過去の雑記 2004年7月〜9月



※ トップページはこちらです。

2003/07/30(水)

■ えっと……

 長期放置、またやっちまいました(汗)。ネタはあれども書いてまとめる時間がなかなか取れず。というわけで、今回はちょっと長文で行ってみたいと思います。

■ クラスタ化された人間たちが見る共同幻想

 のっけから訳の分からないタイトルを付けてみたのだが、タイトルだけで何のことかピンと来た人は特にこの雑記は読む必要がないと思う。この雑記、実はなかなかうまくまとめられずにずるずると数ヶ月来てしまったのだが、このままだといつまで経っても書けないような気がするのでとりあえずえいやで書いてしまおうと思う。論理的な甘さやツッコミどころも承知済み、中身は妄想 150% ぐらいで暴走気味、しかも私はその筋の専門家ではないのでその辺は差し引いて読んで読んで頂けると助かります……と取り合えず前置きして。

 以前、Prismaticallization というゲームのネタバレインプレの中でウィトゲンシュタインという哲学者の考え方について軽く触れたが、これについてもう少し詳しく書いておきたい。ウィトゲンシュタインは論理哲学論考と呼ばれる考察の中で『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』という有名な一節を書いた。もちろんこのフレーズだけでは何を言ってるのかさっぱり分からないのだが、誤解を恐れず簡単に書けば、『自らが語るまでもなく当たり前だと思っている自明の理(先験的なもの)であるとか、価値観や倫理観といったおおよそ自然科学の範疇に入りえないもの(超越的なもの)については、その正しさを証明する手立てがない』、ということを言っている(らしい(^^;))。分かりやすく言えば、原理原則を突き詰めていったとしても、自然科学現象のように『自分の外側』に万人が共有できる『事実』がない限り、それを絶対的に立証する手立てがない、ということである。これは直感的にはある意味当たり前のことではあるのだが、論理哲学論考は(いくつかの前提条件を引いてはいるが)そのことを論理的に証明してしまっているのだそうだ。

 別にウィトゲンシュタインが立証してしまったからではないだろうが、かつての時代以上に、今の時代は価値観に関してある種の混沌が増しているように感じられる。というのも、例えば高度成長期と呼ばれた時代は儒教的な価値観・道徳観が当たり前に良いこととされ(例:頑張って働くことはいいことだ)、かなり大多数の人間がそうした共通の方向に向かっていた。実際、その方向に進むことが生活を豊かにすることは間違いがなく、細かい部分でのいびつさこそあれ、大枠としては現実的な報酬などのフィードバックがそうした儒教的な価値観・道徳観を裏付けるものとなっていたからだろうと思う。ところが、今の時代は「頑張って働いても必ずしもお金持ちになれるとは限らない」といった反例や、現実的に頑張らなくてもそれなりの生活が出来てしまう(少なくとも日本では)といった状況もあり、かつての儒教的な価値観・道徳観が必ずしも受け入れられなくなってきている。実際、今の時代は「あの人はそういう人だから」「それもアリだよね」という他人に対する無関心が許容され、『多様性』という一言で、「人を殺したって構わない」などのよほど極端な価値観でない限りは許容されてしまう。

 『無矛盾な形での絶対真理や認識を求めることは不可能』という当たり前のことが証明されてしまった現在。それはいわば皆が信じ込んでいた「正解」が崩壊し、混沌としているご時世である。もちろんそんな世界の中で「絶対真理や認識、価値なんてものは存在し得ないのだから考えるだけムダ」と悲観的になったり、あるいは批評家よろしく他人が信じる価値にひたすらケチをつけたりすることも出来るかもしれないが、それこそまさに Prismaticallization が描いていた『循環する世界』に他ならない。その循環に満足するのであればそれでも構わないのだろうが、私を含めて多くの人はその循環には耐え切れず、何らかの打破を図ろうとするのではないかと思う。

 ではそんな状況において、我々はいったいどこに真理や認識を求めればよいのだろうか。ここではモデルケースとして 3 つのシナリオを考えてみた。

 まずシナリオ@。これははなから相互理解や絶対真理・認識の追及を放棄し(すなわち外的世界の中に正解を求めることをやめ)、かわりに自分の内的世界の中に正解を求め、それを追求するシナリオである。昨今の「萌え」ブームもこの一貫として捉えることができるだろうし、あるいは otherwise の元長氏が sense off や未来にキスをの中で描いて見せたシナリオとも言えるだろう。要するに、自分が感じる気持ちを理屈抜きに素直に認め、それを大切にして生きていくというものである。

