過去の雑記 2004年07月〜2004年12月



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2004/08/08(日)

■ そして今回も気付いてみれば....

 なんだかんだで、またしても 1 ヶ月以上雑記を放置しているわけで。(^^;)

 いやまあ、大学時代からのヲタク仲間とつるんでプロジェクター鑑賞会を開いてみたり、木崎湖に遊びに行ってみたり、マリ・アン・ゼロに興じてみたりと、まあそれなりに遊んではいるわけですが、実は仕事で追い詰められているが故の逃避行動といった側面も。(汗) 自然とホームページのメンテからはちょっと遠ざかってたんですが、まあ気長にやるのが長続きの秘訣、ということで。

 そんなわけで今回は、ちょっとばかり哲学っぽい話題を。……いや、専門家じゃないんで相当いいかげんな理解&解釈だし、多分ほとんどの人にとっては「当たり前のことを何をうだうだと」となるだろう。けれど、もともと哲学なんてそんなものだろうし、備忘録がわりに書いておこうかと思ったので。

■ 「死の壁」

 最近、いくつかの哲学関係の書籍を読んでいたのだが、それに関連して、養老氏の「死の壁」という新書を読んだ。帯のコピーによれば「逃げず、恐れず、考えた最終解答」だそうで、おそらく前著「バカの壁」がベストセラーになったこともあり、この本についても多くの方が読まれているのではないかと思う。

 確かにこの本、『おじいちゃんの知恵袋』的な読み物として非常に面白く、また養老氏が言うように、「一人称の死(自分の死)よりも二人称の死(他人の死)を考え、他人の事を慮るべきだ」という点については全くもって同感である。しかし、終章での言説については『養老氏の言説としては』非常に強い違和感を感じたので、ここに簡単にまとめておきたい。

 この本で多くの人が読みたいと期待するのは、解剖学の第一線におり、唯脳論を提唱し、「バカの壁」のような大ヒットを飛ばした養老氏が、『死』という、人間にとって一番恐ろしいモノ、人生における一番の大問題をどう捉えているのか、という点ではないかと思う。この本の中で、養老氏は様々な角度から「死」を検証し、「一人称の死(自分の死)は存在しない」という概念を提唱している。amazon などではこの意見に共感している書評も多いが、養老氏が言うこの「一人称の死は存在しない」とはこういうことである。

 死について悩むのは、「一人称の死体」(自分の死体)がどこかに存在していると思うからだが、そもそもそれは誤解であり、それは理屈の上だけで発生した問題、悩みである。よってそんなことは考えても無駄。自分が死んで意識がなくなることなど、夜、寝ることと大差がないはずだ、というわけである。

 しかしこの説は、そもそも養老氏が提唱した「唯脳論」のスタンスと真っ向から反発する。私からすると、「唯脳論を提唱した養老氏がそんなこと言うのは大反則だろう」と思うのだ。その理由を端的に書けば、以下のようになる。

 これだけだと意味不明かもしれないので、以下に解説を加える。

 養老氏が語るこの概念(一人称の死は存在しない)は、別に養老氏が初めて提唱した概念ではない。紀元前 300 年前後に生きていたエピクロスという古代ギリシャの哲学者も同様のことを語っており、彼はまさに養老氏と同様の考え方によって死への恐怖を克服しようとしていた。

「自分が存在するときには、まだ自分の死は存在しない。逆に自分が死んだときには自分は存在しない。よって、自分にとって、死は存在しない。」

 しかし、現代に生きる我々の多くにとっては、このエピクロスの説明は詭弁に聞こえるだろうと思う。それは、我々が主観的な視点(=唯我論的なモノの見方)ではなく、客観的な視点(=自然科学的なモノの見方)でモノを見ることに慣れているからである。

 唯我論的なモノの見方、つまり世界の中心を自分自身に据え、「自分がモノを感じるからこそ世界が存在し、意味があるのだ」とする考え方は、実際、西洋哲学の多くに見られる。考えの深さの違いはあるにせよ、まず「自分が何かを見る、何かを感じる、何かを考える、何かを語る」ところを起点として世界を捉えようとする哲学者は非常に多い。主観的視点のみしか持たないのであれば、エピクロスのような考え方をもって死の恐怖を克服しよう、というのはよく納得できる。

 しかし、これに対して自然科学は事物を主観的視点ではなく、客観的視点から捉えようとする。つまり、『自分の外から自分を捉えようとする』。先のエピクロスの言説を、自然科学的な観点から書くとこうなる。

「自我は、自分の生きている間のみ存在する。よって、自我から世界を見る限り、自分の死を見ることはできない。」

 確かにこの言説自体は間違っていないが、しかしこの言説は、自分の死(客観的な視点から見たときに厳然として存在する死)を否定できてはいない。つまり、自分を「客観視」したとたんに、死の恐怖が再び持ち上がってくることになる。エピクロスの言説は、唯我論的な視点(自分がいなければ世界は存在しない、といった考え方)でなければ成立し得ないものなのである。

 エピクロスの言説に限った話ではないが、これだけ自然科学が成功を収めた現代においても、今なお唯我論的な、主観的視点のみをもって物事の『真理』に迫ろうというのはどう考えてもおかしい。主観論的視点のみから語られるものは、『世界の真理』ではなく、『思想』と呼ぶべきものではないだろうか。「一度しかない人生を大切にするために自分を大切にしましょう」といった人生論として「自我」を特別視するというのは、『思想』としては適切なものだろうし、『一つの考え方』として非常に良いものだと思う。しかしそれは「哲学」が目指すところ、そして哲学者が自称するところの『普遍の真理の探求』と言えるのかというと、私には甚だ疑問である。(いや、ご自分にとっての真理の追究、というのなら違和感はないですが。それとも現在においては、すでに哲学=思想論の基盤を研究する学問、とかに変わってるんでしょうか? この辺は私は専門家ではないので分かりませんが。)

