※ トップページはこちらです。
昨年暮れの話だが、水月のビジュアルファンブックが発売された。☆画野朗氏による豊富な原画や描き下ろし CG、トノイケダイスケ氏によるミニエピソード、さらには二人への豊富なインタビューなど、数あるビジュアルファンブックの中でもかなり気合の入った一冊だった。水月をプレイした人であればお薦めの一冊。さて、この本のトノイケダイスケ氏のインタビュー記事の中にこんな一節がある。
「恐ろしく緻密な読み込みをして筋道を立てて考える人がいれば、同じことを魔法という概念を上手く用いて読み取ってくれる人も出てきました。」
私が知る範囲で考えれば、おそらく前者は私のこと、そして後者は臥猫堂ののりさんのことを指しているのだろう。そしてその後ろの、
「僕がこうやって創ったんじゃないか、なんて所まで踏み込んでいる人もいて驚きましたよ。」
というのも、私のことか、あるいは水月ネタバレスレッドのあたりを指しているのだろうと思う。正直なところ、これを読んでいろいろと考えさせられるところがあった。キーポイントを一言でまとめれば、
『ゲームインプレやレビューを介して制作プロセスにまで言及することは作品によってはリスキーであり、かつアンフェアである』
ということである。
通常の作品は、我々の目に直接触れるシナリオや CG の数など遠く及ばぬ大量の検討・ディスカッションを経て制作されている(はずである)。特に練り込まれた作品であれば、作品中では明確に語られない設定や切り落とされたエピソードは本編以上の分量に及ぶこともあるだろう。……まあこんなことはプロフェッショナルな仕事であればゲームに限った話ではなく言うまでもなく当たり前のことなのだが、本編の裏側に隠された、そうした舞台裏とでも言うべき設定や筋書きに迫るために妄想を膨らませることはなかなかに楽しい。そしてゲームの筋書きを要約しつつ、その背後にある作り手の思想や考え方についての妄想を書き連ねたものが「シナリオ解釈」と呼ばれるものである(※シナリオ解釈それ自体はどんなに説得力があるように見えても、制作スタッフが首を立てに振らない限りは真実ではなく、妄想に過ぎない。真実と正解はどこまでいっても作品の裏側に隠れている、ということ)。
私自身はこうしたシナリオ解釈を通して面白いモノの見方を見つけたりするのが好きなのだが、かといって私が行った解釈が作り手の思想や考え方のすべてだとは全く思っていないし、私が考える「エッセンス」が実体とかけ離れていることも多分にありうることはごく当然のように承知している(というか、それは当たり前(^^;))。……なのだが、これを Web 上で公開するとなるとちょっと別の話が絡んでくる。なまじ解釈に説得力があると、それがあたかも制作者の代弁であるかのように見えてしまう危険性があるという点、そしてそうした解釈は読み手のそれ以上の思考を止めてしまう危険性があるという点である。
このことは本来はどちらかというと書き手の問題ではなく読み手の問題ではある。他人の作品解釈など話半分に聞いた方がいい or 読まない方がいい場合もあるし、インタビュー記事もリップサービスだと思って聞いた方がいい。……のだけれど、現実的に上のような誤解が発生してしまった場合に、私はマスメディアである Web を介して「きっとこう創っているはずだ」と語ることができても、往々にして当の制作者はマスメディアを通して「それは間違いだ」と語ることができない不公平さが存在する。(これを不公平とみなすべきかは様々な見解があろうが、Web というのが情報発信するためのメディアとしては即時性や流通性が強すぎるためにバランスが取れていないように思う。)
AIR のように制作者の側からファンの質の悪さを嘆くようなメッセージを投げつけてくるようなケースはこちらとしても一言言わないと気が済まないものだが、こと水月のようにいくらでも深読みが出来るように創られている素材に対して、ある意味、その深さに制限をかけてしまいかねないシナリオ解釈、さらには限られた情報からの憶測でしかない制作プロセスへの言及を行った発言は、今さらながらかなりアンフェアであると同時に失礼な行為だった。この雑記−ページを FC01 スタッフ陣が読んでいることはないとは思うが、この場でお詫びしたい。(※該当のインプレ及びシナリオ解釈は内容的にも中途半端であったため掲載を取りやめました。読みたい方はメールを頂ければ送ります。)
しかし、改めてゲームインプレサイトとして何をどう書くべきかということには正直なところ迷わされる。上に書いたようなこともあるし、またゲーム未プレイでネタバレゲームインプレを読まれてしまうケースもやはり多々存在している様子。Prismaticallization や Ever 17 などは、未プレイでネタバレゲームインプレを読まれてしまったらゲームをプレイする価値そのものが全くなくなると言ってよいぐらいなのだが……
