過去の雑記 2004年01月〜2004年06月



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2004/01/05(月)

■ というわけで....

 皆様、新年あけましておめでとうございます。ってすでに三が日は終わってるわけですが(^^;)。
 今年ものんびり悠々自適にやっていこうかと思いますが、懲りずに付き合っていただければ幸いです。

■ 心理学化する社会

 さて年末年始は積まれた技術系雑誌をひたすら消化していたのだが、そんな合間に読んだのが精神科医である斎藤 環氏が執筆した「心理学化する社会」という本。斎藤氏の書かれた本を読むのは今回が初めてだったのだが、これが非常に分かりやすい良著であった。一言で言えば、現役の精神科医が昨今の「心理学や精神分析に何かしらの理由付けを求める」ブームの危うさに警鐘を投げかける、という本である。平易な言葉で分かりやすく書かれてあり、ほとんど予備知識なしでも読める一冊だった。

 本書の論旨は精神医学をすべての中心に据えすぎなのではという感はあるが、書かれている内容は一読しておいて損はないものに思える。私なりに簡単に論旨をまとめると、以下のようになる。

 概ねの論旨は上記のようなものだが、実際には様々なサブカル作品や事件、あるいは臨床現場からの体験談などを交えつつ、「心」がモノとして取り扱われるようになっていく様が分析されており、非常に面白い。また、非常によく誤解されがちな精神医学/心理学/精神分析の理念的な違いやカウンセリングの危険性などについても指摘しており、知識としても役に立つ。例えば以下のようなものだ(※実際にはもう少し細かく、的確に書いてある)。

  1. 精神医学
    精神障害を診断し、治療するための学問。「治療」することを目的としている。心に問題が起こる経緯を主に3つ(器質因(ハードトラブル)、内因(OSトラブル)、心因(アプリケーショントラブル))に大別しており、必要に応じて薬物投与などを行う。
  2. 心理学
    正常な心のありようを知るための学問。診断の比重は低く、健康な生態の機能に関する研究を行うもの。いわゆる「カウンセリング」は臨床心理学。
  3. 精神分析
    精神医学で言うところの心因論部分だけを取り扱う。あらゆる人間の心を予め異常性を秘めたものとして取り扱い、これを分析するための技法。

 私の知人の精神科医に言わせると、一般に精神科医が本を書く時には市場のニーズに合わせるために「心理学」を前景に立てることが多いらしい。しかしこの本はそうした立場は取っておらず、上記のような分類や、薬物投与の有効範囲(心因性疾患に対しては補助にはなるが決定打にはならない等)も明らかにしている。こうした知識は、(多少の誤解はあるにせよ)理解を深めるのに役に立ちそうに思える。

 「物語」作りに関して精神分析が最右翼と言えるかどうか、また本書の最終章に書かれている著者の独自見解などに関してはやや疑問を感じるところはある。さらに言えば、著者である斎藤氏が属する「精神医学」に関しての論調は全体的に甘めである。しかし物事には功罪があることを踏まえて、「ストーリーテラーとしての心理学・精神医学・精神分析」に関して、読み手・語り手の両方に警鐘を鳴らそうとする本書の趣旨に関しては概ね同意できるし、賛同する。

 おそらくこのサイトに来ている方々で、そうした精神分析に対して絶対的な権威を見て取っている方は少ないのではないかという気がする。ただ、一般的にも認知されにくい精神医学や精神分析に関して若干なりとも理解を深めることができる本として、一読の価値のあるものだと思う。この方面に興味がある方は読んで見てはいかがだろうか。

※本書には精神医学関連の専門用語が出てきますが、ここのサイトなどを辞書がわりに使いながら読んでいくとよいのではないかと思います。

2004/02/28(土)

■ 作品の『欠点』とは何か?

 Web の巡回をしていたところ、東方シリーズの作者であるZUN氏(上海アリス幻樂団)の日記の中に、非常に含蓄のある、興味深い見解を見かけた。まず、なにはともあれ、こちらの 2004/02/24 の日記を見て頂きたい。

 東方シリーズ、といってもご存知ない方も多いかもしれないが、東方シリーズは私が崇拝してやまない数少ないゲームの一つである。同人ゲームであるにもかかわらず、市販ゲームを圧倒する秀作揃いであり、その最新作である『東方妖々夢』は、本サイトでも数少ない、★× 5 をつけられる名作であると思っている。ゲームデザインやバランスの優秀さはもちろんのこと、グラフィックス、演出、音楽など、すべての要素が調和して一つの『幻想』(Phantasm)を作り上げている、まさにあらゆるゲームのお手本とでも言うべき作品の一つである。正直なところ、欠点らしい欠点など全く見当たらないゲームといってもよい、素晴らしい出来の作品である。