 この考え方には基本的には私は強く賛同するのだが、「好きだったら何でもよいというわけではない」という当たり前の問題もある。ギャルゲの中では自分の気持ちに素直になって激萌えな花穂たんの選択肢ばかりをストーカーよろしく選びまくってもよいだろうが(ちなみに私だったら当然ながら雛子たんだが)、現実世界でそんなことをしようものなら笑えないことになる。志貴のようにいきなり 17 分割だとか、ストーカー同士の恋愛劇シスプリ RePure なんてものは(良し悪しはともかく)フィクションでなければ決して成立しない。フィクションとして割り切って楽しむのであれば(=スイッチを入れて楽しむのであれば)これらはまさしく『圧倒的な楽園』であろうが、この論理を日常社会の中に持ち込むのにはさすがに無理がある。

 デザートだけで人間が生きていけないのと同様、快楽だけで日常社会が上手く回っていくはずがない。趣味の範疇で精神の自由が許されるヲタクな世界ではこの方向性がこれから先もさらに強化されていく可能性は高いだろうが、より一般的な日常生活の中では別のシナリオを模索する必要があろう。

 次にシナリオA。これは分かりやすく言えば、一般常識を持ちつつ、一般的な社会生活を営みながらも、その中で価値あるものを見つけ出し、それに向けて個々人が頑張っていくというものである。先に書いた通り、価値観に正解はないのだから、一人一人が(よほど社会的通念に反していない限りは)異なる価値観を持っていても構わない。そうしたものを一人一人が見つけて、そのために個々人が努力して生きていくのが『個人』を認める素晴らしい社会なのだ、という考え方である。

 この考え方も非常に分かりやすく、強く賛同する部分もあるのだが、やはり現実的には難しい面がある。例えば昨今の「ゆとり教育」は形こそ違えど『個人』をベースにして物事を考えるという点においては類似する思想を持っていると思うが、現実的な教育現場を見るととても上手くいっているとは言い難い。理由は様々にあろうが、一つには個々人に最適化された解・価値観を見つけ出すことの困難さもあるだろう。みずほ先生だって自分の「最優先事項」で手一杯なのに生徒一人一人に最適化された解を見出してあげることなど不可能に近いし、生徒の方にしてもある程度の思考力や社会性が身につかない状況の中で自分の信念を見つけろというのは無茶に近い。

 つまり、『個々人一人一人』が自分にとって『最優先事項』な信念を見つけ出すというモデルは理想論としてはともかく現実論としては難しい。かつては外部に「儒教的倫理観」という共通のリファレンスとなる信念があったからこそそれを自分に取り込みやすかったわけで、やはり外部にある何らかのリファレンスを参考にしてそれを自分の『信念』として取り込む、あるいはそれを参考にして自分なりの『信念』を作り上げていく、そしてそうした『信念』は個々人ごとに完全に違うものではなくある程度の類似性があり、グルーピングが可能だというのが現実的なモデルだろう。

 そこで出てくるのがシナリオBの考え方、すなわち類似したベクトルを持つ人たち同士で集団(クラスタ)を形成し、相互に好影響を与えながら同じ方向を目指していくというものである。具体例としては宗教団体をイメージすると分かりやすいが、各集団ごとに何らかの共通的な理念を持ち、その理念に向けてチームで邁進していく、というものである。

 以前の雑記の中で ビジョナリーカンパニー という書籍を紹介したが、この書籍の中の考え方もこれに近い。原著にある "Vision" はこの邦訳の中では「基本理念」と訳されているが、私は意味的にはむしろ『信念』と訳した方が的確なようにも思う。このビジョナリーカンパニーという書籍では、ビジョン(基本理念)を正しく持ち、それを正しく維持出来ている会社が長期的に大きな繁栄をしていると述べているが、ここで言われているビジョンとは、まさに会社に属する人に基本理念、行動の基本となる信念を与えるものであろう。

