未来にキスを ネタバレゲームインプレッション


おねがい

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ネタバレゲームインプレ

 この物語、あっさり理解できる内容なので、解釈を書くほどのものか?という疑問もあるのですが、意味不明だという話もあるようなのでざっくりまとめてみたいと思います。

 まず式子。中盤に康介が語る、「ほんとに、ひとつの『状況』に過ぎないんだと思う。どこにも善悪も優劣もなくて…」という論拠に二人は流され、今ある状況をありのままに受け入れようとします。しかしそもそもこの理論には不備がある。なぜなら、状況自体はもともと無味乾燥の白紙でしかなく、そこに何らかの価値概念を持ち込むことにより、初めて善悪や優劣が決まる。つまり、価値概念なくしては善悪も優劣もあり得ないからです。ここに式子はエンディングにて、「自分自身」という概念を判断基準として持ち込み、自分自身を守るために康介と別れるという選択を取ります。
 つまり一言で言えば、状況に流されていく変容をすべて受け入れるのでは自分がないのと同じであり、曖昧な概念であっても「自分自身」を持つことが自己確立のためには必要だ、というものです。

 次に悠歌さん。生まれ持つ才能ゆえか、非常に勘が鋭く、相手が考えていることがおおよそ把握できてしまう。それゆえに他人と自分との境界が感じられず、相手に対して思索を巡らすことも出来ず、ときめくことも出来ない。結果、世界に絶望し、自分自身のことも嫌になる。しかしシナリオをよく読めば分かるように、悠歌さんが『相手のことが分かってしまう』と言っている範囲というのは非常に限定的であり、勘や洞察力が鋭ければ当たり前のように感じることができる程度のこと。超能力的に相手の心のすべてが見えてしまうというものとは違います。だからこそこれに対して出された結論は、「儀式」「祈り」「目を閉じる」という行為で自己を正しく認識しなさい、というもの。つまり自分の目に見える限られた範囲だけを見ることで相手のすべてを理解したつもりになるのではなく、自己と他者との境界を正しく持つことで、初めて正しい自己認識と他者認識が出来るのだ、ということです。
 このことは、認識に境界がある以上(別の人間である以上)、どんなに洞察力が優れていたとしても相手のすべてを理解することはできない、という事実を指摘しています。

 最後に椎奈。彼女は、母親とともに、厳格な「家庭」という名のシステムの中に封じ込められます。どんなに遊びたくても母親が来れば素直に連れて帰られ、言われた通りに塾に通う椎奈の姿はまさに小学生ぐらいのしつけられた女の子の姿そのもの。しかし彼女が属する家族というシステムは実際には形のないもの。母親が実際には姉であることや血のつながりのない主人公をおにいちゃんと呼ぶのもその象徴の一つ。このシステムの存在は子供が社会に順応していくため(すなわち社会性を獲得していくため)に必要な枠組みではあるものの、その枠組みにいつまでも捉えられたままだと、今度は自分の意志・感情による行動というものがなくなってしまう。椎奈にはそれが問題であり、そのために家庭という枠組みからの脱線の象徴的な行動として「家出」をするわけです。(このとき、家出の先でセックスしてるわけでないことも、あくまで「少女」(≠自立した女性像)としてのシステムからの脱却だからと見られるでしょう。)
 EDで康介と彩子は「だったら…俺たちはまだまだ支配されてますよ。」「いっぱい世の中にはあるものね…永久機関が。」と語り合いますが、その通り、しょせん家庭というシステムから抜けてもそれは一つに過ぎない。、人間はどうあがいてもシステムから逃れて自由に生きることは出来ない。しかし重要なのは、そのシステムの中での自分の位置を把握しながら、その上で自己の精神的自由(すなわち感情の尊重)を適度にバランスよく獲得することです。そのことは檻(システム)に振り回されることなく、それを客観的に認識できるようになった椎奈の次のセリフによく現れています。「わたし、やっぱりお母さんのこと、好きです。今、もっと好きになったです」と……。

