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えー、まず先にお断りしておきますが、このインプレはあくまで原作ファンが 1 回だけ見たのみでの感想です。あまり冷却期間も置かずに書いているので、的外れな部分も正直言ってあるかと思いますが、その辺は差し引いて読んでもらえると助かります。……と前置きかきかき。(^^;)
※ 以下、劇場版 AIR のネタバレありますのでご注意ください。
正直なところ、劇場版 AIR は時間の制約(90 分)などを考慮しても原作通りになるとは思えず、もともと監督の出崎氏が原作を壊してくることで有名と聞いていたので、逆に AIR という作品をどう料理してくるのだろうか? というぐらいのつもりで見に行った。……のだが、その出来はと言えば、率直に言って非常に苦しいものだった。
見終わってからあれこれ考えてみたのだが、劇場版 AIR のまずさを一言に集約するならば、様々な意味で「中途半端」だったこと、だと思う。
◇ 劇場版の中で閉じきっていないエピソード
多くのところで、原作との舞台設定やキャラ設定などがあまりに原作と乖離していることに非難が上がっているが、私は原作の様々な設定をぶち壊したことそのものが問題だとは思わない。そもそも劇場版という 90 分の尺で同じ設定を再現できるとも思えないし、やったところで TV 版 AIR のダイジェストとなるのがオチだろう。そういう意味で、例えば、呪いの設定を「告白すると体に変調を来たす」などといった具合に、「90 分ものアニメ」として分かりやすいものに作り変えていることは私としては歓迎したい。
しかし問題なのは、そうでありながらも設定やその意味付けが『劇場版 AIR』の内部で閉じきっていない、という点である。
劇場版 AIR は極めて散文的に物語が作られているが、そのバックボーンにあるものとして都合よく原作の設定を間借りしているように思う。例えば、最初は海を見たいと言い出した神奈が、後半ではいつの間にか母上に逢いたいという話に摩り替わっている。あるいは、観鈴が往人に入れ込んでいく途中過程を全部すっ飛ばして、いつの間にか往人を誘惑までしてしまう。こういった「行間」は、劇場版だけでは埋め切れていないのではないだろうか。(一度見ただけなので、この辺は私の見方が甘かった可能性はあるが)
個人的に特に致命的と思えたのが、観鈴の髪を切るシーンと、その後に続く浜辺のゴールシーンである。原作では、観鈴が髪を切ることには晴子との母娘関係をやり直すそのスタートという意味が篭められていたし、浜辺のシーンには、逆に母娘関係を一通りすべてやり切ってゴールインして一生涯を閉じる、という意味が篭められていた。しかし、劇場版ではこれらのカットに対する『意味付け』が十分に出来ていない。このため、劇場版単品で解釈すれば「訳の分からない唐突な」カットになってしまうし、逆に原作からその背景設定を間借りして来れば、(頭の中でうまく「都合よく」再解釈してあげないと)今度は劇場版の独自設定と原作設定との間に齟齬を来たしてしまう。
ピースとして借りてくるのは構わないのだが、そうであるのなら『劇場版』のみで完結しうる新しい意味付けを与えて欲しかったと思う。原作にあった「意味付け」を借りること、ひいては原作にあった『感動』を間借りすることは、作り手としてちょっと卑怯ではないだろうか?