 そんなゲームをたった一人で作り上げてしまう、脅威のクリエイターZUN氏が語る、「作品の欠点」とは何か? ZUN氏は日記の中でこう語っている。

ようやく気が付いたことが一つ。
欠点とは、明確な結果が出るもの、最終形が確定しているものに対してしか有り得ない。
だが、面白さとは明確な結果なのだろうか?と。

つまりこう言うことである。
『作品中の創作部分に限り欠点は存在し得ない。それは欠点ではなく、特徴である。』
その事に気付いたときから、私のゲームに対する見方が変わった気がする。

(中略)

最終目的は、STGになる事ではなく、ゲームであり東方であるという事。
その最終目的に沿わないものだけが、私の考える「欠点」である。

 これほど的確に「作品の欠点とは何か」を定義した文には、今までお目にかかったことがないように思う。

 例えば、「痘痕も笑窪(あばたもえくぼ)」という言葉がある。もちろんこの言葉の意味は、『ひいき目で見れば、醜いものでも美しく見える』である。しかしその本質は、ZUN氏の言葉を元に考えると、『一般論的なところから欠点を語ることには意味がない』というところにあるようにも思える。実際、ZUN氏が自分の作品に対して分析していたポイントも、プレイヤーの私からすれば魅力的要素の一部分でしかなかった。要するに、欠点とは、「作品の魅力を失わせる方向に作用してしまう要素」、あるいは「作品の趣旨に自己矛盾している要素」ということなのだと思う。

 そう考えてみると、作品の批評や考察というのは、次のようにあるべきなのかもしれない。まず、作品が目指していた方向性を明らかにし、その方向性に沿って最大限の解釈を試みてみる。そして、それを自ら貶めてしまっている反発要素や問題点を明らかにしていく。こうすることで、作品のプラスとマイナスを明らかにした、客観的な批評や考察がまとめられるのかもしれない。

 確かに、素晴らしいと思える批評や考察(例えば源内語録Kanon 考察など)には、そのようなアプローチを取っているものが多いのも事実である。ZUN氏の見解を読んで、私自身、自分のインプレの在り方を改めて考えさせられた。

 「超一流の作家と、超一流の批評家とは別物」とはよく言うが、ZUN氏ほどの逸材となると、そのような一般論的な『枠』が全く当てはまらないのだということを痛感させられる。改めて、ZUN氏の凄さを垣間見たような気がする。超一流のゲームを作る人は、その思想すらも超一流なのだ、と。

2004/03/17(水)

■ 『誉めること』の難しさ 〜 レビューサイトの一つの理想形

 先日 2/28 の雑記の中で、作品の批評や考察の理想形について取り上げてみたが、理屈抜きに「このレビューサイトは凄い」と感銘を受けることが稀にある。以前、トップページの「最近のトピック」の中で、Fate/stay night の見事なレビューを書いていたサイトとして『臥猫堂』(管理人:のりさん)を取り上げたが、このサイトは、おそらくレビューサイトの一つの理想形ではないかと思う。トップページのトピックからは消してしまったが、是非記録に残しておきたいので、雑記で取り上げることにした。

 臥猫堂のサイトに初めて訪れた方は、レビューの数も少なく、一見何の特徴もない、やや寂れたレビューサイトだ、と思われるかもしれない。しかし、いくつかのレビュー(特に自分が好きな作品であればなおよい)を読み進めていけば、そのような誤解もあっという間に氷解し、臥猫堂のファンになるのではないかと思う。

 臥猫堂のレビューの魅力は、もちろんそのレビューの読みやすさや語り口の良さもある。しかしその魅力の最大の源泉は、なによりそのレビューが、徹底して『その作品の持つ魅力を最大化する』ものになっていることにあると思う。よく言われることだが、作品の欠点を探すことは比較的容易であるものの、作品の「長所」や「魅力」を、的確かつ論理的に語ることは非常に難しい。しかしそれを見事にやってのけているのが、臥猫堂のレビューの素晴らしさだと思うのだ。