「読む自由」と同時に「読まない自由」もあるはずだ、と割り切ってしまえれば簡単なのだが、現実にはなかなか難しい。もともと私はインプレや解釈を書くためにゲームをプレイしているわけでもないし、本来は他人に公開するために書いているのではなく自分自身の整理と記録のために書いている。そう考えると本質的な問題は公開方法だけなのかもしれない。この点についてはもう少し自分の考えをまとめてみたい……と思いつつ全然まとまらないのでまた今度に。(^^;)
実はアニメ好きでもガンダムは小さい子供の頃しか見ておらず、たまたま薦められて見ている今期のガンダム SEED は初めてまともに見るガンダムシリーズ作品なのだが、昨日の #14 の総集編を見て驚く。シリーズにもよるのだろうが、ガンダムがここまで興味深い世界観を持っているとは全く知らなかったからだ。
今回のストーリーで大まかな設定が初めて語られたのだが、概略をまとめるとこうなる。秘密裏に開発されていた遺伝子操作技術が世界中にばらまかれた結果、人類はこの遺伝子操作を受ける者と受けざる者とに分かれることになった。遺伝子操作によって生まれつき高い能力を持ったコーディネイターと呼ばれる人々たちと、遺伝子操作を嫌った自然のままのナチュラルと呼ばれる人々たち。コーディネイターは頭脳・身体能力共にナチュラルを圧倒しており、努力ではカバーしきれない結果の差を目の前にしてナチュラルの間には妬みや恨みが次第に膨らむ。最初のうちはコーディネイターがナチュラルに物資を供給することでバランスを保っていたが、ナチュラルの要求はエスカレートし、ついにはナチュラルがコーディネイターのコロニーを制裁として破壊するに至り(血のバレンタイン)、両者の武力衝突へと発展していく。……とまあこんな筋書きだ。
この作品、上っ面の人間ドラマの部分はたいして面白くもないのだが、背後の世界観とそれに対する筋書きが非常に興味深い。コーディネイターとナチュラルの戦いとはすなわち、持てるもの vs 持たざるもの、理性 vs 感情、少数派 vs 多数派などといった様々な対立構造になぞらえることができる。しかし、実際にこの作品の物語(ストーリー)を動かしているのはその対立構造の中にある各種の逆転構造なのだ。例えば、ガンダムと呼ばれる強力な破壊兵器を作り出したのはコーディネイターではなくナチュラルであるし、血のバレンタインという暴力に対して武力を持って報復するという野蛮なやり方を取ったのはコーディネイターの側である。さらにナチュラル側のガンダムを操る主人公のキラ・ヤマトはナチュラルに属するコーディネイター。こうなるとラクス・クラインあるいはラウ・ル・クルーゼあたりが実はナチュラルなのではないかと疑いたくなるのだがさすがにそれは安直か?(笑)
また、時代背景的にも今のこの時代にこの対立構図を扱うのは面白い。コーディネイターとナチュラルの対立は日本の総国民中流家庭志向が破綻した、バブル崩壊後の一つのサンプルとも見て取れるからだ。失敗した人・企業への穴埋めを、成功している人・企業が行うという補填の図式は、今の日本の様々なところに見て取れる。これが度を越すとどうなるか。主人公の名前を敢えて「吉良・大和」などという日本的な名前にしたのはこれが原因だとは思わないけれども、ただ、日本が追い詰められている現在の状況によく似ているという意味においてこの SEED の舞台設定は非常に興味深いものがある。
いずれにしても、この対立構造をどのような形で収束させるのかは、上っ面の人間ドラマよりもよほど興味深い。ここで外宇宙からの侵略者が現れて仲良く手に手を取り合って、とでも言い出そうものなら確実にキレるが(^^;)、今のところ両者が融和していくシナリオが見えづらい。というのも、ナチュラルとコーディネイターが共にある程度譲歩していた、血のバレンタイン以前のかつての状態が現実的な一つの落としどころであったはずだからだ。この点に安っぽくないそれなりの答えを出してくれるのであれば非常に面白いアニメになるに違いないのではないかと思う。
友人に言わせると SF 考証がボロボロらしいが(^^;)、切り口によっては結構楽しめそうなアニメ。今回の総集編によって明確に作品に対する視座を打ち出してきたのはある意味分かりやすくもあり、今後の展開が楽しみになるものでもあった。2ch では総集編ということでボロボロに言われていたけれども。
ある少女漫画家さんのコミックスを読んでいたときの話。その漫画は原作つきの 160 ページほどにもなるかなりの大作だったのだが、どうも読んでいてしっくりこない部分がある。160 ページに収めるにしては多すぎる要素数、本筋の展開からすると不要なキャラクターたち、作品全体としてのテーマの不明確さ。確かに漫画自体はそれらの絡み合った要素をうまく整理し、よくまとめられているとは思うのだが、元になっている原作がどうも不必要に複雑になっている感がある。そこでちょっと Web で検索をかけて原作のことを調べてみると、どうも原作自体が商業的な理由によってかなり捻じ曲がったものになってしまっているようだった。もともとは素朴で純粋で心温まる実話だったのだが、それがやがて商業的に取り扱われるようになると、アイドルたちを出演させるために年齢が変わったり蛇足なプロットが増えたり。さらには作品の演出も爽快感を求めるような味付けへと変化し、コミックスの原作は実話とはまるで違うものになってしまっていた。
