AIR ゲームインプレッション


Last Update 2001/09/08 ver.0.02

はじめに

 AIRが発売されて1年近くが経ちました。そろそろ私自身としてもAIRという物語を整理しておきたいと思い、まとめてみることにしました。ざっくばらんに書いた乱文ですが、もし宜しければしばしお付き合い下さい。

※ちなみにホームページはこちらです。直アクセスで飛んできた方はよろしければお立ち寄りください(^^;)。

最初におねがい

 このページは私自身のシナリオ解釈の前提の元に書いていること、そして正直なところAIRは不毛な議論になりがちで疲れた(^^;)ということもあり、こっそりと隠して置いてあります。もしこの内容に関してご感想、ご意見などがありましたら、掲示板ではなくメールにてお寄せ頂ければ幸いです。また、このページに関しては直接リンクをご遠慮頂ければ幸いです。身勝手なお願いではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 なお、AIRのシナリオ解釈に関しては以下に掲載しています。よろしければ併せてご覧ください。

 また、ゲームのシナリオ解釈及び意味論に関しては、Kカスタネダさんのホームページの解釈も併せて参考になさることをお奨めします。特に深さという観点で私の解釈より優れていますし、また私のシナリオ解釈のミスなども明らかになると思います。ただ、ここ数ヶ月、AIRのシナリオテキストに触れていないこともあり、各シナリオ解釈のテキストに関しては敢えて修正を加えずにほぼそのまま掲載しました(一点、決定的なミスであったSUMMER編の勢力関係のみ修正しました)。最終的な結論は、皆さまご自身で答えを出して頂ければと思います。

※ 以下、ゲームのネタバレが含まれますので、ゲームを完全にクリアしていない方はご覧にならないよう、お願いします。

※ TV 版 AIR 放映に併せて、blog にエントリも書きました。解釈としてはこちらの方が端的で分かりやすいと思いますので、参考にしてください。

完全性を追及した物語

 製作サイドから見た場合、おそらく、AIRという物語は持論を芸術的な作り込みで描き切った大作のつもりだったのでしょう。製作サイドに『極めて友好的な』解釈を元にすると、この物語は一貫した主張を通し、そのグランドフィナーレはゲーム史上では稀に見る芸術的な作りであると認めざるを得ないと思います。
 彼らは自らの持論を語るために、独自のフレームワークを用意しました。(ここでフレームワークと呼んでいるのは、例えば輪廻転生や法術、羽根、そして翼人など、この作品のベースとなっている基盤概念や設定のことを指します) 確かにそのフレームワークはお世辞にも一般的なものとはいえず、説明不足な点が多々あったことは事実でしょう。しかしそうした「至らぬ」点を横に置けば、彼らが最終的に語りたかったもの、すなわち

『人の想いを受け継ぎ、明日の幸せを願い、不安と期待を共に未来への一歩を踏み出していくことの出来る、束縛の無い現実世界の営み』

ということは見事に語られていると思います。細かい作品解釈については別ページの観鈴シナリオ解釈の中で触れていますので割愛しますが、転生、母子(血縁関係)、記憶、意志の4要素が上手く使われており、シナリオの『骨格部分だけ』取り出すと感嘆するほど美しい見事な構造です。おそらく麻枝氏と涼元氏両者の協力によるものなのでしょうが、お二人の基本的な頭脳の良さを感じずにはいられません。独自のフレームワークの中で突き詰められ、完成された筋書きという意味において、このAIRは箱庭世界の一つの究極形と言ってよいと思います。