 こうした哲学における「自我の特別視」問題に対して、真っ向からケンカを打ったのが、私は他ならぬ養老氏の「唯脳論」だったと思うのである。

 唯脳論の詳細は、「未来にキスを」のネタバレインプレの中に整理したのでそちらを見て頂きたいが、要点を端的に言えば、

ということ、つまり『自我』とは『脳』という物質(構造)の持つ機能である、という指摘である。我々が「自我」というものを特別視するのは、脳の構造のクセであって、「こころ」というものは何ら神秘的なもの、霊的なものではないんだよ、ということを言ったのが唯脳論だと思うのである。(養老氏は別段新しいことを述べたつもりはなく、みんなが漠然と思っていることを言葉にしただけだ、と言うが、そうはいっても端的な言葉で、科学的な根拠を数多く示しながら説得力あるものとして語ったのは、養老氏が始めてではないだろうか。)

 確かに、我々は主観的な視点でしか物事を把握できない。だからこそ自分自身が実は脳という構造の持つ『機能』である、ということを認めにくい。しかしその違和感は、天動説と地動説の違和感のようなものである。我々の日常的感覚では地球は動いていない。しかしそれは我々が「地球」という内側から物事を観測しているからそう錯覚してしまうだけで、本当は地球は動いているというのが正しい。この感覚的なギャップを、理性というか理屈というか頭脳によって乗り越えることによって、天文学は成立するのである。哲学もまた同様に、自分自身(=自我、こころ)が実は『脳』というコンピュータが実行している「機能」に過ぎない、というギャップを乗り越えて、初めて「思想論」を越えた「(哲学的)真理」に辿り付けるのではないか。

 そういうことを『暗に含む』(or 含んでしまう)指摘を、解剖学的視点、すなわち自然科学的・客観的視点から行ったのが、養老氏の「唯脳論」だったと思うのである。つまり、養老氏の唯脳論は、客観的視点に立つことによって、「こころ(=自我)」の問題に対して一つの納得しやすい(そして現時点においておそらく正解に最も近いと思われる)見解を端的に示すものだったと思うのである。

 にもかかわらず、「死」という問題に対しては 180 度方向を転換して、主観的視点から解を出している。このことに、私は強い違和感を覚えるのである。

 いやもちろん、これは養老氏にとっての「思想」なり「捉え方」なのであるから、いちゃもんをつけるのは筋違いなのであるが、主観を中心に据えるのなら、唯脳論の看板は下ろすべきではないだろうか、とも思ってしまうのだ。みんなが悩むのは、「こころ」というものが、主観的には「脳の機能」だとは思えないためなのだから。

■ 「死」に対する恐怖をいかに克服するのか?

 と、ここまでで終わると、書評ならぬ単なる愚痴に終わってしまうので、では「死の壁」にて取り扱われながらも客観的な結論が示されなかった、「死に対する恐怖」の問題について、ちょっとだけ考えてみたい。

 ……って、そんなこと哲学者でも思想家でもないんだから分かんないし、正解なんて多分ないだろう、というのが本音なのだが(汗)、いろいろと哲学系の本を読んでみたりした結果として、現時点で暫定的に分かっている範囲を以下に整理しようと思う。(いや、合ってるかどうかとかはともかく、とりあえずの整理として。)

 まず、哲学系の諸問題は、究極的にはどうも以下の 3 点に集約されるように思われる。(※「なぜ存在するのか」という設問だと答えが出せないので、ここではやや思想論的に、「どう捉えるべきか」という設問として設定した)

#ああ、そういえば Prismaticallization の決めセリフもこの 3 つだった、とか思い出すわけですが。(汗)

 そして、どうも世の中に従来からよくある「死の恐怖の克服方法」を見ると、この 3 要素のいずれかを特別視したり、あるいは捨てたり、あるいは崩したりすることによってのみ成立しているように思える。代表的な例を 3 つ挙げてみよう。

 例えば、仏教における「悟り」の境地。これは自我の境界を曖昧にすることによって成立しているように思える。(本来は、「自我の境界」=「自分の身体」であるはずなのだが、「自然と一体化する」など、その境界が曖昧になれば、おのずと「自我の死」というものは消失する。)

 あるいは、自己の他者への仮託。例えば CLANNAD の渚は自分が死ぬことに対して何ら恐れを抱いていないが、これは渚が自己の他者への仮託を知っているためではないだろうか。同じようなことは別にゲームに限らず(汗)、一般世界でも「子供に夢を託する」「愛するもののために」といった形でよく見られる。極論すれば、自我を他者の中に置く、という発想である。

 最後に、時間概念を捨てる。これはクロノス時間(客観的に時計によって計られる時間)を捨ててカイロス時間(主観によって感じられる『瞬間』)のみに意識を委ねる、というものである。「私にとっては、今、この瞬間しか実際に体験できていないのだから、『今』しか存在しない」というのはまさにこのパターン。また、養老氏の言う「一人称の死は存在しない」というのもこのパターン。養老氏やエピクロスの解釈は、『客観的な時間は存在せず、主観的な時間しか存在しない』という前提でしか成立しない。

 以上から推測される結論は、簡単である。

 うわわっ、救いのない答えになっちゃったよ、どーしよう。(汗)