もともとの実話のキーポイントは、決して物語としてのドラマ性にあったわけではない。日常の中にありふれているにもかかわらず、日々の暮らしの中で意図的に切り落としてしまっていた『本当に大切なもの』。子供たちの一言によってそれに改めて気付かされ、考えさせられる、そんなところにキーポイントがあった。ところがそれが商業的な理由によって安っぽい『ドラマ』に成り代わってしまっている。確かにドラマとしてはよく作りこんだと言えるのかもしれないが、元の実話を知れば知るほど、これを商業化した原作には不満を感じてしまう。元の実話ほどには心を揺さぶられるもの、考えさせられるものがなかったからだ。
しかしそれと同時に感心したのは、その原作を与えられ、漫画化したこの少女漫画家さんのプロフェッショナリズムでもある。商業化された原作の形をギリギリのところで守りつつも、元の実話の持つエッセンスをなんとか盛り込もうとする姿勢が感じ取れた。これこそが、私はプロフェッショナルな条件なのではないかと思うのだ。
プロフェッショナルであることの定義や条件はもちろん様々にあるだろうが、私はその中の一つに制約条件下での最適解を提示できる能力があると考えている。どういうことかというと、誰しもその場で思いついた理想論を振りかざすことは容易く出来るだろう。しかしそれでは話は進まない。様々な知識を動員し、本質を見極めた上での理想論、「あるべき姿」が何であるのかを見極めなければ、物事をより良くしていくことはきっと難しいだろう。しかしそれだけではまだ不十分で、さらにそこに現実的な制約条件を加えて適切な落としどころを見出すことができて初めてプロフェッショナルと言えるのではないかと思うのだ。(もちろん実行力が伴うのは大前提条件であるが)
例えばコンサルタントを例に取って言うのであれば、そもそも何も語れないのは論外。豊富な知識を持ち、顧客の要望を的確に汲み取り、あるべき姿を作り上げることができるのであれば並みのコンサルタント。しかしさらに一歩踏み込み、顧客の状況を鑑みて、世間の状況を鑑みて、バランスのよい現実的な落としどころとその後の展望のシナリオを組み上げ、顧客をリーディングできること、それが真のプロフェッショナルというものではなかろうか。
しかし世の中を改めて見返してみたとき、果たしてこうしたプロフェッショナル性を持つ人々がどれぐらいいるのだろうか、と考えると、残念ながら業界業種を問わずかなりお寒い状況であるように思う。ここで勝手気ままに語っている私にしてもまだまだプロフェッショナルへの道は遠いのは事実だし、先に挙げた少女漫画家さんにしてもまだ様々なところで改善の余地はあると思う。しかし業界業種は違えど、こうしたプロフェッショナリズムとでもいうべきものを肌に触れて感じられるのは自分にとっても非常に励みになるのは間違いない。改めて、プロフェッショナルを考えさせられ、そして同時に帯の紐を締めなおしてかからなければ、と実感させられる一件だった。
こういった業界業種の違うスペシャリスト、プロフェッショナルを目指す方々とは是非ともホンネで話をしてみたいとよく思う。いろいろと参考になったり感化させられる部分があるんじゃないか、そんな気がする。
一部の方面で大ブレイクしている百合モノ小説「マリア様がみてる」。昨今の大ブレイクぶりは同人系では一般教養科目の一つ(^^;)と言ってよいものになりつつある。知人からの強力なプッシュに加え、好みの創作少女系サークルでも扱われるネタであることもあって私も数ヶ月前からぼちぼち読んでいた。現在、『いとしき歳月(後編)』の途中まで。読破してから整理しようかとも思ったが、自分自身の熱覚ましの意味も兼ねて、とりあえずここまでの感想を。
実はこの作品、最初の数巻を読んでいる最中にはたいしたことはないと判断していた。確かにある一定水準を越えた作品ではあるが、物語の展開、キャラクターたちの描かれ方、いずれを取っても不完全燃焼の感がある。特に『黄薔薇革命』が象徴的なのだが、ストーリー展開の基本は「取るに足らない些細な話が、いつの間にか 300 倍に拡大され、いつの間にか収束している」というもの。コアの部分にあるネタは些細なことなのだが、それがうら若き噂話好きな少女たちによって大事件に発展し、そして収束していく。個々に見るセンスの良い部分は確かにあるのだが、かなり小手先の感があった。