 しかし一方で、ある一定水準を超えた筋の通ったレビューの中に、この作品に対する徹底的な批判・非難があるのも確かです。その多くはAIRのシナリオが緻密さに欠ける点や、極度の非現実性、登場する白痴系美少女キャラクターたちの幼児性や主人公の異常な行動などを槍玉に挙げ、それらに狂喜する鍵っ子たちの異常性について触れています。これらの多くは実に正論ですが、KanonやAIRはシナリオの緻密さや一般常識的な良識的作りを狙うのではなく、感覚的リアリティ(というと聞こえは良いが要するに『感情』だけで綴られた世界)の連続性・一貫性を最重視した作り方、悪く言えば目先の刹那的感情を優先させる作り方がなされています。それが故に、ハマればどっぷりハマれるし、逆に一度でもその魔法から覚めればその異常性や過剰な演出に嫌気がさしシラけるのも当然でしょう。
 商業的な成功をもたらした原因でもあるそうした感情重視の作り方が正しいか否か、また鍵っ子を異常であると言って良いのかどうか、それをここで論じるつもりはありません。私が論じたいのは、製作陣が本当に主張したかったテーマ自体の是非です。

理解の困難性、プロダクトアウトの発想

 しかしそれを論じる前に、この物語の理解の困難性や、製作陣に見られるプロダクトアウト的な発想(良いものを作れば必ず売れる、買わないのはユーザーが悪い、的な発想)について触れておきたいと思います。

 ここまで、AIRは製作陣の論理で考えた場合にそれが一貫し、完成されたものであると述べてきましたが、しかし多くのWebサイトで見られるAIRの解釈や評価にはかなりのばらつきが見られました。またそれらの中には「作品の懐の広さ、解釈の幅の広さ」と片付けにくいものもありました。結果論だけ取り出して見れば、お世辞にも製作陣の持論がプレイヤーに上手く伝わった、もしくは受け入れられたとは言いがたい状況であり、そのことは麻枝氏自身もピュアガールや電撃姫のインタビュー記事の中で触れていました。

 このような事態に陥った原因はいくつ考えられます。まず、従来型のKeyの作品から踏襲した、過剰な演出による主体的な思考の停止。これは演出ミスによっては致命的な問題になります。特に問題だったのは観鈴の死に対する演出。晴子の描かれ方を見て分かる通り、この作品は死の悲劇を語りたかったわけではなく、「現実」をどう生きていくかを語りたかったはずで、観鈴の死はそらと晴子にとっては通過点であるべきものです。観鈴の死を目の前にして流される涙は悲劇的なものであっても、それはいずれポジティブな思考へと変わっていくべきもの。シナリオの筋書きは実際そうなっているのですが、演出的には観鈴のゴールシーンに圧倒的な力が注がれているのに対して、それをポジティブな考え方へと昇華させていくプロセスに対する演出はおざなりであると言わざるを得ません。結果、観鈴が死ぬことに対するユーザーの大きな反発を招きました。このことを指して、電撃姫のインタビューの中で麻枝氏はユーザーの質の悪さを嘆いているとも取れる発言をしていますが、この結果は自分たちの演出が招いた当然の結果です。決してユーザーばかりを責められるものではないでしょう。

 加えて、独自フレームワークに関する説明不足もまた、輪をかけて理解を困難にさせる要因になっています。特に致命的なのは輪廻転生の設定に対する説明不足です。この作品は転生、母子、記憶、意志という4つの要素を使って持論を展開するにもかかわらず、その一つの要素である転生に関して説明が十分になされていません。加えて時間軸に関する説明不足、イメージ重視の「空」という用語の乱用などがあり、製作陣が利用した独自フレームワークそのものの理解が困難です。実際、この独自フレームワークは1年近く議論が交わされた今になっても確たる定説がない状況です。結果、このフレームワークに基いた考察・批評はしづらく、テーマや意味論に関する議論も空転しがちとなり、さらには製作陣の意図とは全く違うと思われる解釈ですら「解釈の多様性」で片付けられてしまうことまであります。