 この3つのシナリオは、アイデンティティ、個人性、社会性という、今の世を人間として生きていくために絶対に必要な3つの要素を多面的に示しています。……と、ここまでさんざんしつこく書けばお分かり頂けるかと思うのですが、半面、霞の前半シナリオはこの3つが決定的に欠如しているのです。つまり文字通り、「幼なじみの従妹と、いちゃいちゃごろごろするゲーム」なのです。

 そして霞の後半シナリオでは、霞が3人(すなわち現実世界の中で人間として生きていくことを何らかの形で獲得したものたち)の干渉を受けて、自分もまた自己確立しなければ、と思い込まされます。しかし式子が霞のことを「存在自体を他人にゆだねる」と表現している通り、今現在は霞が霞であることの存在理由が康介にある(このことを「奴隷」と表現している)のだから、霞が自己確立するためにはお兄ちゃんと離れざるを得ない。自己確立のためには康介から離れる必要がある、しかしお兄ちゃんとは離れたくない、という板ばさみによって霞は苦しむわけですが、ここで慧子が質問を投げかけます。なぜ離れる必要があるのか、と。

 これに霞は、現実世界を康介と生きていくためには自己を確立しなければいけないんだ、ということを主張するわけですが、これに対して慧子がとんでもないことを言い出します。霞が見ているのは、そして好きなのは康介本人なのではなく、お兄ちゃんという仮想的な概念である、と。だから、もし破局を迎えたくないのであれば現実世界の中に生きようとしてはダメだ、ということを言い出すのです。
 普通、ノーマルな恋愛は現実世界の中でその形を定着させるのであって、確かに慧子が言うような側面があるにしてもそれが全てではない。精神世界と現実世界のどちらが優先させられるかといえば、人間である以上、物理的な世界(現実世界)を前提にせざるを得ない。
 慧子の言うようなやり方を実践した場合、すなわち内面世界に形作られた相手を縛り、実際の相手を見なくなった瞬間、別の言い方をすれば社会性などの外的環境を無視し、自分の内面世界に重点を置いて行動しだした瞬間、もっと分かりやすく極端に言えば「妄想」を始めた瞬間、そこには確かにパラダイスが存在する。妄想の世界なのだから、すべての欲望がかなう世界になります。しかしその半面、もはや人間ではなくなる。なぜなら前述した通り、人間は社会や相手といった外的環境を前提として存在しているものだから。つまり主人公と霞のラストの選択は、自分たちが最も望む「相手の完全支配」を自分たちの内的世界(要するに妄想の世界)で得た代わりに、外的世界で人間として生きていくことを失ってしまったことだと言えます。

 霞というキャラ自体、今時のギャルゲーのコンテキストを強く身にまとった少女ですが(「お兄ちゃん」、白痴系、幼なじみの従妹、同居など)、その社会性取得のプロセスを全面否定した上に、その結末を「その世界に、人間なんていない。彼らは、もう滅び去ってしまった(=認識範囲から外れてしまった)。俺たちもまた、もう人間ではない何かへと変化してしまった。」とまで言い切ってしまう。
 さらには現実から完全に遊離した内的世界(分かりやすく言えば妄想の世界)を「ただキャラクターがいて、ゲームがあるだけ。キャラクターたちがただゲームを繰り広げる、この新しい世界。」と称し、それを「圧倒的な楽園」と称する。
 つまり究極的に甘美な世界(美少女ゲームの世界と言ってしまっていいでしょう)というのはたとえそれが圧倒的な楽園であっても、概念的な世界にしか存在しないものだということを、5つのエピソードを使って非常に丁寧に描いてしまったと言えます。