ところが『ロサ・カニーナ』あたりから、物語の主体がストーリーを語ることから人物そのものを語る&描き込むことに移ってきたことにより状況は一変する。最初の頃、祥子を始めとして薔薇様たちやつぼみたちは神格化(デフォルメ化)されており、祐巳の視点を通して、個性に欠ける非常にステレオタイプなキャラクターとして描かれていた。ところがこれが『ロサ・カニーナ』のあたりを境にして分化しはじめ、一気に多様な個性を帯び始める。これにより作品としての奥行きが一気に広がり、全く違う次元の作品へと変質した。当たり前のことだが、人と人とのつながりを描く作品は登場人物の二乗に比例した奥行きを持つ。最初の頃は 3 人程度だったものが、この辺を境にして 8 人程度に広がったわけだから、人間関係の数は 3 → 28 ということで約 10 倍。……という計算は冗談にしても、キャラクターに多様性が出たことによりこの作品が『世界』としての深みを見せるようになったことは間違いない。おそらく『ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』で祥子の祐巳への嫉妬が爆発するあたりが作品としての完全なターニングポイントで、この辺りを境にこの作品を見る眼が私の中で一変した。溜めてきた力を一気に解放したカウンターパンチを食らう、そんな感を味わうこととなった。(実はここを越えたのは昨日の夕方あたりだったのだが、それ以降一気にいとしき歳月(後編)の途中までを読破。さすがに疲れて一休み。(^^;))
最終的な読後感を整理するにはまだ早いが、現時点での私の感想をまとめておきたい。この作品の何が素晴らしいのか。主人公(祐巳)の採り方の上手さや精巧で多彩なキャラクター設定、少女たちの少女たちらしい心のゆらぎをダイレクトに伝えてくる今野さんの筆力、これらはこの作品の魅力を語る上では確かに欠かせない。また、『ウァレンティーヌスの贈り物(後編)』で展開される 3 つ巴のシナリオ構成は、個々のシナリオは些細な話であっても単色の音色が重なり合って織り成すハーモニーが見事だ。
しかしやはり私はそれでもこの作品の本質は、友情が織り成していく少女たちの成長物語にあるのだと思う。人と人とが思いやり、心を通わせ、分かち合い、助け合って生きていく姿、すなわち掛け値なしの友情にこそこの作品の良さがあるのだろう。言葉にすると至極当たり前でなおかつ恥ずかしいものではあるが(笑)、そうした「当たり前に価値あるもの」が心の中にすっと染み渡るように入り込んでくる作品だからこそ、ここまでの人気を博するのではないか、そう思う。
一応世間的には百合モノに分類されているのだが、ここまで純化されきった友情を見せられると果たしてこれを百合モノと言ってよいのかという疑問も残る。要するに、純化されきった友情とは果たして愛情なのか、という疑問だ。まあ世の中的にライトな百合モノとして分類されていることに意義を唱えるつもりはないのだが、友情の純度を極限まで高めるも、それでいて同化という一線を越えていない、この絶妙なバランス感覚は見事としか言いようがない。
残りあと 5 冊程度だが、楽しんで読破できそうだ。(……って、最近は仕事が忙しくてそれどころではないはずなのだが(笑))
ふと気付いてみれば 2 ヶ月も雑記を更新していないことに気付く。まあ SNOW とモエかんのインプレで力尽きたとか、風邪で 39.7 ℃の熱を出して一週間寝込んだとか、仕事がクソ忙しいとか、理由はまあいろいろあるのだが、アクセスログを見ていると雑記を定期的にチェックしてくださっている方も多いようでなんとなく申し訳ない気分に。実は次に書くつもりのネタは決まっていたのだけれど、自分の頭の中で整理がついていなくて保留状態(別にたいした内容ではないのだけれど)。そんなわけでとりあえずちょっと軽めの話題をいくつか。
今クールの 13 話限定で、水曜日深夜枠で放映されているアニメ。アニメ化以前からタイトルは知っていたのだが、桜井監督がアニメ化するということで見てみるとこれが非常に面白い。原作も読んでみたのだが、原作の素性の良さがそのまま出ているアニメになっており、このスタッフ陣のあいかわらずの素晴らしい手腕に舌を巻いている。
作品の詳細はコミックスを参照してもらうかこの辺を見てもらうことにしてここでは説明しないが、その設定に至るお膳立てといい、あの状況で学園生活が成り立ってしまうあたりといい、あまりのいい加減さに頭を抱えたくなる。しかしその半面、奇妙な捨て難い魅力が作品にあるのもまた事実だ。お膳立てを前提とした上で見てみれば、狙い済ました決めゼリフ、雨宮の少女漫画的な心理描写、頭の切れる七華の女としての振る舞い、そして稔二のギャルゲ主人公のごときダメっぷり。ベースフォーマットはギャルゲだが、様々な要素が無理なくうまく融合している。ネタバレになるので反転しておくが、「私は私に負けたくない」は久しぶりに忘れ難い名ゼリフだった。