#しかし、あながち間違いではないだろうこともまた事実。(^^;)

 ……まあ、もともとこんなことを最近うだうだと考えていたのは、某サイトで見かけた 3days のレビュー中で引用されていた、以下の文章だった。

 たしかに人生は短い。だが、「いかにこの短い人生を充実して生きそして満足して死ぬか」という問いほど欺瞞的で恐ろしい問いはない。こういう輩は、死ぬことの真の意味を、したがって生きることの真の意味を問いかけたことすらないのである。われわれは日々の仕事にかまけ、「明日はそれをしなければ」「今年中にそれを片付けなくては」と呟きつつ短い人生を駆け抜けてゆく。これが人生の平均的な姿である。

 よくよく考えてみれば、こうした仕事のうちどれひとつも「私は間もなく死ぬ」という事実より重大なものはない。だが、われわれはよくよく考えずに、パスカルの有名な比喩によれば「絶壁が見えないようにするために、何か目を遮るものを前方においた後、安心して絶壁の方に走っている」のである。

中島義道氏、「哲学者のいない国」、p.88 「真に自由な時間とは」

 仕事が忙しくなると、なんだか死に急いでいるような奇妙な錯覚に陥ることがある。そんなときたまたまこの文章、要するに「どう生きるのかという設問と、死とは何かという設問とは別物である」という言説を見かけてドキっとさせられたのだ。(特に私みたいに、自分自身を騙し続けることがうまく出来ない人間にとっては。(^^;))

 なんとなく「死の意味なんて、そんなこと考えたって答えはないだろう」と思いつつも、本当にそうなのか? 昔の人はどう考えたのか? となるとやはり疑問符が残るし興味もある。よく意見は聞くけど、どれも理解できるが微妙に納得できないような違和感も残る。だから一度は現代的な視点で突き詰めて考えてみよう、考えておいても損はあるまい、と思って考えてみたのだが、……いや救いのない結論ですよね、これ。(汗)

 なるほどここまで突き詰めて考えてみると、確かに唯脳論が的確かつ端的に突いてみせた、哲学と自然科学の境界領域の融合(言ってしまえば主観と客観の橋渡し)というのは偉大だったと改めて思うものの、半面、突き詰めていったその先に何があるのだろうか? と思うと、実は絶望しかないのかも。要するに、結局行き着くところは『主観と客観のバランス問題』なんですが、うーん、難しいですね。

 とはいえ、基礎理論としての哲学は私にはあんまり役立たない、ということがよく分かったのも事実。要するに、哲学は「地動説」が当たり前のものとして捉えられている時代に、「天動説」の基礎理論を作るようなものだと思うのである。それは、確かに思想や宗教の基礎理論にはなるかもしれないけれども、応用理論(=よりよい生き方といった思想論とか)とはかなりの隔たりがある。……そんなわけで、ぼちぼちこの辺の書籍を読むのはやめて、もうちょい上のレイヤに移行しよう、と思ったり。いや、理屈屋の私には結構面白かったんですけど、時間がかかった割にはあんまり得るものがなかった気がします。

 ……っつーか、この辺の「当たり前の前提と事実」、どうしてまとめられてないんでしょうね。(涙) いや、以前雑記に『クラスタ化された人間たちが見る共同幻想』を書いたときにも思ったことなんですが。

#そういや今回のこの雑記、元々は 3days のネタバレインプレを書くために調べ始めた内容だったんですが....
#いつの間にか全然関係ないこんな話題に....うーむ。(苦笑)

■ それでも明日は来るのです

 そんなわけで今週末はコミケ。東方永夜沙を初めとして、楽しみな作品が多数。がんばりまっしょい!(^^;)

2004/09/06(月)

■ BS-i TV アニメ版 AIR 第1話の先行上映

 昨年に引き続き、今年も懲りもせずに TBS アニメフェスタに参戦。あいかわらずの 7 時間以上の長丁場の割に、昨年に比べて目玉作品が少なく、今年はちょっとイマイチだなぁ……と思っていたのだが、オーラスの TV アニメ版 AIR はそのすべての不評を吹き飛ばすほどの、とんでもない傑作であった。

 コミックスだろうとゲームだろうと、一般的に言って、評価が極めて高い原作のアニメ化には、ある種の不幸が付きまとうことが多い。どんなに頑張っても原作と比較され、そしてファンによる「原作への思い入れ」による不当な暴力に合うこともしばしば。確かに原作つきアニメの中には論外と言わざるを得ない作品も多いものの、真摯に取り組んでいても実力が足らず、原作ファンの顔色を窺いながらアニメ化しているような印象を受ける作品も少なくない。

 しかしこのアニメ版の出来たるや、アンチになりかねない信者ですら うぐぅ の音も出せないほどに神掛かった出来栄えで、私自身もナメてかかって見始めたはずが、ものの数分で食い入るように画面に魅入ってしまうほどのものであった。

 詳細なレポートは 2ch を初めとして各所にアップされていると思うが、私は私なりにいくつかのトピックを挙げつつ、どこがよく出来ていたのかを具体的に書いてみたいと思う。(※ ごくわずかですが、ネタバレあります)

◇ 見事なまでに再構築された「物語」

 まず第一に挙げたいのは、見事なまでに再構築されたストーリーラインである。一見すると、原作のゲームのシナリオを忠実になぞっているように見えるが、それは大間違い。実際にゲームをリプレイしてみればすぐに分かることだが、イベントの出てくる順番やその絡み方は原作とかなり違う。セリフまわしやその順序、そして時間軸など、かなり細かいところまでの再構成が行われている。