 実際、いかにそれが難しいのかは、こんな例を考えてみると分かりやすい。目の前にかわいい女の子がいたとしよう。しかしその子の魅力やかわいさを、一般論でないところから誉めようと思うととたんに難しくなる。「笑顔がかわいい」「髪の毛がきれい」「誠実さに惹かれた」「優しさに惹かれた」などと言うことは簡単だが、これらはすべて一般的価値観との対比から誉めている、借り物の美辞麗句ではないだろうか。

 同じことは、作品のレビューにも当てはまる。作品が素晴らしい!と思っても、いざその気持ちを言葉にしようとすると、「作画がいい」「脚本がいい」「泣ける」「演出が最高」「音楽がいい」といったありきたりな誉め言葉しか並べられないことは非常に多い。私自身、自分のインプレを読み返してみると、あまりにも情けない誉め言葉しか書けていないものが多く、頭を抱えたくなることしきり。『なぜ良かったのか』という部分を徹底的に分析し、そこに見つけ出した魅力を他人に伝えようとするレビュー、そしてそれに成功しているレビューというのは、Web 全体を見回してみても非常に少ない。そんな稀有なサイトの一つが、伏猫堂だと私は思うのだ。

 そしてもう一点素晴らしいと思うのは、臥猫堂のレビューは、作品を貶めることがない、ということである。数多くゲームをプレイしていれば、地雷を踏む事もあるだろうし、文句の一つも二つも言いたくなることも多々あるはずだ。ところが管理人であるのりさんは、よほどでなければそういうレビューを書かない。あくまでひたすらに、作品から見出した価値を伝える。レビューサイトを運営したことがある方なら分かるはずだが、これは「言うは易し、行うは難し」、である。そのスタンスを、実際に貫いているレビューサイトであるということも、これまた極めて稀有なのである。

 とても私にはこのレビューは真似出来ない……いつもそう思わせてくれる凄さと潔さが、このサイトにはある。今でも運営を続けているレビューサイトでイチオシを挙げて欲しいといわれたら、私は真っ先にこの臥猫堂を推薦したい。

 作品の目指す方向やその魅力を的確に理解し、それを分かりやすくまとめ、魅力的な語り口で伝えるのりさんのレビューは、内容だけでなくそのレビュースタイルも含めて、おそらくレビューサイトの理想形の一つだろうと思う。掲示板の方もかなり賑わっているようなので、サイトにアップされているレビューと併せて、是非一度、覗いてみていただきたいと思う。

2004/03/28(日)

■ 押井監督作品 イノセンス

 この映画、昨今いろんなサイトで話題になっている様子で、先日、ヲタクな友人たちと見に行ってきた。忘れないうちに、簡単に感想を綴っておきたいと思う。

 まず正直な感想を言うと、なんというか、「今のCG技術って凄いなぁ……」、と(^^;)。どの程度のコストをかけているのかは想像がつかないものの、TV アニメやゲームなどを遥かに凌ぐ、美しい CG 処理に思わず見惚れた。さすがである。

 半面、巷で議論を呼んでいる『人形性』の部分については、見ていて少し首を傾げてしまった。人間と機械(人形)との境界線が曖昧になっている世界設定を存分に使って作品を展開しているものの、ラストではやはり『魂』は人間の専売特許、という結論になってしまっている。ここは個人的にはかなり微妙な感がした。これについて簡単に以下にまとめてみたい。

 人間と機械の関係、そして自意識の特異性をどう保証するのかという問題については、最近のゲームで言えば、モエかん、BALDR FORCE、鬼哭街あたりが扱っている。面白い事に、これらの作品の設定には、イノセンスと同じ一つの共通点がある。それは、『「人間」と同様な、豊かな感情を持つ個体は、ゼロベースの機械では作ることができない』という点である。

 例えて言うのなら、脳みそというハードウェアは機械で用意し、代替することができるけれど、その上に乗っかるOS(記憶や感情を司る領域)に関しては、人間の専売特許である。よって人間からコピーしないと、人間と同程度の感情を持つ人形は作れない、というのである。

 この理屈自体は一つの見解としてはよく分かるし、別にそれ自体に異を唱えるつもりは全くない。しかし半面、人間と機械(人形)との境界線が本当の意味で曖昧になるというのは、

『現在はまだ人間の専売特許になっている「感情」が、人工的に作り出せるものになったとき』

のことを言うのではないかと思うのだ。

 イノセンスの世界観は、これに限りなく近い世界を扱いながらも、その一歩手前で留まっている。そういう意味で、この作品における人間の取り扱いは『最後の一線を踏み越えていない』モノであるように思える。それが監督の『人間』としての良心なのか、それとも 90 分という尺を持った映画の制約なのか、その辺は分からないが、やや中途半端な印象を受けた。