放映中のアニメ版の出来も非常に際立っており、ごくわずかなセリフの言い回しの違いで口当たりをさらに柔らかくするなどの丁寧な作り。原作を読んでいても十分に面白いのはたいしたものだ。キャラ魅力も十分に立っているだけに、OVA 的に 13 話程度でさくっと終わってしまうのは非常に残念。今期はロリハック、もとい .hack// 黄昏の腕輪伝説と並んで水曜夜が強力な布陣だったのだが。
しかしこの作品、見れば見るほど主人公と七華のダメっぷりが強烈。こと主人公のダメっぷりは君望を彷彿とさせるような気すらする。この作品で一番要らないキャラは誰かと問われて、力強く 17 歳の七華だと答えたくなるというのは作品としてどうなのか?(^^;) それにしてもいつからこの手のダメ主人公がデフォルトフォーマットになったのやら……やれやれ。
最近、「寝ながら学べる構造主義」という文藝春秋の新書を読んだ。「構造主義」などという単語すらも知らない人間が、「そもそもそれって何よ?」ということで興味半分で読んでみたのだが、これが素晴らしい良著であった。
「構造主義」というのは、端的に言えば「我々の考え方は常に時代背景や社会、地域などに縛られており、完全に自由な発想や自律的な思考は不可能」ということで、これを何人かの先人たちを取り上げつつ分かりやすく説明している。内容そのものは確かに「まぁそりゃそうだろうな」という感じで、私にとって別に斬新で画期的なアイディアがそこにあったわけではないのだが、とにかくその説明の分かりやすさが素晴らしい。どんなに難しいコンセプトでもたったの数行で核心部分だけをズバっと言ってのける。この割り切りの良さが実に小気味よかったのだ。
難しい思想や考え方を伝えようとするときに、ありのまま 100% を伝えようとするのは専門家の悪いクセ。学術書ならともかくも、一般向けの書籍で難しいものを難しいままにしか伝えられないことこそが、理解や思考が不完全なことの証そのものなのではないか。実際、ビジネス書の世界には良著のキーポイントやエッセンスを数ページに要約して提供するサービスも存在するし、読み終わったあとにキーポイントを問われて、数ワードでサマライズできるのが良著というものではないだろうか。
この著者の内田 樹氏はあとがきの中で謙遜を込めて「研究者の中には私の落語的解釈に青筋を立てて怒る人もいるかもしれない」と書いているが、この内田氏はそこいらの専門家よりもよほど専門家であるに違いない。多少の間違いに目をつぶり、難しいコンセプトの肝を端的にはっきりと伝えられること。つまり『割り切って話せる』こと。それは本当にその内容をよく理解している人にしか出来ない。頭の切れる人、天才とはこういう人のことを言うに違いないと思わせるほどの太刀筋の良さがこの書籍にはある。
いやもちろん、上の本で構造主義について分かった気になるつもりは毛頭ないし、学術的にこれが正しいのかどうかといえば、まあいろいろあるのだろう。しかし私のような『雑学として』読む人間にとっては、こういう「本質、エッセンスだけを凝縮して一冊にまとめた本」は非常に有難いし、この程度で十二分だ。生真面目に真剣に読まなくても十分に読める、まさに「寝ながら学べる」一冊だった。
XI (サイ)というゲームをご存知だろうか。PlayStation 向けに発売されたサイコロを転がすパズルゲームである。プレイ画面はこちらを見てみて頂くことにしてここでは簡単にルールを説明すると、サイコロを玉乗りのように転がして、その目と同じ数だけのサイコロを上面に向けてつなげるとサイコロが消されていく。さらに消されていく最中のサイコロに別のサイコロを転がしてつなげると連鎖をさせることができ、これにより高得点を狙っていくことができる、というものだ。XI は初代が 98 年に発売された後、巨大サイコロが降ってくるようになる XI JUMBO、そして昨年末の XI ゴの 3 作品が発売されている。
しかし昨日、特価販売されていた "XI ゴ" を購入してプレイしてみたのだが、やや残念な感があった。XI JUMBO ほどではないにせよルールが複雑化してしまっているのだ。実は昨年の TGS (東京ゲームショー)でロケテ版をプレイした際には誘爆という要素がなく、ある意味では初代 XI とほぼ同等のシンプルなゲームに仕上がっていた。ところが製品版でこの誘爆が導入された結果、パズルゲームとしては深みが増した半面、シンプルさから来る面白さが失われてしまったのだ。ロケテ版 XI ゴは「もう一つの XI」とでも言うべきシンプルさがあっただけに、非常に惜しい感があった(もっとも、この程度難しくしないと現在の XI のプレイヤーには物足りないのもまた事実であるだけに必ずしも改悪とは言えないとは思うが)。