 これは、要するに原作ゲーム中の各種のイベントを要素レベルにまで分解した上で、本当に必要なものとそうでないものとを綺麗により分けて組み立てなおし、『必要十分』な物語へと再構成している、ということである。第 1 話の中ではたった 25 分の中で全キャラを登場させているのだが、にもかかわらず(詰め込み感はあるにしても)駆け足感が少ないのは、ストーリーラインに全くといってよいほど「余分」や「無駄」がないからであろう。また、多くの人が「原作ゲームに忠実」と感じたのは、『落としてはいけない』『ハズしてはいけない』イベントや内容を完璧に押さえているからであろう。そういう意味で、アラもある原作を、見事に芸術的に組み立てなおしている、と言えるのではないだろうか。

◇ 原作のイメージ(象徴的な『印象』)を壊さない作品作り

 第二に挙げたいのは、作品の至るところで、原作のイメージ、特にプレイヤーが持っている『印象』『心象』を大切にするような作品作りが数多く見られる、という点である。

 例えば、夏の日差しの照り付ける田舎町、海岸、観鈴の家といった風景はもちろんのこと、夏の空気、海の美しさ、そして雄大な空の広さといった印象的なものまでが、これでもかというぐらいに原作に忠実に、丁寧に描きこまれている。また各シーンのカット(コンテの切り方)に関しても、特に原作で 1 枚イラストがついているシーンについては、そのイメージを損なわないような工夫が必ずといっていいほどなされている。

 また、伝説的とも言える AIR の BGM 群はアニメでも『そのまま』利用。「夏影」を BGM にして観鈴がたどたどしくも懸命に往人に語りかける様は、それだけでも涙腺を刺激される。本来、ゲーム向けに設計された BGM はアニメの BGM として使うには不向きなのだが、敢えてそれを使うことによってプレイヤーが持つ原作のイメージが重なることになり、各シーンが 2 倍にも 3 倍にも大切なものに思えてくる。もともと AIR の BGM には思い入れがあるというプレイヤーが多いはずだが、だからといってゲーム BGM をそのまま流用するということは慣例的にはまずあり得ないことだったと思う。この英断には拍手を送りたい。

 あるいは OP も、曲自体はカリスマ的人気を誇る原作の「鳥の詩」をそのまま使いながらも、ムービーについては原作のイメージを踏襲しつつ強化がなされており、極めて良い意味でリミックスされている。思わず画面を食い入るように魅入ってしまうこと請け合いで、正直なところ「驚いた」としか言いようがない。

 笑いを取るためにキャラデザなどをやや崩し気味に描写しているカットなどもいくつかあったものの、基本的には品性を損なってはいない。また、原作にあったすべり気味のギャグについても意図的に取り除き、作品としての品性をある一定水準に保とうとする節も見られる。少なくともこの第 1 話に関しては、AIR という作品の持つ「カリスマ性」、そしてその空気が持つ「品格」を大切にした作りがなされている。

 端的に言えば、これらはすなわち、視聴者(プレイヤー)が AIR という作品に対して持っている思い入れをなにより大切にしている、ということ。そしてそれをうまく刺激するような作品作りをすることによって、ただでさえ出来のよい作品を、ひとまわりもふたまわりも大きく見せることに成功している、ということではないだろうか。

 ちなみに余談だが、声優に関しても今回は文句のつけようがなかった。DC / PS2 版では観鈴の川上とも子さんにはかなり不満があったのだが、アニメ版では若干高めの声でセリフのスピードも上げており、ピタリと観鈴のイメージに重なった。声のイメージに関しては不満が生じやすいところなのだが、予想外に違和感がなかったのが驚きである。

◇ 神がかった見事なコンテ

 さらに挙げたいのは、コンテの構成の上手さである。コミックスやノベルゲームはもともと動きを持たないメディアであり、アニメ化に際して、「間の取り方」や「カット構成」に何らかの違和感が生じるのが普通である。

 にもかかわらず、この AIR 第 1 話にはそれがほとんどといってよいほどない。カット構成も極めて多彩であり、また原作で一枚絵がなく立ちキャラだけで構成されていた部分のコンテの切り方も見事なものが多い。往人とみちるの掛け合い漫才も上手かったが、個人的に素晴らしいと思ったのは、佳乃が別れ際に「魔法が使えたらって、思ったことないかなぁ?」と語りかけるシーン。こういう、プレイヤーを「ドキッ」とさせてくれるコンテは、最近だとなかなかお目にかかることができない。

◇ 採算度外視としか思えないコストをかけた作り込み

 最後に挙げたいのは、どう見ても採算度外視としか思えない、異常なコストの掛け方である。

 例えば先に挙げたコンテの話の場合、多くのアニメでは予算的な都合から、カットの数やセル画の枚数などに制限が設定されるのだが、この第 1 話に関して言えばほとんど青天井としか思えないような贅沢なコンテの切り方をしている。観鈴が両手を広げて防波堤の上で風を受けるシーンで、回り込むようなカメラワークが使われたときには、そのシーンの美しさに魅入ってしまうと同時に、いったいどれだけお金をかけているんだ??と唖然としてしまった、というのが正直なところである。

 またキャラデザに関しても、あの「ゲームならでは」の目の細かい描き込みをアニメ作品でやってのけるとは正直なところ驚いた。通常、目の描き込みや髪の毛、制服のデザインなどはアニメ調に変えて(=簡略化して)作業コストを落とすのが普通である。……が、そんなことは全く行われていない。手抜きがない、というよりは、むしろ青天井にコストをかけているとしか思えないような作り方、と言った方が正しい。