 例えばその一例として、輪廻転生による救い(来世で幸せになるという考え方)が否定されている点を挙げてみましょう。この点に関しては私のシナリオ解釈でも触れているのですが、今ひとつ伝わっていないので再整理すると、以下の通りとなります。
 まず、ラストの浜辺に現れる二人の少年少女は作品中の5人のいずれの生まれ変わりでもないことが、作品中でも明確な形で(わざわざCGつきで)示してあります。神奈は太古の記憶に還って霧散していき、柳也と裏葉は神奈が待つあの世へと旅立ち、往人と観鈴は再び浜辺へと帰ります。ここで、神奈・柳也・裏葉・観鈴はいずれも、それぞれが与えられた運命の下での自分なりの「本当の幸せ」を掴んでその生涯を終えています。
 例外的に再びこの世に舞い戻った観鈴と往人に対しては「過酷な日々を」という言葉が投げかけられますが、なぜ観鈴と往人が舞い戻った日常が「過酷な日々」なのでしょうか。仮に観鈴の死が悲劇・不幸であり、それが輪廻転生という形で再び浜辺の観鈴に戻ったのであれば、それはハッピーなことであり、かけられるべき言葉は「新しい未来を」であるべきです。そうなっていないのは、観鈴が幸せを感じてその生涯を終えるということを一度経験しているためであり、観鈴がこの世に再び戻ったことは必ずしもハッピーとはいえないと考えられているからです。しかしながら日常に戻ったことを不幸であるともしていません。なぜなら、神奈の魂はすでに大気に霧散しており、観鈴がそれにより死ぬことはなくなっているからです。かといって前回の死のときより幸せになれると確約されているわけではありません。ですから、その見えない未来に向かって「過酷な日々を(頑張って過ごしていって欲しい)」という激励の言葉が投げかけられるのです。
 このように考えれば、ラストシーンにふさわしい言葉は確かに「過酷な日々」以外にはあり得ず、一方観鈴と往人に激励の言葉を送り、自分に向かって「僕らには始まりを」と称する少年少女は作中の誰かの転生であってはなりません。最も順当な解釈としては、プレイヤーを作中に投影させた存在ということになるでしょう(作品世界に限定した解釈を取るとしても、全く関係のない第三者と考えるべきでしょう)。
 しかしこのような解釈にたどり着くためには、作中の輪廻転生の設定を正しく汲み取り、そして各キャラのラストに挟まれるCGが彼らのその後の顛末を表していることに気付かなければなりません。特に後者のCGに関してはコロンブスの卵のようなものであり、これに気付けなくても当然と思います。

 整理すれば、製作陣には受け手に立った発想がなかったもしくは弱かったと考えられ、それ故に多数の誤解や見当外れの好評・酷評が生まれるのも当然であり、やむを得ないことと考えます。もっともレビューサイトを語るのであれば、せめて製作陣が考えていたであろう物語の完全性に多少でも触れる内容を読みたいものですが……

 ただ、DC版AIRに関して、なかなか移植にOKを出さなかったこと、そして意図が的確に伝わらなかったことを承知しているにもかかわらずシナリオテキストを変えないという判断をしたこと。これらは穿った見方をすれば、自らの失敗を認め、製作側の意図を正しく伝えることを諦め、そして捻じ曲がった解釈を元に好評を下した人たち(その多くはKeyのファンであるわけですが)へ配慮した、といった事情があったのではないかと考えます。もはや時期的には、製作陣のプロダクトアウトな発想そのものを非難の対象とするのは適切ではなくなっているのかもしれません。

作品テーマの無意味さ

 かなり横道に逸れましたが、ここから本題に入っていきたいと思います。

 この作品のテーマは先に書いた通り、『人の想いを受け継ぎ、明日の幸せを願い、不安と期待を共に未来への一歩を踏み出していくことの出来る、束縛の無い現実世界の営み』であり、それ自体が本当の幸せであるとする考え方を提示しています。ゲーム中ではサブテーマ(テーマを表現するためのテーマ)として、家族愛や恋愛、トラウマ克服などが描かれ、グランドフィナーレは、観鈴たちを始めとする人々が感じた本当の幸せや想いを浜辺の二人の少年少女が受け継ぎ、明日へと踏み出していくことを表現するシーンとなっています。『現実で起こる困難との対峙(無限)とその先に待つ希望(終わり)を目指す意志』はこの作品全体を使って表現されていたテーマそのものであること、そしてこのグランドフィナーレに出てくる浜辺の少年・少女が、すべてを傍観していたプレイヤーを投影するダブルミーニングになっているという点に関しても、おそらく論を待たないでしょう。