同様の感覚を感じたゲームは他にもある。PlayStation 2 で発売されたファンタビジョン。こちらはリメイク版として ふたりのファンタビジョン という作品が発売されたのだが、連鎖終了までのカウントダウンをやかましくしゃべったり、本来あり得ない画面反転などの「対戦だからこそ」意味を持つような要素が導入されたりと、あちこちに(私には)改悪としか思えない修正が入れられていた。初代ファンタビジョンは PS2 の中でも一位を争う大好きなソフトだっただけに非常にショックだった。
初代 XI と初代ファンタビジョンに共通するのは、Simple is the best と呼ぶべき洗練されたゲームシステムデザインにある。ゲームルールは単純なのにゲームそのものは奥深い、まさにパズルゲームのお手本とでも言うべきゲームである。やっている作業はひたすら単純なのだがその単純作業の繰り返しそのものが面白い、そんな感覚を味あわせてくれる。
こうしたゲームに出会う機会が減ればおのずとゲームからは離れていくだろうし、ゲーム市場が最近縮小傾向にあるのも(様々な要因が絡んでいるとはいえ)感覚的に納得できてしまう。「こんなに面白いゲームが溢れているのに」とは口が裂けても言えない今の現状はなんとも寂しいものだと思うのだが、どうだろうか。
XI ゴ、とりあえずスタンダードモードでさくっと 100 面までクリアしたので登録してみる。……うは、480 位ですか(苦笑)。みなさんさすがです。私はとりあえず満足したのでこれでお蔵入りですが。>XI ゴ
2003 年第一四半期も明日で終わり。というわけで今週はまさしく最終回ラッシュだったわけだが、とにもかくにも数の多い四半期だった。逆に第二四半期は(私の見るものは)一気に減りそうな感じだが、なんにせよ今週のアニメのいくつかを最終回を通して整理してみたい。(以下思いっきりネタバレなのでまだ見ていない方はご注意を。毒吐きまくってますので、ちょっとキツい文が苦手な方は避けて頂いた方がいいかも。)
さすがは GAINAX とでも言うべき見事なラスト 2 話。やや演出過剰な面もあるが、BS アニメ劇場の作品として母娘揃って安心して見られる見事な一作だったと思う。
作品のテーマとしては友情そのものであるが、それを描出するための 5 人のキャラクターバランスがとにかく秀逸。情に厚いグレンダ、癒し系のココルー、才色兼備なエルミナ、意地っ張りなベス、そしてドジだけどいつも明るいユーシィ。最終的な 5 人のバランスもさることながら徐々に輪を広げていく手順、役割分担、キャラクター間の関係など、これでもかというぐらいよく設計されており、そしてそれが見事にシリーズ構成に織り込まれている。友情を描くからには 5 人の人間関係はまさしく作品の肝なのだが、(意識的にどのキャラ間の人間関係の描出を避けるかというところまで含めて)ここまで成功している作品はかなりレアではないだろうか。
敢えて作品としての弱点を突くとすれば、それは設定の理由付けや裏づけの弱さにあるだろう。諸悪の根源が親父にあるというのにはさすがに苦笑せざるを得なかったが(^^;)、エターナルティアラにせよディアボロスにせよ、そもそも何が発端でどうしてそういう設定なのか、他に回避作は用意されていないのか、それしか解決策はないのか。その多くの理由付けは甘く、説得力に乏しい。すべての悲劇の責任は運命(作品設定)にある、そういう逃げ口上なのだ。こうした部分は作品としての弱さ、甘さと言ってよいはず。
にもかかわらず殊更にあざとさが感じられないのは、悲劇的なシチュエーションそのものを煽ることなく、脚本や演出の力がちゃんとキャラクターたちの友情の部分に向けられており、そこに全力が投球されているからだろう。「なぜ最後にみんなが助かったの?」「いいじゃん、奇跡ってことで。」とあっさり流してもいい気にさせてくれるのはそれゆえのことだろう。ここは上手いとしか言いようがない。
見え透いた泣きを狙う演出、見え透いた展開など、予定調和的な部分の目立つ作品ではあったが、それでもなおやはり涙腺をくすぐるものがあるのはキャラクターがきちんと立っている証拠だろう。秀逸なエピソードも多く(特にエルミナの #12 「挑戦!天界トライアスロン」 #19 「ご奉仕します!ご主人様はヘンクツ様」の 2 作は秀逸)、キャラクター主導の物語はかくあるべし、という見事な作品だった。
しかし BS アニメ劇場、残念なことに 4 月以降はなくなってしまう らしい。あずきちゃん、CC さくら、だぁ!^3、ユーシィと安定して傑作を輩出し続けてきた枠であるだけにショックが大きい。いずれ何らかの形で復活することを心から願うところだ。
全話を見たわけではないのだが、総じて言えばやはりテーマを描出する力量不足だったと言ってよいように思う。オリジナルストーリーなど、かなり意欲的に頑張っていたのは確かなのだが……。