◇ 絞りきれていないテーマ
意味付けが不十分になってしまったのは劇場版の尺の短さゆえというのもあるのだが、私にはテーマを絞りきれなかったという中途半端さも一因しているのではないかと思う。
まず、劇場版 AIR のテーマは、† 恋愛物語、† 親子の関係と絆、† 1000 年の大きな物語、の 3 つだと思うが、これは基本的に原作も同じである。しかしこの 3 つの要素は、原作ではその背後にある麻枝&涼元ワールドの大きな思想によって包括されている。つまり、原作には『進化』(人の想いを受け継ぎ、明日の幸せを願い、未来へと一歩を踏み出していく)という基本モチーフがあり、その基本モチーフの中で 3 つのテーマが一貫性を持って語られる。そうしたバックボーンがあるからこそ、悠久の物語の中での『ひと夏のささやかな物語』と『人々の生き様』が限りない輝きを放つ。しかし、その根幹部分を描くための翼人と 1000 年の呪いという設定がごっそりと抜け落ちてしまっているため、上記の 3 つのテーマは、ただの独立した 3 つのプロットになってしまっている。端的に言えば、3 つのテーマが一つの作品の中で噛みあっていない、という印象を受けた。(最後のゴールシーンで、なぜ晴子と往人が並んでいるんだ、というツッコミが多数あったが、上記のようなことを考えれば当然のツッコミだろう。) それでも無理に 3 つのプロットをなぞろうとするから、尺が足りず、生き様の描き込みも通り一遍になってしまっているのではないだろうか。
だったら、いっそどれか一つのテーマに絞るべきではないかと思う。†に絞るのなら神奈の話も髪を切る話もゴールシーンもカットすべきだと思うし、逆に†に絞るのなら二人の間の微妙な関係をもっと手厚く描いた方がよかった。そうすれば、劇場版の尺でも十分に収まったのではないだろうか。
(余談だが、パンフレット掲載の準備稿の方が良かったという意見も散見されたが、個人的には異を唱えたい。あの準備稿はいわば原作からのカット&ペーストだから良いのだが、とても 90 分の尺に収まるものではない。)
◇ 作品テーマを十分に消化できていない作り手
私はインタビュー記事などの事前情報を一切見ずに行って上記のような感想を持ったのだが、帰りがけに友人にいくつかのインタビュー記事などを見せてもらって、どうしてこういう作品になってしまったのか、という見当がついた。
むろんインタビュー記事は額面どおり受け取れるものではないし、しょせんは憶測なのであまりあれこれ書くことは避けるべきだろう。しかし、出崎監督も脚本の中村氏も、自分たちの持つ枠組みの中でしか、AIR という物語を捉えられなかったのではないだろうか。先に書いたように、劇場版 AIR のテーマが個々に独立した 3 つのプロットの集合体になってしまっているのもそう。端的に言えば、原作 AIR の表層部分を形だけ真似ている感が拭えない。
そもそも AIR という作品に関しては 2ch AIR スレッドの Wiki や Kカスタネダ氏、あらえる氏、あるいは私自身など、すでに様々な考察サイトが山ほどある。趣味でやっている観客サイドですらこの程度の物語理解はしているのだと考えると、(大変失礼だとは思うが)制作をする人たちの作品理解がこの程度でいいのだろうか?と頭を悩ませてしまう。
個人的には、出崎監督には(準備稿をすべて読み返すぐらいなら)せめて原作テキストをすべて印刷してざっと目を通す、ぐらいのことはして欲しかった。確かにゲームをプレイするとうざったいものだが、テキストを抽出して読みやすく印刷すれば、たかがしれている分量である。そもそも不十分だと感じている脚本家からの伝言ゲームで原作を理解しようなどというのは、創作一般に対するリスペクトに欠ける行為ではないだろうか。もし出崎監督が、ほんの数%でも謙虚に他人の著作を受け止める姿勢を持っていたのであれば、全く違った結果になったのではないか。そんなふうに思えてならない。
私として返す返すも残念なのは、比較的制約条件の少ない(ある意味では原作を著しく崩すことも許された)環境であるにもかかわらず、原作/オリジナルの狭間のどっちつかずの非常に中途半端な作品に仕上がってしまったということである。原作を壊すというのなら徹底的に壊して、全くオリジナルストーリーにしても構わない。「借り物」でない、オリジナルの劇場版『AIR』の感動を作り上げて欲しかった。
もっともつらつらと思いつくままに書き連ねてみたが、今回一緒に劇場を見に行った 5 人の中では、肯定派 2 人、否定派 3 人と票が分かれたのも事実。肯定派の両名は「原作から切り離して出崎アニメとして見れば」という言い方もしていたので、そういう視点で見ればまた違った面白さがあるのかもしれない。少なくとも現時点では私には原作から切り離してもこれといった面白さは受け止められなかったが、また時間を置いて見返すと違った面白さが見えてくるのかもしれない。
なにはともあれ、今日はどっと疲れました……うぐぅ。風邪も微妙に悪化してるような。(汗)
# あ、もしツッコミありましたら掲示板へどーぞ。(^^;)
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