 作画に関しても終始ほとんど崩れることがなく、またシャボン玉や羽の描写など、細かいところまでとにかく手をかけている。「やれることはすべてやる、全力でやる」という意気込みが、至るところに感じられる作りである。

 とりあえずトピック別に主だった良かった点を挙げてみたが、これ以外にも細かい点はまだまだ挙げていくことができるだろう。勘違いされるとイヤなので敢えて書くが、これは信者としての贔屓目(ひいきめ)によるものではない。むしろこういう原作つきアニメ作品では、原作信者はアニメアンチになるのが普通であり、原作への思い入れや愛(笑)が裏目に出ることが多い。それを差し引いてもなお素晴らしい出来と『認めざるを得ない』のが、このアニメ版第 1 話だった、ということである。

 原作に「忠実」だが「コピー」ではない。この二つの違いは頭で分かっていても、実現することはとんでもない力量を必要とする。それをやってのけたアニメ制作スタッフ陣は、素直に賞賛に値するのではないだろうか。もちろん、第 1 話だけの話なので、中盤や終盤で崩れる可能性も十二分にあるとはいえ、その底力を見せ、期待感を膨らませるには十二分すぎる出来栄えだったと思う。

 実を言うと、私の中では AIR という作品はすでに過去に終わった作品であり、今さらこんな作品を引っ張り出されても過去の思い出が汚されるし、どうでもいいよなぁ……ぐらいに思っていたつもりが、この第 1 話を見てみて、もう一度 AIR をリプレイしようか?と思ってしまったほどである。

 このサイトに訪れてくださっている方々の中には、おそらく AIR に思い入れ(あるいはトラウマ(笑))のある方が非常に多いだろうが、そのよき思い出を再び刺激されるに違いない。原作ファンであればあるほど、是非見て頂きたいと思える出来だった。私も一人の原作ファンとして、本放送が始まるのを楽しみに待っていたいと思う。

 ……しかしこれの本放送って、BS-i と CS のみで、しかも来年 1 月からだとか。うーん、3 ヶ月間も生殺しってヤツですか?(涙)

2004/12/24(金)

■ 2004 年もそろそろ終わりですが...

 ふと気付いてみれば、今年はホントにろくに雑記を書いていないことに気付いたり。いやはや、特に今クールはバカみたいな本数のアニメに忙殺されたとしか言いようがないわけですが、終わってみれば結構いい作品もあったなぁという印象。そんなわけで、年末に向けてぼちぼち今クールのアニメの感想を。

■ ローゼンメイデン

※ 以下、ローゼンメイデンの最終回のネタバレありますのでご注意を。(^^;)

 「ヒッキー更生アニメ」、と言ってしまうと元も子もないわけだが、それにしても各キャラクターにそれぞれの魅力の溢れる作品だったように思える。5 体のドールの配置バランスが見事で、雛苺や翠星石などで作品に軽さを持たせつつ、凛としながらも奥行きのある真紅の言葉が嫌味なくすっと入ってくる、そんな作品だったように思える。

 物語の落としどころは非常に上手い。もともとジュンは成績優秀で、エリート意識を持った子。受験の失敗によって周囲からダメな子の烙印を押され、にもかかわらずそれを素直に認められずに引き篭もることで自分を保とうとする。そもそものジュンの能力を考えれば全くもって「ダメな子」などではないし、ジュンは誰かに「あなたはダメな子なんかじゃない」という癒しの言葉をかけてもらいたがっている。しかし、この物語はジュンに対して「あなたはダメな子なんかじゃない、だから頑張れ」という励まし方はしない。まず自分がダメな子であることを『認めた』上で、それでもやせ我慢して頑張ってみせろ、というのである。

「何言ってるの! そうよ……あなたはダメよ。
 でもね……ダメじゃない人なんてこの世の中にはいないの。
 誰だって、自分はダメだ、どうしようもないって、いつもいつもいつも思っているのよ。
 あたしだって思ってる……ジュンくんを立ち直らせられないダメな姉だ、って……
 きっと、パパもママもそう……巴ちゃんだってそう。みんなそうなのよ……
 だからみんな頑張ってるの。
 自分に負けないように笑おうとしてるの。楽しくしようとしているの。
 何もせずに逃げ出すなんて、お姉ちゃんは許さない……絶対に許さないわ!」

 それは端的に言えばジュンの心の持ち方の問題。これがローゼンメイデンの設定とリンクしている。ローゼンメイデンの人形たちが目指すアリス、すなわち『どんな花より気高く、どんな宝石より無垢で、一点の穢れもない、完全な少女』とは、現実の自分の姿に負けずにいようとする心のあり方を示すキーワードである。だから真紅は言う。

「だって……生きることは……たたかうことでしょ?」

と。

 無論、真紅とていつでも現実に対して気高く、強く在り続けることができるわけではない。腕をもがれ、外見上致命的な欠陥を負った真紅はその気高さを保つことができなくなり、自らをジャンクと呼び、自暴自棄に陥りかける。それでもなお、彼女は夢の中のジュンの家から出て、凛とした声をもって水銀燈の前に相対しようとする。それが真紅のアリスとしての在り方であり、それを支えたのがミーディアムであるジュン。綺麗な物語作りである。

 一点難を言うとすると、物語として心の持ち方をテーマとするのであれば、真紅の腕が戻るのはジュンと共に水銀燈に打ち勝ってからでも良かったように思える。見かけがジャンクとなった真紅が心がジャンクの水銀燈を打ち破る、という構図であった方がより一貫性があったのではないかと思うが、どうだろうか?