アニメ版のラストでは「運命」ってなんだろう、という疑問提起をして終わっているが、原作でも再三キーワードとして出てくるこの「運命」という言葉は表層にあるギミック(仕掛け)に過ぎない。作品としての本質的なテーマはあやめの花言葉『信じるものの幸福』、すなわち「諦めなければ可能性はいつも身の回りにある」という部分にある。ここで言う『可能性』というのは罠に対する突破口などという狭義の意味ではなく、もちろん現代に蔓延する無気力感に対する突破口のことを指す。理知的でありながらも表面的には無気力感に満ちた主人公・歩のキャラクターがまさにそうで、負け犬の顔をしながら絶えず可能性を探しつづける歩は本作品のテーマを具現化するための設定を持っている。
この作品の中で様々なシチュエーションを通して描出される「正しい現状認識」「決して諦めない心」「ひたすらの努力」は確かに成功のための必須条件であろう。最終話で語られる、「諦めない限り、希望は永遠にある、運命はいつかきっと変えられる」(※ここでは実際に変えられるかどうかではなく、変えられることを『信じられるかどうか』が問題であることに注意)というのにもほとんど異論はないだろう。
しかし、この作品は果たしてそれらをきちんと描けているのかどうか。テーマ設定にも主張にも異論はないのだけれど、全般してそれを描出するためのトリックや展開があまりに稚拙ではないかと思う。本作品のテーマとその結論はある意味当たり前すぎるが故に、それを声高に叫んでもほとんど響かない。この作品のテーマ設定はもとよりシチュエーションの積み重ねで行間から語るしかなかったはずではないか。テーマを語るためのメタテーマやプロットが甘すぎて、極限状態まで追い込めていない(これは原作にも共通する問題点だろう)。テーマに関して異論がないのに作品として見た場合にこうも説得力がないのは、やはりテーマを描出する力量不足だったということではないだろうか。是非ともこのスタッフ陣の次回作に期待したい。
先週のラスト(君の中にもう一人いる)を見たとき、第一部のあとわずかな残りでどうやって 30 分間引っ張るつもりなのだろうかと疑問に思ったのだが、最終話を見て納得。第一部は『佐為編』との副題がついている通り、佐為からヒカルへその意志が受け継がれるところにポイントがある。この部分に関して原作第一部のラストはその一部分を第二部に持ち越しているのだが、第二部からその部分、すなわち扇子のエピソードだけをピックアップして整理した上で、未来への予感を感じさせるような終幕となっている。故人の意志を受け継ぐというのはこういうことだろう、というところをきっちり整理した形でアニメ版を完結させたのは見事だ。
最終話を見るまで全く気付いていなかったのだが、この作品の監督、実は『花の魔法使いマリーベル』の監督も手掛けた遠藤徹哉氏であった。ヒカルの碁の最終話の絵コンテや演出もこの遠藤氏によるものだが、10 年経った今でもその手腕を遺憾なく発揮しているのはさすがだ。脚本の大橋志吉氏も古くはスイートミントなどを手掛けられていたが、当時(10 数年前)とは全く見違えるような脚本に思える。こうしたベテラン陣のこれからも業界をリードしていってもらいたい、そんなふうに感じる見事な最終話だった。
中盤の展開やキャラクターの魅力は非常に良かったのにその幕引きは絶望的という、キャラ主導型メディアミックス作品にありがちな形で終わってしまった。予想はしていたのだが、やはりいざこうして最終話を突きつけられると残念ではある。小ネタの集合でハリボテの作品を作り上げるかのごとき構造のないシナリオ、行き当たりバッタリの展開、そしてそうした安直さを隠そうともせず体当たりの真っ向勝負でぶつけてくる厚顔無恥なラスト。メディアミックスゆえの様々な制約事項があるだろうしどこか一箇所の責任でないことは想像に難くないとはいえ、それにしたって正気の沙汰とはとても思えない。
この作品のラストを見ていると、どうして無理にラストエピソードをつけたのだろうかという疑問に駆られる。無論、作品としての構造の有無は話数の問題ではないのだが、話数が少ない=開発サイクルが短い=あまり企画に時間が取れない、という等式はおそらく成立するだろうから、作品としての構造を作り上げたり練り込むだけの時間が取れないということは十分に考え得る。そしてそれでもそこそこの人気を博するために「お兄ちゃん」な体裁を整えるのを優先させるのは止むを得まい。しかしそうした状況を前提条件としたときに、無理にラストエピソードを付ければ構造のなさが露呈してボロボロになるのは当たり前。そうであるならむしろ構造のなさをいっそ隠してしまってもよいのではないか。要は「やるなら覚悟を決めろ、やらないのなら徹底的に逃げろ」ということで、中途半端が一番よくないのではないか。アニメ版制作の澤井監督だけに責任があるとは思わないが、いずれにしても作品に対する取り組みの中途半端さが致命的になったことは確かなように私には思える。
3/19 の雑記で書いたようにかなりの注目作品だったのだが、見事な幕引きとなった一作だった。桜井監督を筆頭とするこのスタッフ陣の力量の高さを改めて思い知らされるエンディングである。