 ビジョンを共有するクラスタの大きさはまちまち(最小単位としては家族、最大単位としては国家、あるいは人類全体など)であるが、いずれにしても正しくビジョンを共有できた場合のそのクラスタは恐ろしいまでに強い力を発揮する。ビジョナリーカンパニーと呼ばれる会社、例えば IBM やソニー、あるいはウォルト・ディズニーなどに属する人々の勤勉さや力強さは、カルト教団やテロ組織のような恐ろしいまでの執念に類するものがある。要するに、良くも悪くも人間は信念や理念の方向性が一致したクラスタを組むことで(プラスかマイナスかは別として(^^;))集団としてかなりのパワーを発揮するのである。

 しかしここでもやはり先に述べた問題は残る。すなわちそのクラスタ(集団)の形成過程、別の言い方をすれば自分が属するクラスタのコアとなるべき『ビジョン』をどう見つけ出すかという問題。これに関してはやはり解決が必要である。

 「ビジョン(信念)」というのは決してその正しさを証明できるものではない。最初に述べたように、価値観や道徳観といったものに無矛盾な形での絶対的な正しさを求めることは出来ない。他人が提起したビジョンに共感を覚えてそれに属するにしても、あるいは自らビジョンを掲げるにしても、やはり自己の中に何らか「理屈を超えた理由付け」(疑いようのない勇気と呼ぶべきもの、シニカルに言えば勘違いであり、幻想である)が必要になる。つまり、論理的な理屈的な正しさの中からビジョンを見つけ出していくことは出来ないのである。

 もちろん、世の中にリファレンスとなるものはたくさんある。いわゆる宗教の類もそうだし、あるいは会社が掲げるビジョンでもよい。あるいは X ゲームであったってアニメであったって構わない。そこに何らかの信念、力強い想い、「ぜったい、だいじょうぶだよ」などがあればそれらはすべてリファレンスとなりうる。しかしそれらはあくまでリファレンスであって、『自分の』信念ではない。借り物の信念では、もしかしたらさらに自分好みな信念がどこかに現われてそちらに乗り換えてしまうかもしれない。そんなものは信念とは言えないだろう。信念というのはどんな極限の条件下でも変わらない、永続的に続く基本的価値観・道徳観である(と少なくとも自分が無根拠に信じられる)ものでなければならない。

 この考え方は先に述べたビジョナリーカンパニーという書籍でも「優れたビジョンとは何か?」という観点から同じことを述べている。ここに少し引用しよう。

「これはきわめて重要なことだが、表3.1に示したビジョナリー・カンパニーの基本的価値観をもとに、自分自身の会社の基本的価値観を作る罠には、絶対にはまらないようにすべきだ。ビジョナリー・カンパニーのものであっても、ほかの企業の価値観をまねたのでは、基本理念にはならない。…(中略)… どの価値観がもっとも現実的で、もっとも人気があり、もっとも利益を生むのかを「計算する」のは頭の体操にすぎず、これでは、基本的理念は生まれない。基本理念を掲げるときには、心から信じていることを表現するのが不可欠であり、ほかの企業が掲げている価値観も、社外の人間が考える理念のあるべき姿も、なんの意味もない。」 … ビジョナリーカンパニー (日経BP) 第 3 章より引用

 結局そうした信念とは、様々なリファレンスを参考にしつつ、自分の生きてきた人生の中から共通の法則として抽出する、見つけ出すしかないものなのだ。

 私自身について言えば、自分が進むべきベクトル、信念は今年の半ばになってようやく見つけることができたように思う(というより、そうした信念の重要性にようやく気付いたのが昨年の中頃だったが)。それが何であるのかをここに書いても仕方ないので書かないが、しかしそれを得るためにやったことは、自分が生きてきて、考えてきた軌跡を振り返って、そこに共通していた法則、本質的な最優先事項を拾い上げただけのことであった。……その自己分析に、数々の X ゲームのシナリオ分析・解析のアプローチが役立ったのは皮肉としか言いようがないのだが(爆)、まあそこはそれ、芸は身を助ける、ということで。

 しかし改めて思うのは、なぜこんなにも本質的で大切な「人間社会の基本構造とロジック」を誰も正しく教えてくれなかったのか、ということだ。ここにだらだらと書いた内容の結論(=人間社会は価値観によりクラスタ化されており、自分が属するクラスタの価値観は自分の中から見つけなければならない)は読み返すまでもなくありきたりで、誰しもが何となく直感的に理解している当たり前のことであると思う。しかしその理屈をきちんと論理的に説明してもらったことは、私の場合は残念ながらなかった。……というか、こういうことをきちんと教えるのが国語なり道徳なりの授業の目的なんじゃないかと思うだけに、金返せ状態(^^;)である。