 ……とまあ、いろいろ御託を並べてみたわけですが、結論から言えば翠星石がひたすらに萌え。っつーか、もっと翠星石を出しやがれなのです。そんなわけでベストストーリーも翠星石大活躍の #10 「別離 Abschied」に決まってやがるのです。(笑)

2004/12/30(木)

■ 今年もいよいよ暮れてきましたが...

 今年の総まとめは明日にでも書くことにして(^^;)、とりあえず THR の感想まとめでも。

■ To Heart 〜 Remember my memories 〜

※ 以下、To Heart R の最終回のネタバレありますのでご注意を。(^^;)

 すいません、ちょっと毒吐いていいですか?(汗) ……という前置きを置かなければならないほど居心地の悪い最終回。確信犯的に狂言回しに使われたマルチがあまりに不憫すぎて、別の意味で涙なくしては見られないエンディングだったように思う。

 To Heart R は、基本的には前作マルチルートのエンディングに続く形でストーリーが作られているが、前作のマルチルートエンディングは浩之のあかりとマルチ両取りもさることながら、あかりの気持ち悪さが際立っていたものだった。マルチが去っていったあと、あかりは浩之に対してマルチのような子だったらメイドロボットが欲しい、ということを言い出した。しかしこれはあかりが(マルチと比較して)浩之に対して圧倒的なアドバンテージを持っているという自信があるからこそ成立するセリフである。簡単に言えば、

マルチはしょせんメイドロボットだし、今はもう目の前からいなくなっちゃったし、
浩之ちゃんにはいつも傍にいるわたしが一番だもんね♪
(※ このセリフは筆者の勝手な想像です(汗))

ということ。全力でマルチに浮気をしていた浩之を前に、恐ろしいまでに根拠のない思い込みと圧倒的な自信と余裕をかましてみせるあかりに、ストーカーじみた気持ち悪さを感じたのは、おそらく私だけではないだろう。(と、思う....(笑))

 To Heart R の基本骨格はこうしたあかりの気持ち悪さと、それを当たり前のものとして受け止め続ける浩之の都合の良さを切り崩していくことによって作られていた。マルチが再び動き出し、一人の人間のように振る舞うマルチに本気で心を奪われていく(というか浮気していく(笑))浩之。それによって、あかりのアイデンティティ(=「浩之ちゃんにとっての一番」であるという自信)が脆くも崩れていくと同時に、そのあかりの思いやりに依存していた浩之の都合の良さが露呈し、破綻していくのである。

 マルチがロボットではなく人間として現れたことがストーリーの肝になっている以上、あかりが人間の一号さん、マルチがメイドロボの二号さんとして物語が納まる(=To Heart 1 の ED)ということは難しい。排他的な浩之の独占を願う二人の衝突は、あかりが身を引くか、マルチが壊れるかの二者択一となる。最終話では、マルチの思考ルーチンに欠陥があった(=人間にあったものが欠けていた=人間にはたどり着けなかった)ことをきっかけとして話が進み、浩之とあかりの関係も少しだが進展することになった。安直といえば安直な展開だが、それ自体は悪くない。

 しかし、浩之が明確な結論を出すことを避けたこと、あかりもまたマルチとの直接対峙を避けたことについては、正直なところ物語として納得がいかない、という印象を受けた。

 まず浩之に関しては、自分があかりを取る、ということを、『マルチに対して』宣言できなかった。確かにマルチには思考ルーチンにバグがあったが、浩之があかりを取ったのはマルチがレースから『脱落』したからではなかったはず。マルチからの精一杯の告白に対して、彼は明確な答えを返さなかった。そのかわり雰囲気をもってマルチに理解させるよう仕向け、一方のあかりに対しても長い間、はっきりとした告白をしなかった。それはなぜかといえば、マルチが存在する状況においては、あかりに告白することは、マルチに対して明確な返事をすることとペアになっていなければならないためだろう。しかし果たしてそれは本当に、「壊れゆくマルチを一人の女の子として気遣うためのもの」だったのだろうか?

 一方のあかりも気持ち悪さが漂う。あれだけ自信を喪失して浩之やマルチから逃げていたにもかかわらず、マルチの敗退を見て取るや否や、浩之に寄り添い、マルチに対して同情の念すら見せるようになる。あかりが自信を取り戻していく様子は、マルチがレースから『脱落』していく様子と見事なまでにリンクしており、例えば最終話の観覧車のシーンではあかりは『浩之の隣』に座り、決してマルチの隣には座らない。それはマルチに対する事実上のあかりの勝利宣言と言える。つまり、あかりはいくらマルチに同情を見せても、決してマルチと同じ土俵に立つことはしない。しかも、あかりはこうした自分の『女としてのずるさ』に対して無頓着で、気付くそぶりがない。これでは To Heart 1 作目のエンディングのあかりと本質的にはさほど変わっていないのではないだろうか?

