Original Created 2003/12/27
Last Update 2004/01/12
このページは、CROSS†CHANNEL のネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。
※直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。
通常、私は作品設定の詳細解釈をベースとして作品を読み解いていくことが多いのですが、本作については基本的には設定の詳細解釈は行いません。むしろ大きな視点でざっくりと作品を捉えることにより、作品からのメッセージと作品構造の関係を読み解いていきたいと思います。これは以下の理由によります。
この作品の場合、設定の詳細解釈、あるいは矛盾のない作品解釈を作り上げることにはあまり意味がない。
どのような解釈の立場(SF論、あるいは夢オチ論、太一現実回帰説など)を取ったとしても、作品の持つ最終的なメッセージには大きなブレが出ない。
以下のネタバレゲームインプレッションの一部では作品の設定解釈を試みている部分もありますが、これはあくまで解釈の一つでしかないとお考えください。おそらく、私の解釈でも他の方々の解釈でも、最終的な結論(作品のメッセージ)は大差がないはずだと思います。
原作者である田中ロミオ氏は本作の公式設定資料集のインタビューの中で、本作品に関して「テーマ性みたいなものは持っていない」と公言されています。これを額面通りに受け取るべきか否かは微妙なところですが、仮に原作者が意図していようといまいと、現実的に作品から染み出してきてしまっている『メッセージ』はあると思います。それは、
『人は本質的に重なり合うことはできず、孤独である。そのことを受け入れてもなお交差を求めて生きるのが人である。』
ということです。結局、人間は関係性の中でしか生きていけない。この単純でありながらも本質的なテーマが、様々なキャラクターとの交差の中から自然と湧き出てきて、なおかつプレイヤーの心にグサリと突き刺さった……間違いなく、自分の心と作品とが交差した……のが本作品 CROSS†CHANNEL だったのではないかと思います。おそらくこの点については多くの人にとって異論のないところではないでしょうか。
ただ、言葉にするとこれほど陳腐なメッセージがどうしてこれほど多くのプレイヤーに突き刺さったのかという話になると、やはりそこには作品設定や作品構造の妙があったからだと私には感じられます。ここを読み解いていきたい、というのが今回のネタバレゲームインプレッションです。
とはいえ作品設定や構造を読み解いていく際に、いくつかの事前知識を知っておくと作品の設定や意味を読み取りやすくなることもまた事実だと思います。そこで最初に少し作品から離れて、この手のゲームの共通的な素地にもなっているいくつかの概念(というほどのものでもないのですが)についてまとめてみます。
作品の話に入る前の前置きとしては非常に長いのですが(^^;)、ちょっとだけ我慢してお付き合いください。なお、以下ではヴィドゲンシュタインを初めとしていくつかの哲学の概念を引き合いに出しますが、私はその筋の専門家ではありませんので、与太話として聞いていただけると助かります。
いわゆる自我と呼ばれる一人称の『自分』は自分の身体の中にあります。そして(これも当然のことですが)人間はこの自分の身体という認識境界を越えて何かを直接的に知覚することが決して出来ません。例えば以下のような例を挙げることができます。
隣にいる B さんが怪我をして「痛い」と感じているとします。このとき、Bさんを見て「痛そう」と思うことは出来ますが、B さんが感じている痛みそのものを自分が直接に感じることはできません。
隣にいる B さんが青空を見上げて「綺麗だ」と言ったとします。ところが B さんはもしかしたら色覚が自分とは全く違っていて、実は空が黄土色に見えているかもしれず、それを「綺麗だ」と言っているかもしれません。
つまり、自分が感じている感情、あるいは見ている光景、聞いている音。こうしたものはすべて「自我」と呼ばれる自分の中(自分の「頭」の中、と考えても構いません)で閉じていて、これを他人と共有することは原理的に出来ません。これは人間の「認識境界」とでも呼べるもので、人間の肉体構造上の限界、と言ってもいいかもしれません。
CROSS†CHANNEL の ED テーマ "CROSSING" の歌詞の中に、「世界と自身とを分かつ壁は人をかたどり閉じ込める檻」というフレーズが出てきますが、これは上述した認識境界のことを指しています。
しかし上述したような内容は、我々の日常的な感覚とは少しズレがあります。例えば、
隣にいる B さんが空を見上げて「素晴らしい群青色だね、美しい」と言ったら、 B さんが見ている光景と自分が見ている光景はきっと同じハズだと多くの人は思います。
B さんが怪我をして「痛い」と泣き叫んでいるとき、それを見て B さんの感じている痛みをなんとなく感じ取れるような気がします。
「人を殺すのは悪いこと」だとだいたいの人は思っているはずです。
「頑張ることはいいことだ」ともだいたいの人は思うでしょう。