 ヴィドゲンシュタインが論理哲学論考を書いてから 80 年以上が経過している今になって、何も私が今さらビジョナリーカンパニーと論理哲学論考の橋渡しなどしなくても絶対に似たような話は出ているに違いない。『自分の』属するべきクラスタの信念が何であるのかに今さらながらも気付けただけまだマシなのかもしれないが、「個人のあり方や価値観」を必要以上に重視する今の時代だからこそ、なおさらこうした考え方、今の社会のあり方としての「クラスタ化された人間たちが見る共同幻想」「信念の共有体としてのクラスタ」という考え方は重要なのではないかと思う。そうした信念を見つけられれば、この混沌とした世の中で自分が生きていく指針と方向性が見えてくるものなのだろうから。

■ というわけで次回は……

 すんません、もうちょっと軽めの話題を。……いや、書きたいことはいろいろあるのですよ。まほろ 2 とか、おねツイとか、その他もろもろ。というか、深衣奈&樺恋に萌え。OP のスク水とか、ワナだと分かってても萌え。(^^;)

2003/08/02(土)

■ サクラサクミライコイユメ & 未来へのMelody

 というわけで今日はちょっと軽めの話題を一つ。ご承知の人も多いだろうが、最近のアニヲタ系 CDS の大ヒットはなんといっても一瞬とはいえオリコン 第 9 位にランクインした おねがい☆ツインズ OP テーマ "Second Flight" だろう。いつもながらの重厚な曲調に載せて絶好調な KOTOKO & 佐藤裕美という贅沢なツインボーカル。強烈にアイタタタなモノローグがすべてを台無しにしている気もしなくもないが(笑)、とはいえ抜群のテーマソングであるのには違いない。映像もまさしくスク水キタ〜〜〜!!である。(個人的には曲は ED テーマの "明日への涙" の方が好きだが(^^;))

 しかし私としては今期の OP/ED テーマのイチオシとしては D.C. (ダ・カーポ) の "サクラサクミライコイユメ" と "未来へのMelody" を挙げたいところだ。さすがに地方局の深夜枠、しかも X ゲーム原作ということで知名度は低いようだが、テーマソングは本気でピカイチだ。

 まず OP テーマの "サクラサクミライコイユメ" は前向きな明るさに溢れ、聞いているととにかく元気が出てくる一曲だ。メロディラインの運びはとても素直でありながらなかなか飽きがこない。歌姫の yozuca さんの声質も曲にピッタリ。編曲がやや光り物が強すぎる感はあるけれど、それもまた一興。サビのメロディラインと歌詞がとても心に残る一曲だ。

 そして ED テーマの "未来へのMelody"、こちらも素晴らしい一曲だ。この曲、成恵の世界の OP テーマ "流れ星☆" を担当された CooRie による新曲。ファーストシングルの "大切な願い" を思い出させる落ち着いた曲調、そして暖かみのあるメロディラインがいつもながら素晴らしい。最初に聞いたときよりも何度か聞き込んでいったときの方が味わいが出てくるのだが、これはメロディラインや編曲が練り込まれている証拠だろう。最初から最後まで綺麗に流れていくメロディラインとその音の広がり方は必聴だし、これを見事に暖かく歌い上げている歌姫 rino さんの美しい歌声も聞き逃せない。

 しかしアニメ版 D.C.、こんな名曲 2 曲に恵まれていながら、あのやる気のない OP と ED はいったいなんなんだ、と激しく突っ込みたくなる。いやまあ予算がないんだろうということは重々承知しておりますが(^^;)、PV なんぞ作るカネがあったら OP と ED にお金かけてくれよと言いたくなる。この名曲にあの OP と ED の映像はもったいなさすぎる、そう思うのは私だけだろうか?

