ゲームとかアニメとか雑学とかのごった煮メモ書きページ since 2000.12.10

最近のトピック

努力の価値

 というわけで今日は一日じゅうおうちに引きこもってひたすらお空を飛んでいたわけですが、真っ昼間からカーテンを引いて真っ暗闇の中でエースコンバットやってるのって微妙に激しくどうよ?状態。

# や、さすがにお洗濯日和だったので布団は干しましたけど;^^。

 そんなわけではたと気付いたらとんでもない時間でぼちぼち今週分のアニメを見ていたわけですが、うーん、と考え込んでしまったのが昨日放映分のしゅごキャラ!。いやまあこれでもいいっちゃいいんだけど、ちょっと本質的なところが違うよなぁ、と思ってしまったり。

 ええっと、しゅごキャラ!という作品を知らない人のために簡単に説明しておきますが;、この作品は「なりたい自分となれない自分」のギャップを描いたお話。みんなが心の中に持っている「なりたい自分」が、一種の守護霊のように「しゅごキャラ」として憑いている、という設定になっていて、そのたまごが「ココロのたまご」。ところがたまごの持ち主が心にトラブルを抱えてしまう(例えばなりたい自分にどうしてもなれなくて悩んだりいじけたりしてしまう)と、そのココロのタマゴが×たまや×キャラ(バツキャラ)になってしまい、暴走して悪さをしたり、持ち主の心に悪影響を与えたりしてしまう。で、それをヒロインであるあむちゃんが必殺技で解決していく、とまあそんな話。(えらいおおざっぱだ; 詳しくはこちらをどーぞ;。)

 要するに、なりたい自分になれなくて、努力を放棄してうじうじしている子供たちの心をバッサリと一刀両断していくという、PEACH-PIT さんならではの引きこもり更生作品なわけなのですが、違和感を感じたのは今週のアニメ版のお話。

 や、どんな話だったのかというと、サッカー大好き少年の山田くん(ベタな名前だ;)。彼はものすごい頑張り屋さんで、補欠選手でありながらも河原でいっしょうけんめいサッカーのゴール練習をしていたりする。けれどもレギュラーの実力には遠く及ばず、試合でも補欠に回されてしまう。で、どんなに努力しても届かない自分を嘆き、ついには×キャラを生み出してしまう。

「オレは試合に出られないんだから、うちが勝っても負けてもどっちでもいい。オレには関係ない。
 いくら練習したって、いくら努力したって……天才には……かなわないんだから。」


 凡人がどんなに努力しても天才にはかなわない、だから努力したってしょうがない、とうじうじする山田くんの様子を見て、あむちゃんはそれを一刀両断する。

「ばっかみたい……。
 選手に選ばれなかったくせに、土手で練習なんかしちゃってさ。
 そんなあんたをちょっとでもやるじゃん?って思ったあたし、ばかみたいじゃん!
 才能があるかないかなんて、他人に決められるものじゃないじゃん!
 自分で自分、信じなくてどうすんの!? 自分で自分にバツつけてんじゃない!」


 というわけで、ネガティブハートにロックオンしちゃって(← この決めゼリフ大好きなんですが(笑))×キャラ倒して解決するわけなんですが、問題なのはここから。このあと、結局レギュラー選手との交代があって山田くんが試合に出るんですが、最後の最後に山田くんがシュート決めてゴールしちゃう

 って、いやいやいや、ちょっとマテ;
 っていうかその結論でいいのか?? と考え込んでしまったり。これ、物語的にはまあそんなもんなのですが、でもどっか激しく間違ってないか??と思っちゃったんですよね。

 サッカーという分かりやすい素材が取り上げられていたからなおのこと思った部分もあるのですが、作中で先生がこんな毒を吐くんですよ。

「笑っちゃうよねぇ。みんなあんなに頑張ってさ。
 夢は日本代表、国際大会かな? 無理に決まってるのにね。
 だってさ、確率で言えば、夢を叶えられる子なんてほんの一握りなわけじゃない? 現実を見れば、ね。」


 ええ、ぶっちゃけトークですけど、
 その通りですよね。夢も希望もないけれど。(ぉ

 努力しなければ届かないところがある。けれども、努力したって届かないところもある。あむは前述のセリフの中で、「才能があるかないかなんて、他人に決められるものじゃない」と言うのですが、その一方で、才能の有無は決められなくても、『才能+努力』によって決まる『実力』は、他人が決めちゃうものなんですよ。

 努力しなければ、なりたい自分には決してなれない。けれども、努力したからといってなりたい自分になれるとは限らない。そんなことは大人であれば誰だってわかっている。にもかかわらず、頑張ればきっと報われる、というロジックを子供にぶつける大人って果たしてどうよ?? という気がするんですよね。