確かに前述の@から考えても、直接的に B さんの気持ちを感じることは出来ませんし、B さんが考えている価値観がそっくりそのまま自分の価値観とイコールであることは有り得ません。それでも我々はやはり『人間』なんですから、感情や価値観には何かしら共有できたり普遍的なものが存在するはずだ……そう信じている人は少なくないはずです。
これをさらにもう一歩進めて、「人間なんだから、誰しもが当たり前に持っている感情や価値観はあるはずだ」と信じている人も少なくないはずです。例えば、花を見て美しいと感じる心、餓死していく子供たちを見てかわいそうだと思う気持ち、こうした気持ちはおかしな人間でなければ誰しもが共通的に持っている感情のハズだ、と思っている人も少なくないはずです。
本質的に価値観や感情は共有できないはずであるにもかかわらず、人間であるのだから誰しもが共通的に、普遍的に持っているモノがあるはずだ、というのはどこか矛盾しているようでありながら、それでも何故か説得力があります。実際このような考え方は、(ごく最近こそ減ってはきたものの)ひと昔前の人間であれば、ほとんど誰しもが何の疑いもなく信じていました。おそらくこの文章を読んでいるような、20 代から30 代の方々であれば、親や先生から「最も人間らしい生き方は○○なんだから」といった理由付けで叱られた記憶があるのではないでしょうか?(^^;)
さて、このような「なんとなくみんなが信じている普遍的な感情や真理」というのは実際には時代や場所によって大きく変化します。例えば高度成長期の日本であれば誰しもが「滅私奉公」「頑張って働くことはいいことだ」といったことを(ある意味では)本気で正しいことだと信じ込んでいたわけです。宗教や国是といったものが、そうした「普遍的な価値観」の形成に一役買っていたことは間違いないでしょう。
しかし冷静に考えてみると、「『普遍的』な価値観」でありながら時代や場所によって変化するというのはおかしな話です。本当に普遍的に正しいものであるのなら、時代や場所には依存しないはずです。「時代や場所によって変化しない真に普遍的な価値観」「絶対的な真理・真実」といったものは存在しないのでしょうか?
これを(良くも悪くも)論理的に証明してしまったのが、ヴィドゲンシュタインという哲学者……なんだそうです。ヴィドゲンシュタインは、「論理哲学論考」と呼ばれる書籍の中で、以下のようなことを論理的に証明してみせてしまったそうです(専門の方からすると青筋を立てて怒られそうな落語的な解釈ですが、そこのところはご容赦を(^^;)。きちんと知りたい方、興味を持たれた方は、kagami 氏の未キをレビュー中の解説や、前期ヴィドゲンシュタインに関するその筋の専門サイトを調べてみてください)。
例えば数学において、「1+1」の答えは「2」です。でもそれはなぜなのか? というと、それは『数学』という学問体系の中でその答えを「2である」と定めたからに過ぎません。数学という前提条件(論理形式)を離れた瞬間、「1+1」の答えは「0」になるかもしれませんし、「10」になるかもしれませんし、「○Hん」になるかもしれません。「1+1が2である」ことの根拠を示すことは「数学という定められた論理体系の中」においては可能ですが、「数学の外」においてはその根拠を示すことができません。
これは『ゲーデルの不完全性定理』と呼ばれている有名な定理なのですが、このゲーデルの不完全性定理と似たようなことが価値観についても言えることを示したのがヴィドゲンシュタインです。
そもそも価値観や真理・真実を定めたのは人間であり、これらは人間が頭の中(自我の中)で作り出した概念です。しかし前述の通り、それらの価値観や真理・真実の根拠(価値観や真理・真実を無矛盾なものとしている論拠)は人間の中にしかありません(人間が作ったものなのですから当然です)。その正しさを「人間の外のもの」を使って示すことは出来ません。
物理や化学のように「人間(自我)の外部に実体(拠り所となるもの)があり、万人が共有できるもの」を対象としているのであれば、それを論拠として他人とその真実を共有することができますが、価値観やその正しさはもともと「人間」が「自分の中」で定めたものなのだから、その正しさを自分の外に持ち出して証明することができません。
つまり、「普遍的な価値観」「絶対的な真理・真実」あるいは「神様」のような概念的なものは(人間の間でルールとして取り決めでもしない限りは)決してその正当性を証明できない、ということ。簡単に言えば、「頑張って働くことはいいことだ」という価値観を、時代にも場所にもよらず無矛盾で普遍的なものであるとして証明することは決して出来ないということです。
ヴィドゲンシュタインが証明してしまったからなのか、それとも様々な情報が流通するようになって人々がなんとなく気付くようになったからなのか、その原因は分かりませんが、少なくとも今日においては、多くの人が迷信的に信じる「理想的社会像」「普遍的な価値観」なるもの(=『大きな物語』などと呼ばれるようです)が存在しません。