 知名度が低いだけあってか、なかなか流通も悪いようで店頭ではなかなか見かけない CDS ではあるが、是非一度手に取って聴いてみていただきたい一枚だ。"Second Flight" などとは違って流行系の曲ではないが、どちらも心に残る名曲だと思う。

■ I've 4th/5th アルバム "LAMENT/OUT FLOW"

 話題ついでに I've の 4th/5th アルバム "LAMENT/OUT FLOW" についても。収録曲一覧はこちらにあるのだが、ついに "Ever stay snow" が収録されるというのが興味深い。I've の曲に限らず、曲の人気は良くも悪くもそれが使われているゲームやらアニメやらの人気にかなりひきずられるものだが、ゲームの人気とは裏腹にテーマ曲が高い評価を受けているものがいくつかある。その代表格とも言えるのがこの "Ever stay snow" だ。この曲はそのメロディラインの奥行き感が素晴らしい。広大なゲレンデを思い起こさせるダイナミックな曲運び、簡潔にして要を得た編曲。私は随分長いこと聴いているが、今でも mp3 ウォークマンから手放せない一曲になっている。

 I've の楽曲は曲の作り込みが丁寧なので全般してかなり好きなのだが、一点だけ、あのだらだらと続く前奏だけは何とかならないものか、とよく思う。"Second Flight" や "明日への涙" のように同じメロディラインを少しずつ楽器を増やしていくパターンも、さすがに 1 分近く続くと飽きるというもの。アニメやゲームなどで実際に利用されるショート版の方がすっきりしていて聴き易いし夢中になれるとか、もう一小節少ないだけで全然違うんだけどなぁ……と思わせてしまうあたりはダメなんじゃないかと思う。この点、"Ever stay snow" などは I've としては前奏や間奏がすっきりしているというのも私としては評点の高いところなのだ。

 またボーカルの SHIHO さんの声質が曲調にぴったり合っているのも良い。I've のボーカルというとやはり KOTOKO さんが筆頭だが、あの甘さとツヤのある歌声は一長一短。SHIHO さんの歌声なくしては名曲 "Ever stay snow" は生まれなかっただろう。

 "LAMENT/OUT FLOW" にはそれ以外にも BALDR FORCE の OP テーマ "Face of Fact" や、KOTOKO さんが自分の作った歌詞で泣いてしまったという逸話もある "Feel in tears" なども含まれている。まあここに来ている方々ならデフォルトでチェキ!だろうが、確実に get したい CD だ。

2003/08/10(日)

■ TBS アニメフェスタ 2003

 昨日、TBS アニメフェスタ 2003 に参加してきた。午後 2 時スタート、終了は 9 時ちょっと前という、7 時間近くにも渡る超長丁場のイベント。久々のアニメイベント(多分 5 年ぶりぐらい(^^;))になかなか楽しいと思う半面、最近のイベントは随分と様変わりしたものだなぁ……と退役軍人のようなことを感じてしまった。ネタバレにならない程度に軽くレポートすると、こんな感じだ。

 個人的には男性向け/女性向けを前後半にきっちり分けて、スケジュールを事前に公開してもらえていたらさらに良かったのだが、全体的にかなりのお金をかけて(TBS や関連スポンサーも相当なコストを持ち出していると思われる)用意周到に準備されたイベントで、満足度は極めて高かった。よく頑張っていると言えよう。

 ちなみに私的に一番面白かったのは、最後の休憩時間(=月姫、まほろ、ぽぽたんの前)に「皆様にお知らせ致します、ここから先の上映はお子様には一部不適切な映像が含まれておりますので予めご了承ください」みたいなナレーションが入ったこと。会場中で思わず爆笑が起こったが、さすがに狙いすぎだ(^^;)。

 さてこれだけで終わると雑記としてアレなのでもう少し書き足しておきたいのだが、全般すると BS-i(TBS BSデジタル) とパイオニア、あるいはバンダイビジュアルのタイアップがかなり強烈だということを改めて痛感させられるイベントだった。誰しもが薄々と気付いているとは思うが、BS-i は現時点では視聴者が極めて少ないこともあってか地上波に比べると制限が驚くほど緩い(例えばテレ東のアニメではヌード厳禁(魔法少女の変身シーンですら例外ではない)という徹底的な規制がある)。BS-i の放映ラインアップを見ていると、WOWOW の寸止めエロアニメ おねツイですらかわいく見えるほどの直接描写が多い。まほろもぽぽたんも脱ぎまくり、さらに月姫では 17 分割までやってしまうなど、地上波ではあり得ない映像のオンパレードだ。