 成功するために努力する、褒められるために努力する、認められるために努力する。そういったいわば下心のために努力することが悪いとは言いません。けれどもこうした考え方は、往々にして努力したのに報われなかったという恨み辛みを引き起こしやすい(→ それがひいては「努力したって無駄じゃん」「努力するなんてバカじゃん」につながる)。求められる実力値が 100 である場合に、才能(初期パラメータ)が 40 の人と 80 の人がいるわけで、誰しもが 20 の努力でなりたい自分になれるわけじゃない結果に対して褒めてもらいたくて努力するという発想を取る限り、このロジックのワナ(20 も努力したのに報われない → 落ち込む)から抜けることはできないと思うんですよ。

 じゃあどうすればいいのか? 基本的には解決策が 3 つあると思います。

@ 自分の適性があるところを探す。
 人によって向き不向きは当然あるのだから、自分の初期パラメータが 80 になるような分野を探す。小学校に限らず、学校という制度はある程度の大量教育の効率化を図っている以上、尺度がどうしても偏る(それこそ国語算数理化社会体育ぐらいに絞られてしまう)わけですが、その視点を取り払って、自分の適性があるところを探すという方法が考えられるでしょう。(世の中にはそれこそ星の数ほどいろんな仕事があるわけですからね。)

A 結果が出なくても満足する。
 適性がなくても好きなものは好き、というのはあるでしょう。だったら、結果を求めてはいけない。もし適性(才能)がなくてもどうしても好き、だというのなら、結果はいわば宝くじのように後からついてくるものと考えないといけない。「サッカーが好きなのか、サッカーで勝ってみんなから褒められるのが好きなのか」。本質的に自分が求めているのが前者であるのなら、結果は二の次に考えるべきでしょう。(この2つはまったく違うものなのにもかかわらず、これを混同するから不幸が始まるわけですが;)

 ……けれども、私としては@もAもどこか違和感を感じるところがあって、本来はこうあるべきなんじゃないか、と。

B 努力そのものに価値を見出す。
 宝くじは買うことに意味がある……というのは激しく間違った比喩だと思いますが(ぉぃ)、私は努力すること自体に価値があるんじゃないか、と思うんですよね。自分の中に目指す自分があり、そこに向かって努力すること。それは他ならぬいわゆる「自己実現」というモノなのですが、流した汗に価値がある(表現が微妙ですが;)、というのがまず先にあり、そこに(運が良ければ)結果がついてくるようにすることが、形としてはベストなんじゃないか、と。目的とするところが違うから、たとえ結果が出なくても自分の中に充足感が残るし、結果が出なくてもまあいいや、と思えるんじゃないかと。

# もっと端的に言えば、同じ評価軸の中で争うから@やAみたいなことを考えなければならなくなる、んですよね。
# 例えば同じサッカーをやるとしても、サッカーの中でどういうロール(役割)をやりたいと思うのか。
フォワードだけが、レギュラーだけがサッカーじゃない、ということに気付けないと、結局、何者にもなれなくなってしまう。
# 「なりたい自分」を自分で見つけられないと、どうしても無意味に自分を卑下したりしてしまうのかもしれませんし、
# 逆に「なりたい自分」を見つけることができたのなら、そこに向かって頑張るのが一番いいんじゃないか、と思ったりします。

 や、世の中には他人より偉くなりたいと思う人が無駄に多いのも確かではあるんですが、なんとなく私の感覚ではそれは微妙に寂しい思考ロジックじゃないかと思わなくもなかったり。まあどれを選択するのかは人それぞれの好みだし、そんな単純化できる話でもないのですが、でもどこに自分の軸足を置くべきなのか。……そう考えると、作品の重たいテーマ設定の割にはちょっとゆるい物語になってないか??と思わなくもないお話でした。やや厳しい評価かな、とは思うのですが;。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2007/11/5 00:39 | 3.アニメ&コミックス

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://pasteltown.sakura.ne.jp/akane/games/blog/tt_tb.cgi/1260


コメント

“努力”というワードを“経験”と置き換えてみたらどうだろう?
“経験の積み重ね”を“努力”と呼ぶのだから、「どうせ〜」という観念に捕われた時“経験の機会”そのものを放棄してしまいかねない。つまり“適正”を見つける前に諦めてしまうわけです。
守・破・離の方法論に従えば、押しつけがましくても初期の段階では型に填めなければ、自分の形を見出すことすらかなわなくなる。

投稿者 LaughCat : 2007年11月5日 23:14

この話は本郷氏とも話題になりましたが、そもそもこの作品の場合には
「やさぐれて夢を失わないこと」が主題であって、「夢が実現するかどうか
(卵が目覚めるかどうか)」は作品としての本筋ではないんじゃないか、
という話になりました。努力するかどうかすら本筋ではないのかも、と。
(考えてみればローゼンも似たようなテーマではありましたが。)

経験の機会を見失う、というのはその通りですね。実力のある人は、複数の
異なるジャンルの経験をつなげる力を持ってますしね。
「とりあえず長いモノに巻かれてみる」は本来非常に正しいと思うんですが、
どうも最近の人はお手軽インスタントな成功を求める傾向があるようで;。

投稿者 まちばりあかね☆ : 2007年11月11日 17:48

コメントしてください




保存しますか? はいいいえ


< 2007年11月 >
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30