逆に、今は結構多くの人が「物事の価値」や「感情」、あるいは「理想的社会」といったものに対してシニカル(皮肉的)な見方をします。「人を信じたって裏切られるだけだ」「頑張って働いたって何の得にもならないよねぇ」「勉強なんて馬鹿馬鹿しい」「なんでクラスメートと仲良くしなくちゃいけないんだよ」「どこまで行っても人同士が完全に分かり合うことなんてできない」「全員がそう思うとは限らない」などなど……。50 年ぐらい前だったら「そんなすっとぼけたこと言ってんじゃない!」といったよく分からない理由付けで確実に村八分に合ったであろうこうしたセリフが認められてしまう(あるいはうまく論破できない)のが今の社会です。
こういう物言いはある種のスタイルとしてのカッコ良さも含んでいる上に、部分的には真実でもあり、さらにこれを使えばどんな意見もそれを一刀両断で無価値に帰することが出来てしまうシロモノです。自分のわがままに対する屁理屈(しかし実際には価値観は証明できないものなので理屈上は正しかったりする(^^;))としてこうした物言いを使うようになってくるとどうなるでしょうか? 部下や子供が言うことを聞かなくなり、各自が好き勝手をするようになっていく……今日の社会はこうした状況にあると言えるのではないでしょうか。
昔の時代はみんなの価値観がそこそこまとまっていた(or 社会システムが価値観をまとめるように作用していた)ので、それを拠り所に「人を信じるのは人として大切なことだ」とか「頑張って働くのはいいことに決まってるだろ」と叱ることもできました。もちろんそうした根拠は(ルール化しない限り)その正しさを決して示すことができないものなので、しょせんは「社会的な共同幻想」とでも呼ぶべきものなのかもしれません。しかしみんなが普遍的だと「思い込んでいた」価値観が薄れてきた今日では、こうした共同幻想を引き合いにして個々人のわがままを押さえ込むことが難しい状況になってきているわけです。
こうした「共同幻想」が崩壊した世界の中で、自分の価値観、例えば「規則を守ることは大切です」とか「人間は清く正しく生きるべき、そうでない人は人としてクズだ」とかいったものを相手に振りかざしても、当然通るはずもありません。今日においては「そんなのはおまえが自分で勝手に決めたルールだ」と返り討ちに合うのが関の山です。
またこれだけ人の価値観がバラバラだと、心をつなぎ合わせることも難しくなってきます。価値観が近い場合にはまだ「それでも心の底では分かり合えるはずだ」などというごまかしも効きましたが、ここまで価値観がバラバラだと「人は本質的に分かり合う(=本当に同化する)ことなどできない」という当たり前の事実にも気付きやすくなります。
こういう事実に気付きながらも、それでもなお適度な距離感を保って人付き合いをしていくのが「普通の人間」のコミュニケーションというものです。他人は思い通りにならない、あるいは自分と他人はズレていて当然、ある程度自分も我慢しなければならない、そうした当たり前の事実を(特に意識するまでもなく)受け入れ、適度な距離感を保ってコミュニケーションをするのが『健全な人間』(=社会生活に適合していくことのできる人間)でしょう。
しかしこれができないと、ストーカーや鬱病、リストカッターになったりします。これらは一言で言ってしまえば、コミュニケーション能力不全から来る精神病です。(後述しますが、群青学院のほとんどの生徒はまさにこれです。適応係数が高いほどこれがひどくなります。)
さらにこれが悪化し、「完全に自分の思い通りになる世界」や「意識や感情の完全な融和」を求めようとすると、もはや人間として実世界で生きることは難しくなり、発想を逆転させて内的世界へ逃避するしかなくなります。現実世界の中に実在する相手を見るのではなく、自分の心の中で妄想し、その妄想を投影する「生き人形」として現実世界の相手を見るのです。
この感覚は分かりにくいかもしれませんが、次のように考えてみるとよいと思います。今、目の前に見えている世界は本当に実在する世界なのでしょうか? 実際には、目の前に見えているその物体は、網膜に投影された像が脳内プロセスによって処理されて、「頭の中で処理されたデータ」を「頭の中で」立体的に知覚しているに過ぎません。つまり、「知覚する自分」がいなければ「観測対象となる世界」もまた存在しない。今、自分が見ている「世界」とは「自分の頭脳の中に投影されて作り出されたもの」であり、それこそが真実なわけです。とすると、これを少し拡大解釈して、「心の中に作り上げた世界」もまた「本当の世界」と言えるのではないでしょうか。つまり、自分の内的世界(=心の中の妄想)もまた別の真実の世界とみなせるのではないか、と。
このような立場を取って、自分の内的世界もまた真実の世界であるとみなせるようになると、その中で「完全に自分の思い通りになる世界」や「完全な意識の融和」を得ることができます。(感覚的には、常に夢の中の世界で生きているようなものです。)
もちろんこのような論理展開には飛躍があるとか、気持ち悪いと思う人がほとんどだと思います。おっしゃる通り、普通はやはり心の中の妄想世界と現実世界は違うものだと意識しているものです(それが普通の人間です(^^;))。ですが、例えば幼児はこうした感覚(世界と自我との間に境界がなく、全能感を持った感覚)の中に生きていると言われており、それを意識したと思われる会話が本編中にもあります。「たったひとつのもの」ルートに入る直前に、七香と太一の間で以下のような会話がやり取りされています。
「でもさ、太一はひとつだけ、きれいなものを持ってるじゃない?