 元長氏は自らのホームページ"STREET STORYTELLER in STRATEGIC STRATOSPHERE"にて、本作品を「人類史というパースペクティヴにおいて美少女ゲームを定位する作業はこれで一段落」と評していますが、それはまさに上記のことを言っていると思えます。歴史的に見て、もともと現実世界の派生という形で産み落とされた美少女ゲームはどんどん姿形を変え、今や現実から大きく遊離し、半面、圧倒的な楽園へと近付いていっている。そのことは別に私がここで語るまでもなく、まともなプレイヤーなら誰しもが気付いている当たり前のことですが、美少女ゲームの文脈の中でご丁寧な理由つきでそれを示してしまった、というところが非常に面白い作品なのです。

 ただここで一点勘違いして欲しくないのは、元長氏はシナリオ中でこの事実に対してどちらが良いとも悪いとも語っていないということです。あくまで事実ベースとして、美少女ゲームはこういうものだ、こうなっていっている、と語っているのみであり、旧人類がいいのか、新人類がいいのか、どちらとも言っていません。もし新人類誕生、それこそが素晴らしい!というのであれば、わざわざ皮肉的に前半3シナリオを作成する必要性などないでしょう。sense offと同じ文脈で語ればよいだけのことです。しかし本作のラストには、事実と、ユーザの選択肢が横たわるのみ。常識的に考えれば、旧人類と新人類のバランスを取りながら生きていくのが普通でしょう。事実としての美少女ゲームの特異性を示した上で、どんなふうに生きていくのか、それはまさにプレイヤーの選択だと突きつけてくるところがこのゲームの面白いところなのです。

 またここまでご丁寧に本作でやられてしまうと、sense offの解釈ががらりと変わってくる危険性もあります。つまり、sense offの提示しているラストは、実は現実世界の人間が進むべき道としての21世紀のことを指しているのでは全くなく、むしろ人間世界とは遊離した世界(創作世界、妄想の世界)の行く末の形を示したものだと読み取るべきなのでは? と考えられてきます。sense offで語られていることは世界の広がりでもパラダイムシフトでもなく、未だ現実世界の匂いを色濃く残しながら構築されている現在の美少女ゲームに対する痛烈な皮肉であり、あの唐突なハッピーエンドもそれ自体が痛烈な皮肉だとも読み取れてきます。慧子シナリオに至っては、本作との流れで考えると慧子の存在そのものが痛烈な皮肉を帯びているとすら読み取れるかもしれません。
 sense offも本作も、そのラストは極めて限られた一面だけが極度に強調され、あたかもそれがすべてであると言わんがばかりの終わり方をしていますが、それはパラダイムシフトではなく、バランスの破壊であり、(良し悪しは別として)人間であることの放棄だと語っている本作のラストは、sense offに共感したプレイヤーを全面的に否定しかねないものではないか? と思わざるを得ません。

 このシナリオ解釈が果たして元長氏の意図したところとどこまで符合するのかは正直言って分かりませんが、純粋に美少女ゲームの普通の枠組みを装いながら、最後でどんでん返しを食らわせたその構造的な展開は見事だったと思えます。作品には細かいアラは数々あれど、それらを差し引いて素直に感心。ただ、実際的に元長氏の言う「旧人類」、すなわち現実世界の中に生きながらも幸せを掴めるヒトの形を断片的にしか示せていないのは減点事項です。この点は、話を別次元に飛ばして煙に巻いていると言われても仕方のないところでしょう。

 とはいえ、元長氏の語る「21世紀の圧倒的な楽園」がどんなものになるのかも楽しみなところ。現実世界から大幅に遊離した物語が今後さらにその方向性を強化していくことは、昨今の流れからいってもはや疑うところはありませんが、その「妄想争い」(例えば「萌え」の強さを競う、など)で真正面を切ってぶつかって勝てるかどうか。sense offの珠季など、とんでもない萌えキャラを描くことも確かに出来る人だけに、そうした真っ向勝負でも勝てるのでしょうが、さてどうするのか。今までの2作のように変化球混じりで戦うのか。非常に楽しみなところです。

※後日談を別ページに書きました。よろしければご覧ください。


※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)