シリーズを通してみれば全体の構成としては 6 歳のななかの出現を通して、七華や稔二たちの周辺環境が綺麗に再整理される物語として帰結している。一見安易なエンディングに見えるが、人間関係の決着ではなく、『カドが取れる』『丸くなる』といった性格面でのちょっとした変化を作品のハッピーエンドとしたのは本来の作品のテーマからしても正解であろう。人間関係の決着をラストとせずに「終わりの始まり」な作りにしているのは前向きさがあり、後味が非常に良い。
逆にこのアニメ版を見ていると、原作の展開がいかに無理をしているのかというのが如実に見える。特に原作 10 巻の雨宮のセリフ「死んでやるから」は完全に作品として後戻りできなくなる致命的な一歩であり、人間関係の決着に突き進まざるを得ない状況に自らを追い込んでいる。(いやそういや雨宮が告白したのに次の回にあっさりと水に流すとか、留学したはずの雨宮があっさり戻ってくる、なんてのもありましたけど(^^;)) 12 話の TV シリーズの帰結点として性格面での変化を選択したのは、本来の作品の原点に立ち返るという意味で原作よりも遥かに「ななか 6/17 している」と言ってよいようにすら思う。(原作には継続の関係上、こうしたポイントが存在しない。もちろんそれ自体が悪いことではないし、これもまた一つのななか 6/17 ではあるのだが。)
このスタッフ陣の恐ろしさは、(だぁ!^3もそうだったが)原作者自身よりも的確に作品としての肝(骨格構造とテーマ)を見抜いてしまっている洞察力の高さ、そしてそれをアニメ作品にインプリメントできる構築力の高さにある。これをプロと呼ばずして何と呼ぼうか。来クール、このスタッフ陣が取り組むのは「デ・ジ・キャラットにょ」であるが果たして次はどんなマジックを見せてくれるのか。今から楽しみである。
正直なところこれを最終話の枠組みで書くべきかについてはちょっと疑問があるが、一応。第三期は初の 2 クール 26 話アニメ。いきなりの新キャラ登場やフォーマット不在の安定しない脚本で一時期総崩れになりかけたものの、終盤、『逃げ切り』スタイルを確立させてなんとか持ち直した。終わってみれば、第一期・二期ほどの力強さはないけれど総じてみればそんなに悪くない作品だったと思う。
今回の最終話、"…To be continued"ということは本当の裏ファイナルエピソードはOVAでということなのだろう。30 分かけてお膳立てしたこの最終回の展開を残り 30 分の後半戦で果たしてどう崩すのかはさっっっぱり予想も見当がつかない。…がしかし、仮にそれをやるにしてもこういうのはタイミングが大事だ。OVA の発売スケジュールから推測すると、最後の 12 or 13 巻の発売はおそらく 11 月前後。その頃にこの続きを見せられてもかなり今さら感があるだろうことは想像に難くない。この辺、商売上手なのか下手なのかよく分からないというのが本音なところだ。
このことに限らずブロッコリーの最近の戦略はいろいろな意味で迷走しているように見える。詳細は昨年 8 月の中間決算資料を見ると分かるが、子供層へシフトさせることによるマスへの移行、ちょびっツなどの外部リソースの活用、デ・ジ・キャラットの日曜 9:30 枠への投入、秋葉原既存三店のコンセプトの明確化。好意的に解釈するならでじこを中核に据えた多角化戦略ということになろうが、ビジョンを失った拡大戦略である感が否めない上に、実行面においても例えば秋葉原既存三店のコンセプトの明確化が半年過ぎた今になっても行われているとは思えない。拡大の足枷になっているものが何かを知る由もないが、耐性限度を超えた拡大戦略によって自沈していくのだけは避けて欲しいところなのだが……。
一部の話題が逸れたがとりあえず総括してみると、結局、作品としての本質的なテーマを見失わず、きちんとそこに立脚し、そして注力したものは見事な終わり方をしており、逆にそもそもテーマ設定が不完全なものやテーマ自体が存在していないものなどは見事なまでに自沈している。ある意味これは当たり前のことなのだが、以前にも増してこうも明暗がくっきり分かれるようになったのは 1 〜 2 クール型のアニメが多くなったことで今まで以上にボロが出やすくなったことと、私も含めて視聴者側の要求レベルが高くなったことに起因しているのではないだろうか。
短期アニメが多くなり、ますます制作陣営も疲弊しているはずなのだが、そうした中でもきちんと作品を作り込んで世に送り出してきた「ぷちぷり*ユーシィ」や「ななか 6/17」には心から拍手を送りたい。実力と志、その二つがあってこそ初めて実現できるものであろうから。
ご意見・ご感想は掲示板あるいはメールにてどうぞ(^^;)
Pasteltown Network Annex -
Pastel Gamers - Notepad written by Machibari Akane