健全なものを夢見て、それを真似て……何も考えず、誰も傷つけず、生きていきたいと思ってる。
ずっとこの一週間を生き続けてもいいんだよ?」
言葉は優しく、胸に響いた。いや、まるで。胸の内から発せられる声のようだった。どこか懐かしい。しかし仮に、他人との完全な融和や繋がりを追求して内的世界へ逃避してトランス状態になった(壊れちゃった(^^;))としても、人間は孤独であるという絶対的な真実は決して変わることがありませんし、むしろその真実を強固に再確認するだけに過ぎません。
逆に、人が本質的に一人であるという真実が変わらないのなら、「完璧な人間とは一人で事足りる人間のことを指すはずだ」という発想も成立しえます。(作中にも「だから人は、完璧になったら一人で事足りるべきだ。」という独白がありますし、本編中では、太一がDの状況(内的世界へ逃避することによる身勝手な生き方、あるいは他人を傷つけまくる生き方)に耐えられず、最善を目指して一人一人を送り返していっています。)
しかしその絶対的な孤独は頭で想定しているよりも遥かに厳しいもので、手持ちの思い出でなんとかなるような代物ではなく、人間はその孤独に耐えられるようには出来ていません。その孤独を実感した瞬間に精神的な崩壊が始まることになります(太一の場合には発狂し、飛び降り自殺までしようとしてしまいます)。
余談ですが、現実社会でもこれと似たような現象が実際にあるそうです。仕事も出来る極めて優秀な独身キャリアウーマンが、あるときパタリと倒れるケースが散見されるのだとか。いわゆる「自立した女性」であるハズの彼女たちがなぜ倒れるのか? ……「一人で生き、一人で考え、一人で責任を取り、一人で問題を解決する」という「何もかもすべてを一人で」解決しなければならないという精神的ストレスは、趣味や遊びである程度は発散されるでしょうが、本質的な解決にはならないという好例のようにも思います。
つまり、人間は究極的に孤独であるが、にもかかわらずその孤独に耐えられるように作られていない。この絶望的なシチュエーションに対して結局人間はどうするのか? ……と、ここまで書けばお分かりいただけるかと思いますが、実はここに CROSS†CHANNEL の最後のメッセージが重なってきます。
前置きが長くなりましたが、ここまでが前提知識です。続いて本作品の内容について考えていってみたいと思いますが、ここではまずキャラクター設定と舞台設定の 2 つに着目してみたいと思います。
この作品、プレイした直後に各ヒロインキャラの性格がかなり被ってるなぁと感じたのですが、実際、横並びにしてみると面白いぐらいに各キャラの共通点が見えてきます。以下に本編中の主要キャラクターの設定や特徴、そしてその解脱方法(^^;)を簡単にまとめてみます。
両親の離婚により、友貴は母親、見里は父親に。
この後、父親が娘のために必要なカネを手にいれようと犯罪に手を染めたがそれを見里が通報。
見里にとっては規律を遵守することがすべてにおける最優先事項。とりわけ身近な人に極度な規範を求める。
こうした自分の価値観の強烈な押し付けがあり、それが通らないと自傷行動(リストカット)や逃避行動に走る。
彼女の解脱方法 : 近親の者に対しても距離感を持ち、価値観の押し付けをしないこと。
他者を疎外することで自意識が保たれる。結果として虚飾、虚勢、虚栄心の塊となる。また非常に嫉妬深い。
半面、心の中は人への渇望で揺れている。その弱さに入り込むと極度の依存症となる。
最後には関係をリセットしようとした太一をつなぎとめるために自傷行動(ハラキリ)に走る。
彼女の解脱方法 : つかず離れずの適度な距離感を保ち、依存症に陥らないようにすること。
世界に対する潔癖症、人間不信を持つ。
その極みが、霧の心の隙に付け入ろうとした太一に対する極端な嫌悪。霧は極めて他人の悪意に鋭敏であり、太一の持つ本質的な心の闇の部分を直感的に察知している。
半面、唯一にして最大の例外が新川 豊への敬愛。豊兄は完全な潔白であり、霧にとっての潔癖症の心の拠り所になっている。
そのすべての前提条件が、太一からの独白により崩れる。霧は精神的に崩壊し、豊と自らの償いを求めて太一の言いなりになる。
彼女の解脱方法 : 世の中に悪意や理不尽が存在することを受け入れると同時に、それすらも救いであることを認識すること。
自分がとにかく大切で、人の痛みを理解することができない。なにより自分のことが最優先される。
しかしそれを突き詰めてループ世界で他人を見捨てていった結果、どんどん自分の心(=彼女にとって一番大切であるハズのもの)が欠けていくことに気付く。
そして、最後の最後の土壇場で恋をして、ついに一人で生きることの寂しさを理解して共に消えることを願うようになる。
彼女の解脱方法 : 人は一人では存在できず、他人との関係性の中でしか『大切な自分』も存在し得ないという事実に気付くこと。(※ このキャラについては作品中の INVISIBLE MURDER INVISIBLE TEARS ルートで解脱している。)
若旦那とうら若き使用人との秘められた恋物語で生まれた忌み子。彼女はもともと「他人」を必要とせずに生きていける、完全な存在であった。(太一はもともとこの「自立」している曜子に惹かれた)
ところが新川の人々を皆殺しにした日、曜子は殺戮の限りを尽くした太一への本心からの恐れを抱く。