 ……まあ、一言で言うと、人工的に作り出された「感情」にふつーに萌えられるヲタクにとって、この作品の結論はちょっと微妙かなぁ、と思っただけの話なんですけどね。(^^;)

2004/04/04(日)

■ 「自己許容」から「現状肯定」へと陥るワナ

 先日、昔の同人誌を整理……するつもりがなぜか読み漁ってしまったのだが(笑)、創作系同人誌を見ていて、非常によく似た文脈がいくつかあるなぁと改めて実感した。その文脈の一つが、掲題の「自己許容」から「現状肯定」に流れる文脈である。これは、簡単に言ってしまうと、「今のありのままの自分でもいいんだ」「他人を気にしてそれを真似しようと無理に努力する必要なんてないんだ」という文脈である。

 この文脈は、アニメやゲームではおそらくエヴァンゲリオンあたりからはっきりとメジャーなものとして出てきたもののように思える。例えば最近の作品で言えば、CROSS†CHANNEL は(一見すると前向きな結論のようで)実は消極的な現状肯定になっているし、あるいはトラウマ探しから自己許容へと流れていくストーリーラインを持ったものとなれば、枚挙に暇がない。創作系の同人誌となると、「なぜわたしは○○をし続けているんだろうか?」という疑問から、「これを喜んでくれる誰かがいるからなんだ」という自己許容の結論へと流れていくストーリーは結構ある。

 いや実はこの話、決して他人事というわけではなく、例えば私が書いた先日の雑記(2003/11/05)も微妙に自己肯定の文脈を含んでいる。こういう雑記は、書いた後になって「我ながら何書いてんだかなぁ……(^^;)」と気恥ずかしくなったりするわけだが、ついこういうことを書いたり言ったりしたくなってしまう気持ちは、多かれ少なかれ誰にもあるのではないかと思う。

 実際、今の社会の中では『自分が認められている』『自分が必要とされている』という実感を持ち続けることはいろんな意味で難しい。子供が「私は要らん子なんです」といじけるように、学生や大人であっても同様な悩みを持ち、鬱になったりする人は少なくない。そうした時に、前述のような「ありのままのあなたでいいんですよ」という語りかけは、優しい言葉として我々の心を癒してくれる。

 「ありのままの自分でも良い」という自己許容は、『多様性を認めて自分も他人も個人として大切にする』という意味であれば決して間違っておらず、むしろ大切なことだと思う。しかしそれが「今の自分のままでもよい」、すなわち『現状のままでも構わない』といった現状肯定の意味を含んでしまった場合、あるいはそのように曲解されたとき、それは危険な甘いささやきとなる。誰だって、何の苦もなく他人に自分を認めてもらえるのであれば、それほど心地よい響きはないだろう。

 先日、ある方から頂いたメールの中で聞いた話だが、SMAP のメジャーソング「世界に一つだけの花」も、そうした曲解が生んだ大ヒット曲なのだそうだ。歌詞はこちらのサイトで見られるのでざっと目を通してみて欲しいのだが、(意図したのかどうかは分からないが)確かに非常に誤解を生みやすい歌詞になっている。よくよく歌詞を読むと、「『オンリーワン』の種を咲かせるために一生懸命に『頑張ろう』」という意味になっているのだが、全体としては『頑張ろう』という部分よりも『オンリーワン』の部分に焦点が当てられた歌詞構成になっており、「ナンバーワンは間違っている、オンリーワンこそが正しい」というのが歌詞の主旨であると誤解しやすい。そのように誤解してしまうと、この曲は自己許容・自己肯定のみを唄ったものとなり、それが現状肯定のための隠れ蓑に使われてしまう恐れが出てきてしまう。おそらくは、実際にそういうふうに解釈されたからこそ、癒しの曲として幅広く受け入れられたのであろう。