 TBS の人が会場内のトークで「どこまでやれるか実験段階」と言っていたが、まさに現状は「口うるさい PTA からの苦情がないからこそのやり逃げ」状態に等しいと言ってもよい状況だ。ある意味、最近の BS-i の強烈な快進撃は辣腕プロデューサーの力によるところが大きそうだが、果たしてこれがどこまで続くのか?というのは一つ見どころのような気がする。

 ……まぁ個人的にはシュガーのような作品をもっと作って欲しいのだが、さすがに無理だろうなぁ(^^;)。

2003/08/30(土)

■ ちっちゃな雪使いシュガー・特別編 〜 その胸にあるもの

 昨日、本放送から約 1 年半ぶりに放映されたアニメ、『ちっちゃな雪使いシュガー』。おそらく名前だけならご存知だという方はかなり多いのではないかと思うが、流行系のアニメではないので当時の本編をご覧になられた方は少なかったかもしれない。個人的には歴代 5 本の指に入る非常にお気に入りな作品なのだが、あれから 1 年半も経った今になって見た OVA 新作はなかなか感慨深いものがあった。

 ネタバレになるので詳細は書かないが、BS-i で二週間に渡って放映されたシュガー特別編は、物語(ストーリー)で見せる作品ではなく、想い出と雰囲気で魅せるタイプの作品だった。平凡すぎるぐらい平凡で、どこまでもごく普通のありきたりのお話。物語としての非日常性(いわゆる何かしらの予想もしていない「イベント」や「事件」が起こること)に期待していた人は、きっと肩透かしを食らうに違いない。本編以上に起伏のない物語だったと思う。

 しかしそれこそがこの作品の良さでもある。もともとこの作品は本編自体も非日常性・イベント性を極力排除した「日常感」を非常に大切にしており、その日常の中にある暖かさこそがこの作品の魅力だった。だからこそこの作品は、「その胸にあるもの」、つまりサガたちや我々視聴者の中にある想い出を懐かしく思い出しつつ、心に染み入ってくる雰囲気を楽しむように作られている。

 1 年半ぶりに見たシュガー特別編は物語としてドキドキするような面白さや楽しさはなかったが、同窓会で昔話に花を咲かせるような、懐かしさと郷愁の念を思い起こさせる、そんな暖かさが素晴らしい作品だったと思う。

■ ちっちゃな雪使いシュガー 本編アニメインプレッション

 ……と、これだけで終わってしまうのも何なので、本編を見たことがある方々向けに本編のインプレを以下にまとめておきたいと思う。この文章は別の場所に本編の放映終了時に書いたものなのだが、読み返してみると割とよくまとまっているのでこの機会に多少手直しして再掲しておきたいと思う。

 なお本編のネタバレが含まれているので、本編を見ていない人は読まないことをお薦めしておく。

 さてこの『ちっちゃな雪使いシュガー』という作品は、久しく見られなかった、少女の精神的な成長を描いた作品である。歴史的にアニメ作品を振り返ってみると、こうした少女の成長を描いた作品としては魔法少女シリーズが非常に有名であるが、本作品は全く違う手法によって少女の成長を描いている非常に見事な一作になっている。

 本作品について解説をする前にそもそもなぜ魔法少女シリーズに少女の精神的な成長をテーマとしている作品が多いのかについて簡単に説明をしておくと、それは少女が大人に変身するという魔法があると、外見的な成長・成功と、精神的な成長・成功との乖離が起こりやすいからである。つまり一時的に魔法の力によって成功を収めさせ(仕事や恋愛など)、その後、実際の自分とのギャップを明確化し、最終的には魔法や使い魔(魔法を持ってきてくれたペット)との別れを通して精神的な成長の物語に帰着する、これが一つの王道パターンである。

 これに対して本作品はそうした王道パターンを取るのではなく、主人公であるサガの設定に工夫を加えている。早くに母親を亡くしてしまい、しっかり者として育ったという設定にすることで、ある方面について精神的に無理をした成長をしているという状態を作っている。その結果、サガにはゆとりがなかったり、あるいは感情起伏が少なかったり、見た目とは裏腹に人付き合いが表面的だったり、といった致命的な問題をかなり抱えている。(サガの口癖の「計画立てなくちゃ」というのは子供らしさの欠如というよりも、むしろそうした精神的なバランスの悪さを端的に示しているものだと捉えるべきだろう。)