 これだけならまだいいのだが、悩みルーチンを追加したマルチを蘇らせるというのもどうだろうか? 永遠の眠りについたはずのマルチが蘇って幸せだね♪ では、それこそ君望の遥シナリオの二の舞である。いや、マルチを再び目覚めさせたのが仲睦まじくなったあかりと浩之であるという点を考えると、君望の遥シナリオよりもタチが悪い。マルチが眠りに付く前に、(残酷であっても)きちんとけじめをつけているのであればまだ話は分かる。それができなかった二人が、いったいどういう顔をして、どういう心持ちでマルチに再会できるというのだろうか? そこには深い葛藤があってしかるべきなのに、その描写がごっそりと抜け落ちている。状況を鑑みれば、「いやー、マルチ蘇ってよかったね♪」なんて単純な話ではないはずである。

 総じて言えば、見た目では『恋愛を通した成長物語』を標榜しながらも、本質的な痛み(=自分から何かを選択し、何かを捨てることによって産まれる痛み)の描写を忌避しているため、成長物語になることができていない、という印象を受ける。マルチは物語の狂言回しとして利用され、展開上の不幸を一手に背負わされている。浩之とあかりがくっつくのはよいとしても、マルチがその踏み台にしか使われない展開を見るにつけ、本当にマルチは制作スタッフに愛されていないんだな、と思ってしまう。正直言って非常に不憫でならない。

 いや、そういうビターさやシビアさも含まれたエンディングなのだ、と言われれば確かにそうなのかもしれない。しかし、見た目では爽やかな恋愛&成長物語を装っているがその内実は……という構成は、正直いかがなものか、と思ってしまう。中盤までの展開を見ていて、私はいっそ Bad End 一直線(破綻 ED)でもいいのではないか? という印象を受けていた。外見的な読後感だけを取り繕った物語が心に残る一作になることは困難だと私は思うのだが、どうだろうか?

■ そんなわけで...

 明日はなんとか今年のまとめをしたいものですが、さてはて。あ、そーいや To Heart 2 もプレイせねば!ですね。OP テーマの「Heart To Heart」がめっちゃ good、さらにこのみちゃんがめっちゃかわいい。(^^;) キャラ造形はかなーり古典的なんですけどねぇ。

2004/12/31(金)

■ いよいよ大晦日

 大晦日は 2004 年総まとめでも書こうかと思ってたら、見事に東方萃夢想にハマる。(笑) いやこれ面白いですねぇ。格闘ゲーなのにしっかり東方してる。最近は格闘ゲーはほとんどやらなくなったのですが、なかなかアツくていい感じ。

 今日はとんでもない大雪になりましたけど、カウントダウン系イベント参加のみなさん、おつかれさまです。(^^;)

■ と、いうわけで2004 年を振り返ってみて...

 さてさてさて。改めて一年を振り返ってみると、今年は 2 つの傑作に出会えた当たり年だった。一つは Key/Visual Arts の「CLANNAD」、そしてもう一つは「カレイドスター」。これ以外にもコンシューマ系を中心として良作が多く、玉石混合とはいえ、なかなかの当たり年だった。年末はドラクエ VIII、メタルギアソリッド 3、グランツーリスモ 4、PSP、To Heart 2 など消化しきれんばかりのゲームで賑わったコンシューマ系に比べると、X ゲー系は Fate や Rance VI、あるいはリアライズなどメジャー作品も結構出たはずなのだが、個人的には今一つ盛り上がらなかったという印象がある。

 CLANNAD についてはネタバレゲームインプレ(未完成版)に一通りのことは書き連ねたので、ここではカレイドスターについて。ネタバレありのインプレは後日きちんと書きたいと思っているので、ここではネタバレなしで軽く整理しておきたいと思う。(といいながら、作品の骨格構造について解説しているので、思いっきりネタバレと言えばネタバレではありますが。(汗))

■ カレイドスター

 カレイドスターとは、2003 年 4 月〜2004 年 3 月まで 1 年間に渡って放映された、全 51 話(+ OVA 1 話)の TV アニメである。サーカスと大道芸にミュージカルの要素を加え、芸術性を織り込んだエンターテイメントショー「カレイドステージ」の花形であるカレイドスターを目指して、主人公である 16 歳の少女 苗木野そらが、持ち前の明るさと天賦の才、そして決して諦めない不屈の努力をもってあらゆる試練を乗り越えていくという物語。アニメファンやゲームファンには馴染みが薄いかもしれないが、サルティンバンコやキダム、アレグリアなどを演じているカナダのサーカス集団であるシルク・ドゥ・ソレイユのオマージュ作品、と言うと分かりやすいかもしれない。おおよその作品イメージは、こちらのページを見ていただけるとよいだろう。

 カレイドスターは、サーカスをネタにしていることもあってか見た目こそ子供向けなのだが、その中身は決して子供向けなどではない。社会人、それも第一線のプロフェッショナルとして活躍する、あるいはそうありたいと常に日々努力しているような人たちに響く物語だろう。公式サイトを見ると、紹介文に「汗と涙の青春サクセスストーリー」とあり、多くの Web ページでもそのように紹介されることが多いのだが、単なる青春サクセスストーリーとして見てしまうと、おそらくその本質を見失う事になってしまう作品だと思う。

 カレイドスターとは、夢とは何か、その大切さを改めて考えさせてくれる物語である。……とだけ書いたのでは、作品を全話見た人でも「?」となってしまうかもしれないので、もうちょっと捕捉したいと思う。(^^;)

 先に書いたように、カレイドスターは紹介文の通り、形式的には一般的なスポコンものにある「努力・友情・勝利」という構成を取っている。実際、カレイドスターをスポコンものとしての王道作品だと読み取った視聴者もかなり多いようであるし、読後感のよい美少女熱血モノと見た方々も多いようである。しかし、カレイドスターは一般的なスポコンものとは明らかに一線を画している。その本質的な違いは、『勝つ事』それ自体をテーマにしていない、という点にある。カレイドスターで繰り返し問われ続けた命題、それは『あなたは何のためだったら本気で頑張り続けられるか?』ということである。