 「ナンバーワンではなくオンリーワン」という考え方そのものは、単一指標(例えば成績など)によって評価されていた従来の価値観を破り、多様性を認めて自己も許容し、自分なりの豊かな生き方をしていこうというものであるから、それ自体は素晴らしい考え方である。しかし当たり前の話だが、種がオンリーワンであっても、努力しなければそれが「花」となることはない。つまり、本質的な問題の解決(=今の社会の中で『自分が認められていない、必要とされていない』という感覚を解消すること)には、オンリーワンというコンセプトだけではダメで、その先の努力を怠らず、前に進み、成長して大成しなければならないのである。これまた当たり前のことだが、たとえその人がオンリーワンであったとしても、その人を認めるかどうかを決めるのは、周囲の社会の冷たい目なのだから、オンリーワンなだけで努力もなしに万事オッケー、なんて甘いワケがないのである。だからこそ、自己許容や多様性といった理屈を、『現状肯定』という都合の良い癒しのための隠れ蓑として使ってはならないのである。

 最近は暗黙的に癒しの文脈を含んでいるサブカル作品が多いだけに、逆に真正面からこうした「前向きさ」を描いた作品は非常に貴重なように思える。例えばプラネテスのように、不器用にもがき、苦しみながらも前に進もうとあがく姿を愚直に描いた作品は、やはり我々の心に、前に向かうための何かしらの力を分けてくれるように思うのである。

 多様性を認めるために「ナンバーワンではなくオンリーワン」が正しいとする自己許容の文脈は素晴らしいものである。しかしそれが本当に素晴らしいのは、それが自己努力とセットになって語られ、実行されているときに限られるのだと思う。逆に、努力抜きに正論の名をもって語られる多様性や自己許容の文脈は、現状肯定のニュアンスを色濃く含んでいる。そしてそれは癒しという名の、さらなる停滞と憂鬱をもたらす危険な麻薬なのではないか、と思うのだ。

 最近、とみによく聞くようになった「十人十色」「人の意見や価値観は人それぞれ」といった意見。それが、果たして多様性に基づく発展的議論を促すものなのか、それとも単なる現状肯定と議論放棄を意味するものに過ぎないのかは、そこが分水嶺になるように私には思える。

2004/06/27(日)

■ ふと気付いてみれば....

 雑記、04/04(日)から 3 ヶ月近くまるで書いてなかったわけで。(^^;)

 まあその間、Remember 11 の設定解析やら CLANNAD のネタバレインプレやらプロジェクター導入方法やらと長いヤツをいろいろ書いてたので無理もないのだが、雑記として書きたいネタはちらほらと。中でも CLANNAD のネタバレインプレがらみで特に書きたいことがいくつかあるのだけれど、今日はちょっとした書評のみ。いや、無関係な人には無関係な書籍だと思いますが。

■ SE のための金融入門 〜銀行業務の仕組みとリスク〜

 仕事関係でちょいと金融系のシステムについて調べる必要があったので、興味本位で表題の本を買って読んでみたのだが、これが非常に分かりやすく素晴らしい一冊。SE 向けと書かれてはいるものの、とりたててシステムエンジニアでなければ読めない本というわけではなく、むしろ「金融系の業界人ではない人が、銀行の業務とはどんなものなのかをざっと掴む」ために非常によい本だと感じた。

 いやお恥ずかしい話なのだが、例えば「手形」「当座預金」「引当処理」「デリバティブ」「勘定系システム」等々。用語はしょっちゅう聞くのだけれど、これがいったい何物なのかと言われると、さっっっっぱりというぐらい知らなかった。そもそも銀行の主要業務は何で、どんな感じにお金を動かしているのかとか、死ぬほどある金融商品のうち突き詰めるとどれが重要なのかとか、そういったことを論理的に分かりやすく説明してくれている。しかも枝葉を切り落として書いているので、情報としての密度も濃い。こういう「業界人でない人がその業界のことをざっと概観するための良著」は意外に少ないのだが、こうした情報はもっと出回って欲しいものだと思う。

 ちなみにこの本、バランスシートを元に銀行業務を紐解いていこう、という構成になっているので、簿記の基礎の基礎が多少でも分かっていないとちょっと厳しい。しかし、資本と負債と資産の違いが言える程度の知識があれば、辞書を引きながらで十分に読めるように書かれている。内容も面白いので久しぶりに読みふけってしまった。心理学やら哲学やらも雑学としては十分面白いのだけど、これだけ密度が高くなるとビジネス書でも普通に面白くなるものだなぁ……という感じ。

 それにしても、いやはや銀行ってこんな仕事してるのね、というかまるっきりギャンブルじゃん(←冷静に考えれば当たり前(^^;))、よくこんな複雑なことやってて間違えないもんだなぁ、とヘンなところで感心したり。


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