 しかし箱庭世界を使ってサブテーマを描くにもかかわらず、メインテーマでプレイヤーに対して現実世界との対峙を求めている点に関しては、非常に問題があると感じます。

 先に述べたように、AIRはそれ自体が芸術的に完成された一つの箱庭世界ですが、この世界の設定にはあまりにも普遍性がありません。父性の否定、欠けた家族、欠けた人間設定、現実にはあり得ない少女の性格設定、主人公の行動、そして不運の前提。確かに、フィクションが現実よりもよりリアリティを持って語りかけるケースは多々ありますが、それはそのフィクションと現実世界との間に何らかの共通性・類似性があるからでしょう。しかし、現実世界と向き合わない、リアリティの欠如した箱庭世界の中で製作陣が語ったサブテーマは、箱庭世界の中でこそ強固に通用するものです。普遍性が無い箱庭世界の中から、現実回帰につなげられる普遍性を持つ『糧』を抽出しようとすると、「家族を大切にしなければならない」など、あまりに概念的で当たり前すぎる内容しか取り出すことができません。
 確かに、箱庭世界の中でプレイヤーが感じた感情そのものは普遍的なものであり、現実世界でも通用するものでしょうが、手法(メソドロジー)として通用するものではありません。
 すなわちAIRは、メソドロジーをサブテーマの中で語らなかったにもかかわらず、感覚的リアリティを元に現実回帰を求めるという、かなり無理のあるメインテーマ提示の仕方をしていると言えるのではないでしょうか。

 また、グランドフィナーレでメインテーマを明示的に語ってしまったことが、AIRが大作になれなかった原因ではないかと私は考えています。本来、沈黙を保ってもサブテーマや行間から染み出てくるのがメインテーマのあるべき姿であって、このAIRの場合も、観鈴を失った晴子やそらの生き様、Trueルートの美凪の生き方は、雄弁にメインテーマを語っていたはずです。にもかかわらず少年少女が蛇足的に語ってしまったことで、図らずも箱庭世界の設定の動機不純や、製作者のエゴまでもが露呈してしまったと言えるのではないでしょうか。
 そしてまた、このAIRというゲームはいったい何がやりたかったのでしょうか。明日の幸せを願って未来への一歩を踏み出すということは、誰しもが頭では理解しつつ、それでもなお出来ないものであり、18禁ギャルゲーのプレイヤーであればなおさらそのことは理解しているでしょう。にもかかわらず具体的なメソドロジーを提示せずに声高らかに現実回帰を求めるという姿勢には、私は少なからず反発を覚えます。

 多くの作品批評は、フレームワークの理解の困難性やゲーム性の弱さなどを根拠として酷評を下していますが、私はむしろ上述したような理由を元に、手放しに誉められない作品であると感じています。確かに、フィクションという作品形態を使いながら現実世界の未来性を描くことをシナリオ上でうまく実現したことは素直に賞賛するべき点であると思いますが(もっともこの点もほとんどのレビューで触れられていないのが悲しいところですが)、出来ることなら普遍性を持ったフレームワークの中で同じテーマを描いて欲しかった、そう思います。

 ただそれでもこれだけ様々な議論を提供するに足る素材を提供しているというだけでも素晴らしい作品であることには違いがなく、製作者として多少のエゴがあったとしても、麻枝氏や涼元氏を始めとする、Keyスタッフの真摯な取り組みがあってこそ実現しえた作品であることには間違いありません。AIRという作品を一言で総評するなら、歴史的な名作とは言えないまでも、18禁ギャルゲー市場といわず大衆向け娯楽作品全体に対して一石を投じた意欲作であった、と言えるのではないでしょうか。
 AIRのような方向性の作品はある意味AIRで終点に行き着いてしまった感もあり、おそらく次回作は毛色を変えた作品を出してくるのではないかと思いますが、私としては今回の経験を一つのきっかけとして、Keyがまた新しい市場を切り開いていってくれること、そしてKeyだけでなく他のメーカーからも、方向性は違ったとしてもAIRのように高みに挑戦した作品が数多く出てくることを期待し、そして楽しみにしています。


※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)