この恐れを隠すために、太一を排除する(殺す)のではなく、同化して取り込もうとした。
一見、太一に対する極度な愛情や依存に見える(そして曜子自身もそう思い込んでいる)行為の本当の目的は、その牙の矛先が自分に向かないようにするための太一のコントロール。
彼女の解脱方法 : 自分と太一の関係が正しい愛情によるものではなかったことに気付くこと。
このように横並びにすると非常に分かりやすいのですが、ほとんどのキャラには以下の 2 つの症状が共通しています。(これがいわゆる本作品で言うところの『群青色』です。)
コミュニケーション不全
他人との適度な距離感が取れず、近づきすぎて極度な依存症に陥ります(精神病の用語では
distance loss (距離感の喪失)と呼ぶそうです)。美希は逆に他人を全く省みません。
極度のわがまま
彼女たちは物事(恋愛、あるいは身近な人など)が自分の思い通りにならないと自傷行為や逃避行為、攻撃行動に走ります。
前述した通り、このコミュニケーション不全やわがままは(ある一定線を過ぎれば)一種の精神病です。確かに本質的に他人と理解し合うことは不可能とはいえ、それでもなお適度な距離感を保って上手にコミュニケーションを取っていくのが「健全な人間」であり、これらが出来ない人たちは人間社会の生活に馴染まない「社会不適応者」ということになります(適応係数の数値はこのようなコミュニケーション不全の度合いを示したものです)。
彼女たちほど極端ではないにせよ、こうしたコミュニケーション不全やわがまま症は、最近の若者(自分も含みますが(^^;))には共通して見られる傾向かもしれません。こうした子供を集めて集団生活をさせ、改善が見られれば社会に復帰させ、逆に悪化するようであればさらに隔離する、その狭間にいるのが群青学院の生徒たちです。
さて、この「適応係数」という観点でズバ抜けているのが主人公である黒須太一です。
幼い頃に母親を亡くして支倉家に引き取られるが、支倉家では虐待に会う。
曜子と共に復讐のため全員を惨殺するが、土壇場で曜子から裏切られる。
このとき、すべての価値観が崩壊すると同時に変性意識を持つようになる(後述)。
現実世界の太一は常に自分の内世界(作品世界)へと逃避しており、その中で陵辱と惨殺を繰り返して心を補う。半面、心のどこかでは人間への回帰を願う。
頭脳が極めて優れているため、人への擬態(=狂暴性を持っていないかのように振る舞う)により人間社会に適応しようと試みる。しかしその結果として冬子を追い詰める。
作中、黒須太一だけは他のキャラと異なり、コミュニケーション不全やわがままがほとんど見られません。これだけ見ると一番まともなキャラに見えますが、しかしその実態は本編最後で明かされる通り、実は極度のトラウマによって内的世界へ逃避し続けている『一番イッちゃってる』キャラです。以下がそのこと(自分がずっと妄想世界の中にいたこと)に自分自身で気付くシーンです。
「俺は変性意識状態に陥ったのではない。
つまり?
俺の意識は。最初から、変性したままだったんだ。
あの日(※)。俺は変質してしまった。今日に至るまでずっと。
いつ爆発するかもしれない、深層とのバイパス。常時接続。心の振幅が制御できない。
撒き散らされる本能。理性が狂う。
虚無的な対話と思考は、理性にかわって意識を保持した。
吹き出る汚水を、泥水が覆うように。
周囲に広がる理性世界に淘汰されないように。」※ あの日=支倉家で殺戮を行った日のこと。
変性意識状態とは一種のトランス状態のことです。この状態では太一は心の深層(=理性の内側にある動物的な衝動)とバイパスしているため、当然、何かのきっかけで突如として極端な破壊衝動に陥ることもあります(太一は特に血の色(赤)を見ることで暴走することがある)。また、「虚無的な対話と思考」とは、簡単に言うと心の中での妄想のことを指しています。心の中でのキャラクターたちとの対話や思考が、かろうじてこうした野性的な破壊衝動を食い止めている、というわけです。
上記の独白が、この作品世界が太一の妄想世界であることを示すもっとも端的な説明なのですが、これ以外にも様々なところでこの世界が太一の心の中の箱庭世界であることを匂わせる伏線が張られています。いくつか例を挙げます。
「電波」というキーワード。
「電波」というのは、精神病に見られる症状として非常に有名なものの一つです。人間には感知できるはずのない電波を感じ(たように頭脳が錯覚し)てしまう精神病患者が結構います。
太一がときおり感じる極度の全能感。
これは内的世界ならではのもの。あれだけの殺人能力を持った曜子を今の太一が捻じ伏せることは、現実では絶対に無理な話。心の中の妄想でもなければできないでしょう。
太一が稀に行う「チャンネル合わせ」行為。
(これはメタものとしての意味も強いのですが)、この作品で言う『チャンネル』とは自意識のことを指しています。これを現実世界などに合わせる行為が太一の言う「チャンネル合わせ」です。
「上見坂町」という枠から絶対に出られず、その中で最終的に陥る孤独。
これは、人間の心が人間という体の外に出られないということを暗示していると考えられます。
作品最後にある、見里のモノローグ。
見里は太一について以下のように語っています。
「たまに驚かせてやろうとのぞきこむと、信じられないほど無感情な顔をしている……そんな少年だった。見里の存在に気づくと、瞳の焦点がぼんやりと合わさって、そしてゆっくりと笑みを作る。」
