許せない」みたいなことを
言う人は後を絶たなかったですし、せめて物語ぐらいはハッピーエンドをと期待する人が
多いんじゃないかと思います。

まあ、そのこと自体は責めても仕方のないことではありますが;。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2006年1月8日 02:00

私の印象は正反対かもしれません。
タイトルや体験版や雑誌情報なんかも含めて事前情報では
CLANNADのファンディスクという体を装って望まない層にも売ろうとしてるところが感じられました。
(18禁にしたことも含めて)

投稿者 水 : 2006年1月10日 02:03

なるほどそうですか。> 事前情報ではファンディスクという体を装う
私は麻枝氏というだけで身構えてしまいますが、一般にはそうではないのかも。

いくつか否定的見解も読んで回りましたが、批判はおおまかに何パターンかありそう。

・ファンディスクを装いながら、期待とはそぐわない内容を描いている。
・作中での描き込みが足りないので、智代があの境地に達するのが納得できない。
・ラストでの(麻枝氏の)テーマの押し付けがましさ(独善ぶり)が目立つ。

どれも分かる気がしますし、無理のない批判でしょうね。
一つ目はまあともかくとしても、二つ目・三つ目は実際、私も感じたところでは
あります。(単に目を瞑っているだけ)

しかし私が興味を持ったのは、麻枝氏自身がどういう経緯からこういう物語を
描こうと思ったのか、という点だったり。本人自身によっぽどのことがなければ、
敢えてこういう物語を描こうとは思わないんじゃないか、という気が。
……お薬も服用しているようだし;。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2006年1月11日 08:44

この作品、私は変則的な入り方をしたのでなんともいえないんですが……

唯一エンディングだけが納得がいきませんでした。

手術が失敗して半身不随になってもいい
いっそのこと記憶喪失でも植物人間でもよかった。

ただ……、殺すなよと
生きてさえ居ればまだ救いはある。
世の不条理を描くのが目的だとしても、他の道はなかったのかと

主人公「朋也」の死を持ってして智代が達観するにしても
納得はいきません。


ちなみに……
コレはあくまでも私見ですが
納得できないのは多分「主人公」(作中における自分自身)
が死ぬからではないでしょうか?
例えばこれが他の人物だったらまだここまでは無いのではないかと
どうでしょうか?

投稿者 とあるジャンルから入った人 : 2006年10月17日 22:40

書き込みありがとうございます^^。
リプライ遅れてすみません。

> 納得できないのは多分「主人公」(作中における自分自身)
> が死ぬからではないでしょうか?
> 例えばこれが他の人物だったらまだここまでは無いのではないかと
> どうでしょうか?

んー、難しいですね。
というのも、このジャンルでは「主人公が死んでしまう」という描写
そのものには目新しさもないんですよね。前作 CLANNAD と同じですし。
その点についてはすでに議論されていて、今さら話題にならない、
といった感じでしょうか。

もともと Key のゲームは、『主人公としてのプレイヤー不在』のゲームです。
ギャルゲーは一人称視点を取りますので、いわゆる『主人公』として
プレイヤーが存在するのですが、むしろ Key のゲームの場合には、
主人公が智代であったり渚であったりと、ヒロイン側が本来の意味での
『主人公』であることがほとんどです。
(というか、そういう作り方、描かれ方がされていて、プレイヤーには救いは
ない、というのが徹底されている、と。)

なので、「主人公が消える」という事実を客観視して、それを前提条件と
みなせるかどうか、によって、この作品(あるいは他の Key 作品)の
評価はかなりブレると思います。

ちなみに前作の AIR では、主人公は死にませんが、主人公の無力感は
この上なくきっちりと描きこまれています。
おそらくこっちの方がテイストが合うのでは? と思いますので、ぜひ
プレイされることをお薦めします。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2006年10月20日 12:19

オレ15歳 G-UNIT オレあかねが好きなんだよね

投稿者 西村元気 : 2006年12月5日 02:23

俺も智代アフターを浅く読み取っていました。
この記事を読んでもう一度訴えたいことを理解した上でリプレイしてきます。
今丁度そんな時期だと思うんで・・・;
自分の直面した絶望なんて人生の終盤で振り返れば些細なものなのかもしれませんが、、、

KEYは本当にすばらしいですよね。

投稿者 名無しで申し訳ない : 2008年11月5日 19:03

カッコいい!興味をそそりますね(^m^)

投稿者 グッチ 靴 メンズ : 2012年11月10日 06:38

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