 こうした状態をスタート地点として、最終的にはサガが精神面でのバランスを取り戻していく、というのがこの作品の『サガにとっての』物語であるのだが、この作品の上手いところは、これをサガ一人の物語にするのではなくて、シュガーとの触れ合いを通した『二人の成長劇』にしたところにある。

 シュガーの側からこの作品の物語を見てみると、天真爛漫、悪く言えば自分勝手なシュガーが、サガとの触れ合いを通して、きらめき(=人を思いやる気持ち、思いやり)を得ていく話になっている。前半ではきらめきをがむしゃらに捜すが見つからず、ふとそれと離れてみたときに人との触れ合いの中でそれと気付くことなく思いやりを学ぶことができ、魔法の花が育っていく、そんな筋書きになっている。

 これに対してサガの側からこの作品の物語を見てみると、まず第一ステップとして、シュガーとの触れ合いを母娘の やり取りに見立てながらサガに上手くゆとりを作らせ、いいお母さんとして 思いやりとゆとりを持つことができるようになる。そして次のステップと して、今度は今のサガを形作るすべての発端となった、母親の死との向き 合いへと物語を進め、少しずつ感情を解放していくプロセスを踏むことになっている。わずかずつ、「頭で考え、計画された行動」ではなく、「心で感じて、素直な気持ちによる行動」ができるようになっていく、というプロセスを、日常的なイベントを経て描いていくわけである。

 こうした観点から見ると、最終話のエピローグが示しているところも分かりやすい。サガが最初の時点で持っていたしっかりものの部分を失うことなく、それに『加えて』豊かな感情や子供らしさとを追加で得ることでバランスの良い子に成長した、それがサガの物語の帰結点である。表面的には感情表現が豊かになったことや遅刻する部分を指して「歳相応の子供らしくなった」ようにも見えるのだが、このエピローグが示しているのはそうした幼児退行ではなく、より魅力的な少女として『成長した』という描かれ方になっているのである。全体を俯瞰して考えると、実に綺麗な物語になっているのがよく分かる。

 またこの作品の良さは、こうした作品構造や物語のテーマを敢えて明確に語ることを避け、常に日常劇の範囲内に収め続けたところにもあると思う。例えば、表面的なところではすぐにバックボーンにあるテーマ「サガとシュガーの成長劇」に直結させられる内容は読み取りにくい。本作品は多くの場所で変化球を加えた演出がなされており(喉元まで出かかっていながらギャグでなかったことにされてしまう、といったある種の肩透かし的な部分など)、 各話を 1 話単位で見ても各ストーリーの「気軽さ・手軽さ」が強く感じられ、テーマ性を非常に感じ取りにくくなっている。明確に成長劇であるということをうたっている部分は「きらめき」ではあるが、それですらその正体が何であるのかは明確には最後まで語られていない(普通に見ていればそれが「思いやり」を指していることは誰にでも分かると思うが)。

  テーマ性を持つ作品は時として語りたがり、もしくは語らせたがりな作品になりがちなのだが、この作品は敢えてその方向性を避けている。 しかし最終回のシュガーとサガの涙、そして季節使いたちとの永遠の別れ、 それらはそれぞれ二人の成長劇の終幕として非常に綺麗な内容であり、二人の間の「きらめき」は多くの視聴者の心に届いたのではないだろうか。

 まとめれば、この作品は、実直すぎるテーマをストレートなメッセージでは なく敢えて日常劇の中にそれとはわからない形で散りばめ、心に感じさせる という手段で伝えようとしたものであり、なおかつ思いやりや精神的な成長は一人ではなく人との心の触れ合いによって育まれていくのだということを、見事な演出によって描いた作品だと思う。

 おそらく、昨今の市場の状況を見るに再びシュガーのようなストレートに暖かい作品に出会えることはそんなにないだろう。だが、こんな作品を作り出せるスタッフたちが今もまだアニメ業界にいるのだと思うと、また再びこんな作品に出会える日を夢見てしまうのは私だけだろうか。シュガー本放送が終わって今日に至るまでそうした作品は出てきてはいないが、再びそんな作品に出会える日を楽しみにしたいものだと思う。


ご意見・ご感想は掲示板あるいはメールにてどうぞ(^^;)
Pasteltown Network Annex - Pastel Gamers - Notepad written by Machibari Akane