これは太一がトランス状態の中から「チャンネル合わせ」をしながら現実世界を見ている、と読み取れます。
最終章「黒須ちゃん、寝る」。
ラストで太一がヒロインキャラたちを知覚できなくなったのは、ヒロインたちを自分の心の中から現実世界に送り返したためです(ヒロインたちは死んでいるわけではなく、自我の外(=交差していない別世界)にいます)。つまり「黒須ちゃん、寝る」とは、彼の中にあった暴君とも呼ぶべき存在(変性意識)が眠りにつき、トランス状態が解消された、ということを意味します。
このような項目も踏まえれば、作品は一貫してこのトランス状態にある太一の視点から描かれていると考えるのが正しいと思います。
ただし以下の 2 点についてははっきりとした証拠がないため、詳細な解釈にはブレが出ると思います。これらについては「作中のすべては完全な太一の妄想だった」と一刀両断することも可能ではありますが、全部が全部太一の思い通りになっているわけではありませんし、また「妄想ではなかった(SF 的世界だった)」という設定解釈を完全に否定するだけの説得材料がないことも事実です。
作品中で描かれた各出来事のうち、どれが現実にも起こったことで、どれが妄想内だけで行われたことなのか?
この作品世界(トランス状態の太一の妄想世界)に現れたヒロインキャラたちが、太一の作り出したただの妄想だったのか、それとも本当に人間同士の意識が交差した SF な世界によるものだったのか?
舞台設定解釈の『落としどころ』としては、「一部は現実世界にも起こっていることであるが、それをフィードバックする形で太一の妄想世界の中のシナリオが進んでいる」と考えるのが最も妥当でしょう。
ただこの辺の設定解釈は枝葉末節とも言えるもので、本質的に重要なのは以下のポイントだと思います。
太一は基本的には自分の中に作り上げられた妄想世界(変性意識)の中に生きている。
太一はその変性意識を脱してヒロインたちを送り返したものの、心の中で究極的な孤独に突き当たっていく。
その究極的な孤独の中で太一が至った結論、それが「電波を発信する」(=自我の外にいる他人を求める)という行為でした。作品からプレイヤーへ放たれた強烈なメッセージとも言える最後の一節を以下に引用しますが、以上のことを踏まえてこの一節を見ると、意図するところが強烈に伝わってくるのではないでしょうか?
「こちら、群青学院放送部」
たとえ無駄だとわかっていても。すがりついて生きていく。力強く言葉を押し出した。
「生きている人、いますか? もしいるのであれば、聞いてください。
今あなたがどんな状況に置かれているのか、俺は知りません。
絶望しているかもしれない。苦しい思いをしているかもしれない。
あるいは……死の直前であるかもしれない。そんな、全部の人に、俺は言います。
……生きてください。ただ、生きてください。居続けてくれませんか。
これは単なる、俺のお願いです。
もしこの声を聞いていてくれる人がいるのであれば、ひとりぼっちではないってことだから。
聞いてる人が存在してくれるその瞬間、たとえ自覚がなくとも、俺とあなたの繋がりとなるはずだから。
そう考えてます。
人は一人で生まれて、一人で死にます。誰と仲良くしても、本質的には一人です。
通じ合っても、すべてを共有するわけじゃない。
生きることは、寂しいことです。寂しさを、どう誤魔化すかは……大切なことです。
そのために……他人がいるんじゃないかと思います。
あなたには、誰かとの思い出が、ありますか? それは貴重なものです。決して忘れないようにしてください。
孤独と向かい合った人の、唯一の支えだからです。
理想は、近くにいてくれる誰か。けど今は、そんな当たり前さえ保証されない。
けれど……俺はここにいます。あなたがそこにいるように。」目を閉じる。万感の思いをこめて。
「こちら、群青学院放送部。生きている人、いますか?」
祈った―――
つまり、太一が苦悩の末に辿り着いた結末、それは、
『人は本質的に重なり合うことはできず、孤独である。そのことを受け入れてもなお交差を求めて生きるのが人である。』
という(ある意味では当たり前の)事実を実体験的に感じることだった、そんなふうに言えると思います。
以上のことを踏まえると、二転三転する作品タイトルの意味もまた明らかになると思います。つまり……
この作品で言う「チャンネル」とは自意識(自我、人の心)のことを指している。
「CROSS†CHANNEL」とは、人の自我や心が交錯して、互いに傷つけ合ってしまうことを意味する。(※ 「†」はダガー(短剣)を意味します。)
これがラストでは「CROSS X CHANNEL」に変わっていくが、これは人の自我(思い)が交差するという、人間らしい人同士の関係を意味する。
そして最終章の「黒須ちゃん、寝る」では、エゴ剥き出しの妄想世界の中の黒須(変性意識)が眠りにつき、人間らしさへの回帰が起こったことを意味する。
さて、ここまでキャラクター設定と舞台設定から本作の内容と最終的なメッセージを紐解いてみたわけですが、最後に太一が至った「人は本質的に孤独だが、それでもなお交差を求めて生きるのが人である」という結論は、言葉にするとこれでもかというぐらい陳腐なメッセージです。にもかかわらずなぜこのメッセージがこれほど多くのプレイヤーに突き刺さったのか、ということを考えてみると、二つの理由があるのではないかと思います。一つはこのメッセージそのものの素性の良さ、そしてもう一つはこのメッセージを産み出した作品の構造的な作りの良さです。