 一般的に言って、人間は上り調子で成功体験を続けているとき、自分のしていること、そして自分の目標に対して疑問を持つことが少ない。「背後から追いかける方が、先頭で走り続けるよりずっとラク」とよく言われるが、それは到達すべき目標が、自分の外部に『目に見えるカタチ』として存在するからである。例えばライバルに勝つとか組織のトップに登りつめるとか宇宙からやってきた侵略者を倒すとか、そういった『自分の外にある』目標を目指して努力することは非常に分かりやすく、取り組みやすい。

 しかし本当に辛くなるのは、そうしてついに頂点に登りつめ、トップになってしまった後である。例えば、マラソンで 2 番手で走っているときには、1 番手からの遅れの度合いが簡単に把握できる。つまり、1 番手の人がどれぐらい頑張ればよいかの『目安』となるので、そこに追いつき、追い抜くことを考えればよい。しかし 1 番手になってしまった場合には、2 番手に追いつかれないようにするために、2 番手との距離の保ち方やペース配分、レース展開など、膨大な戦略の中から最適なものを選択しなければならなくなる。トップで『あり続ける』ためには、人の真似や現状維持では済まず、自分で新たな道を作り出していかなければならないのである。

 自らを超え、道を切り開いていくこと。それはトップである者に必然的に課せられる使命であるとともに、トップで居続けるための最低条件となる。しかしそれはとてつもない心労を伴う。目指すべきものがなくなり、何をするのが正しいのか、どうするのが一番なのかが分からない。「努力→勝利」が基本構図となる多くのスポコンものが「勝利の後」に新たな未来を紡ぎだしていくことを描けないのはこれが理由である。思い返してみて頂きたい。多くのスポコンもので勝利の後に現れるものは新たな敵であり、新たなる目標は「さらなる勝利」となってはいないだろうか? 勝つ事それ自体が目標になってしまうと、勝利の後に『何をすべきかが分からなくなる』という落とし穴にハマる。大学受験に合格した後の「五月病」とは、まさにそのようなものであろう。

 周囲からはトップであることを当たり前とされ、それに見合うアウトプットを求め続けられる苦しさ。「ありのままのあなたでいいのよ」という受容を蜜の言葉とするセカイ系な恋愛物語では決してあり得ないシビアな世界。(カレイドスターが最後まで恋愛ドラマにならなかったのはここが原因だろう) 頑張り続けようとしても、何のために頑張ればいいのかが分からなくなる。

 そのときに人の支えになるのが、『夢』である。

 どんな自分でありたいか。どんな自分になりたいか。どんな未来を作りたいのか。確かにそれは時としてあり得ないものかもしれない。誰も見たことがないものかもしれない。それでもなお信じ続けたものだけが辿り付ける場所がある、(トートロジー的だが)そう信じて頑張れるのが『夢』であり、それを最後まで描き切ってみせたのがこの「カレイドスター」という作品である。

 果たして主人公である苗木野そらはどんな夢を描いたのか? ……その答えはここには書かない。是非、カレイドスター本編を見て確認して欲しいと思う。

 当たり前のことだが、勝利することも、トップになることも、そしてトップであり続けることすらも、目標ではなく、結果である。どんな夢を描き、どんな未来を作っていきたいのか? その夢に向けて努力した結果、たまたま勝利するかもしれないし、トップになるかもしれない。しかし、勝利することもトップになることも、それは夢を目指した『結果』としての副産物に過ぎない。夢を描き、未来を掴んでいったという意味においては、この作品に出てくるすべてのキャラクターが『人生の勝利者』である。しかしその当たり前の事実を、物語として描き切った作品は皆無ではなかろうか?

 確かに作品の設定こそ荒唐無稽な部分も多いが、そらたちが突き当たった『壁』にはこの上ないリアリティがあった。業界業種を問わず、本気で物事にチャレンジしたことのある人であれば、きっと一度はこの命題にぶち当たったことがあると思う。かつて私が描いた夢は、そらと全く同じものだったのだが、きっと多くの人が同じような結論に辿り付くのではないだろうか。普段、社会人として日々悩み、考えていたことがアニメ作品で見事なまでにトレースされていたこと、そしてさらにそれが概念的な『理屈』だけではなく、きちんと地に足のついた『物語』として細部に至るまできっちりと語られていたことには衝撃を受けた。魂と信念の篭もったセリフが多いのは、佐藤順一氏を初めとするカレイドスター制作スタッフ陣が、プロフェッショナルとしてそれだけの『哲学』を持っている証拠であろうと思う。

 斜に構えたり、拗ねて見せたりすることが『かっこいい』ことだと勘違いされる今の社会において、このような作品に出会えたことは本当に幸せなことである。『夢』を目指して努力を続ける彼女たちの姿を見て、憧れと同時に嫉妬にも似た羨みの感情を覚えるほど、カレイドスターの登場人物たちは輝いていた。そらとは違ってまだ夢半ばだけど、自分も頑張っていきたいと勇気付けてくれるに足る作品だった。個人的には数少ない『神』認定作品の一つ。現在、キッズステーションで再放送している他、DVD BOX も発売中。まだ見ていないという方は、是非一度は見て頂きたい。

■ と、いうわけで...

 ううっ、なんとか年内には書ききったけど、気付いてみればもう数時間で年が変わる。(^^;) 他にも PSP とかいくつか書きたいネタはあったんですが、それはまた来年、ですね。

 そんなわけで、皆様 2004 年もおつかれさまでした。また来年もよろしくおねがいします〜。


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