本作品に含まれていた最終的なメッセージの素性の良さ、それは、『絶対的な絶望感や極限状態の中における「それでもなお」交差を求める心の前向きさ』によるものだと思います。圧倒的な孤独感は絶対に避けられないものであり、決して打ち勝つことができるものではありませんが、それを単に嘆き続けるのではなく、それでもなお前向きに一歩踏み出そうとする気持ち。その寂しさと前向きさが共存するからこそ、感動が生まれるのではないでしょうか。
ただ、このような「ある種の極限状態におけるひとかけらの良心」のような描出方法は別に本作に限ったものではなく、ある種の今日的な等身大のメッセージでもあります。また至った結論も目新しいものではなく、同じゲームというジャンルを見てみても、Prismaticallization では同じテーマをより理論的な形で取り扱って強烈に訴えかけてきています。
にもかかわらずこのゲームがここまでの共感を得たのには、そのメッセージをこのような優しい語り口で伝えたところに本質があるように思います。この作品のメッセージは、理屈として頭で理解するのではなく、心で理解するからこそ意味のあるものです。しかし幅広いプレイヤーに「心で理解させる」ことに成功したゲームということになると、本作品が初めてだったと言えるのではないでしょうか?
それを支えた理由の一つに、私はこの作品の構造的な作りの良さがあると思います。
本作品の原作者である田中ロミオ氏は、D.O.の家族計画を作られた山田 一氏だという噂があります。その真偽は分かりませんが、家族計画と CROSS†CHANNEL は作品の構造面において非常に似ている点があります。それは、あるシチュエーションの中にキャラクターたちを置いて自然に物語を進めることによって、必然的にメッセージが出てくるように作り上げられているという点です。
例えば家族計画の場合。『家族』というテーマを取り扱った作品の代表例である MOON や AIR などでは、どちらかというと「一点突破型」とも言えるアプローチ、すなわち設定したテーマに対して問題提起と考察の積み重ねで掘り下げを行っていく形で作品が作られていました。これに対して家族計画という作品は、『家族』というものを多層的・多角的に捉え、血縁/非血縁、喜怒哀楽、絆、信頼、関与、そうした意識的・無意識的な様々な感情を小さなイベントの積み重ねで多彩に織り込んでいくことで、複雑系である『家族』を描出することに見事に成功した作品だったと思います。
CROSS†CHANNEL が扱っている内容は非常にテーマ性と概念性の強いものなので、どちらかというと「一点突破型」アプローチの方が論理的には取り扱いやすいはずです。しかし本作品ではそうしたアプローチを取っていません。そのかわりに、『必然的にあの結論が出てくるような』巧妙な舞台設定を仕掛けておき、その中でキャラクターたちを自由に動かすということをしています。例えば、舞台設定やキャラクター設定の以下のようなポイントに着目してみてください(実際にはもっとたくさんあるはずです)。
ループ世界とそのリセット
(心の中での循環思考や精神的な停滞、モラルハザード、価値観の崩壊を引き起こしやすくなります。)
自我の境界(箱庭世界)を想起させる様々な設定や表現
(一人ぼっちの世界、外に出ることの出来ない町、唯一の外界との通信手段としての『電波』。)
依存・逃避などを起こしやすいコミュニケーション不全なキャラクターたち
(ヒロインたちの場合、CROSS X CHANNEL が出来ずに CROSS†CHANNEL をしてしまうわけです。)
初期状態の悪さによって絶対にハッピーエンドになり得ない人同士の交差
(絶対的な絶望感の演出に一役買っています。)
実は最初から最後まで徹底したトランス状態に陥っている主人公
(トランス状態からの解脱により、人間性に回帰していくことになります。)
これらのお膳立てを整えた上でキャラクターを動かせば、無理にストーリー主導でキャラクターを動かさずとも必然的に「人は本質的に孤独だが、それでもなお交差を求めて生きるのが人である」という結論に陥るはずです。
実際、この作品を読んでいると話が二転三転したり、あるいはメタものを匂わせてみたり、といったように脇道に逸れることが多々あります。作品の設定解釈も人によってバラつきます。にもかかわらず最後のメッセージの収束点がほとんどブレないのは、『必然的にそのメッセージが出てくるように仕掛けられた舞台設定・キャラクター設定』にその妙があったのではないでしょうか。
しかもこれらの舞台設定やキャラクター設定には、現代社会の縮図やメタ的要素、トリック要素がふんだんに取り入れられ、またこれらを面白く読ませるためのギャグもうまく盛り込んでいる。人によって何を面白いと思うのかはそれぞれ違うでしょうが、多彩なニーズに応えることができるように「合わせ技」で作られているのも見事です。
表面的に楽しんでもよし、設定解釈に明け暮れてもよし。しかしどういう楽しみ方をしても作品世界の中から伝わってくる最後のメッセージが人によってほとんどブレないのは見事だと言えるのではないでしょうか?
さて、ここまでは基本的に「作品世界の中に閉じた」解釈を元に、本作品世界の『中』から投げかけられてくるメッセージについて解説しました。しかし本作品をメタ的な視点で解釈すると、もう少し違ったメッセージも見えてきます。
(注記) 「メタフィクション」「メタ的な視点」「メタもの」といった用語をご存知ない方もいらっしゃるかと思いますので簡単に説明しますと、「メタ」(meta)とは "metaphor" の略で、暗喩のことを意味します。つまり、ある物事が暗示的に何を意味しているのかを考えたり、あるいはその暗示的な意味合いにこそ本当に伝えたいメッセージが含まれているような場合に、これらの用語が使われます。特にアニメやゲームの場合には、『一段階、視点を引き上げて、作者やプレイヤーといった、アニメやゲームを取り巻く周辺環境までひっくるめて解釈する』ことに相当する、と考えて頂ければよいでしょう。(かなり乱暴な説明ですが、そこのところはご容赦を(^^;))
では、CROSS†CHANNEL をメタ的な視点で解釈すると、どうなるのでしょうか?
ここまで解説してきたように、人は本質的な意味で重なることができませんが、それと同じことは、作者である田中ロミオ氏と、受け手である我々プレイヤーとの間についても言えます。究極的な 100% の相互理解は有り得ない。だからこそ、太一は『電波』に『自分の言葉や想い』を乗せて祈りを飛ばしたわけです。……ここまで書けばもうお分かりかと思いますが、分断された世界間をつなぐために、作者である田中ロミオ氏から、プレイヤーに対して発せられた『電波』、それが本作品『CROSS†CHANNEL』なのです。
こうした見方をすると、エピローグにおける太一からのメッセージも、「CROSS†CHANNEL」という作品全体(各ヒロインキャラのサブストーリーなどもひっくるめた形の『作品全体』)を締めくくるにあたって、田中ロミオ氏がプレイヤーに向けて発したメッセージである、と解釈することもできるのです。
そのことを踏まえた上で、もう一度、先ほど掲載した太一からのメッセージを、作品を通して投げかけられた、田中ロミオ氏からのメッセージだと思って読み返してみてください。「CROSS†CHANNEL」という作品を締めくくるにあたっての、作り手である田中氏の想いが、そこに込められているようには感じられないでしょうか?
もちろん、この作品の受け止め方は人それぞれ違うでしょう(太一からのメッセージのみであればそれほど大きくはブレないでしょうが、各ヒロインキャラまでひっくるめた作品全体の受け止め方となると、かなりブレが出るはずです)。しかし、作品に込められた田中氏の願いや祈り、そうしたものが作品(電波、チャンネル)を通じて少しでも感じられたように思えたのであれば……すなわち『チャンネル』が 交差したのであれば……この作品はまさしく『文字通り』の大成功だった、そう言って差し支えないのではないでしょうか?
さてここまで長々と書いてきましたが、結局、本作品を一言でまとめると、
『CROSS†CHANNEL とは、ディスコミュニケーション世代の人たちに贈られた、原点回帰のメッセージである。』
ということだと思うのです。
例えば我々が何かに熱中しているとき、仕事に没頭しているとき、あるいはプライベートで充実しているとき。そんな生活を送っているとき、多分、我々は本作品で語られたような迷いに気を取られたりすることはほとんどないだろうと思います。しかし、ふと何かの理由で立ち止まったとき、はたとこうした事実に『気付いてしまって』愕然とし、生きる気力を失ってしまう人は決して少なくないように思います。おそらく、先に挙げたキャリアウーマンなどはその好例ではないでしょうか。
日本経済の停滞を引き合いに出すのが正しいのかどうかは分かりませんが、少なからず憂鬱感や停滞感が漂う今日においては、本作品のメッセージである「絶望的な寂しさの中での前向きさ」というのはやはり今一度再確認すべき、大切な原理・原則なのではないか、という気がします。
一人ぼっちは寂しいもの。それでも前向きに進み、触れ合おうとする気持ちが共存するからこそ、そこに感動があり、人間らしい生き方が存在する。そんな当たり前のことを感性で演じ、伝えてくれた本作品 CROSS†CHANNEL は、おそらく立ち止まっている人たちにとって明日への活力となるものだったのではないでしょうか。
……私もまたこうしてゲームインプレッションを書き続けるのは、読んでくださっている皆さんがいるからこそ、なんだと思います。(いつも読んでくださっている皆様方、ありがとうございます。せっかくの機会なので。(^^;))
なにはともあれ、ではまた、来週。
※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)