過去の雑記 2003年10月〜2003年12月



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2003/11/05(水)

■ ううっ……

 またしても 2 ヶ月間も放置。:-) いつものことながらすんません……というわけで久しぶりの雑記はちょい重ためなテーマで。

■ 物語としてモノを語ることの意義

 最近、複数のソースで「14 歳からの哲学 考えるための教科書」という哲学の入門書が推薦されていることを知り、興味を覚えて読んでみた。タイトルこそ「14 歳からの」となってはいるものの、「考える」ということに慣れていないと大人でも相当に厳しい一冊である。取り扱っているトピックスこそ網羅的ではあるものの、語り口(※口調ではない)が構造化されていない上に非論理的、さらにはマンセーな書きっぷりに「逝ってヨシ!」と思う人は多いはず。正直なところ他人に積極的にお奨めできる名著とは私には言い難い。しかし平易な言葉で難解な概念や思考方法を伝えようとする本書の意図には共感できる面もあり、またポイントごとでは本質を突いているものも数多くある。そういう理由から、この書籍を昨今の疲れ気味・鬱気味な大人たちにもっと読んでほしいと思う方々の気持ちも分からなくもない。

 しかし私がこの書籍を読んで何より強く感じたのは、物語としてモノを語ることの有効性である。この書籍に出てくる数々の概念のうち特に重要と思われるものは、概ねこの Web サイトでゲームインプレなどとしてまとめたものだった。具体的に言うと……

などなど。もともとこれらのゲーム自体も哲学ネタをベースにしている、あるいはモチーフにしているのだから、同じ概念が現れるのは当たり前ではある。しかしここで私が問題にしたいのは、その概念を伝える『手法』としての、書籍とゲームの差異である。

 実は、「14 歳からの哲学」という書籍を読み終えてみて真っ先に思ったのは、タイトルとは逆にむしろこの本は 14 歳の人間に安易に読ませるべきではない、ということであった。その本質的な理由は二つある。

  1. 概念や思考方法は示されるが、実際に現実社会の中を生きていくために必要な具体的手段はほとんど示されていない。
  2. この書籍で語られる概念を主体的に理解するためには、かなりの思考力と経験が要求される。

 この書籍のゴールは、哲学的概念を問題提起として読者にぶつけることを通して、物事を主体的に「考える」ように読者を仕向けることにある。よって上記の 2 点は必ずしも本書が満たしていなければならない要件ではないのだが、しかし概念や理屈だけが単体で与えられ、後は問題意識を持って考えろ、というのでは少々無責任ではないだろうか。論理的な思考にまだあまり慣れておらず、実体経験をそれほど多くは持たない若者たち。本書は十分な地図もコンパスもガイドも与えずに、そうした若者たちを哲学という樹海のど真ん中に放り込むようなものに私には感じられるのである。

 上記の 2 つの問題点は、本来的には個々人が実体験の中から「意味」を抽出して掴み取っていくべきものなのかもしれない。しかしゲームやアニメ、あるいは演劇、映画といったサブカルチャーを使えば、哲学的概念を単に問題提起として読者にぶつけるだけではなく、それらを擬似的な追体験として具体性を伴って伝えていくこともできる。また感情移入しやすいメディアを使えば、受け手は主体的な思考もしやすくなるだろう。

 むろんそのためには作り手自体が確固たる信念を持っていてそれを伝えようとしていること、そして読み手側が(刹那的な感情に流されるだけではなく)そこから本質的な意味を読み取って受け取ろうとする姿勢を持っていることが必要となるだろう。しかしそれらの前提条件が正しく整えば、文字と理屈だけで語られる一般教養書よりも遥かに効率的かつ効果的に物事を伝えていくことができる。こと特に哲学的概念のようなテーマ性の高いものであればこの効果は絶大なものがあるだろう。例えば以下の 2 つはゲームのインプレなどをベースとして、本書「14 歳からの哲学」の先にある内容に触れたものなのだが、私自身の実感としては、これらはゲームなどの読み取りやすい形態で提示されたものだったからこそ吸収できたように感じる。

 人間は権威に弱いので概してサブカルチャーに属するものを侮る傾向にある。それへの反論としてサブカルマンセーの立場を取るつもりは私には毛頭ない。が、純文学、一般教養書、アニメ、ゲーム、演劇、こうしたものはメディアや手段としての形態や効率性に違いはあるものの、中にテーマや概念を内包することができるという点においては違いがない。確かにアニメやゲームが特に玉石混合の激しいジャンルであることは認めざるを得ないが、それでもそこにはとても重要なテーマや概念が転がっていることもある。

 こうした状況を踏まえると、アニヲタである我々(笑)がこうした哲学的思想に興味を覚えたとしても、無理に小難しい哲学書を読む必要などないように思える。サブカルチャーの表面的な部分(萌えもその一つ)を楽しみつつも、本質的な意味をそこから読み取っていくこと、すなわち「考えること」をしていけばよいように思う。そしてその行き着く先は、(失礼かもしれないが)真っ当に哲学に取り組んだ人と、ゲームやアニメなどのサブカルをきっかけに物事を熟慮するようになった人とで質的にはそれほど大差がないようにも思うのである。だったら、(多少の遠回りはあるかもしれないが)少しでも自分が楽しみながら考えられる素材をネタとして使い、考えを深めていった方が「楽しい」のではないだろうか?

 だからこそ敢えて言いたいのだが、本書をむやみに一般人に薦めるよりも、まずは何でもいいから自分の興味の向く好きなこと(アニメでもゲームでも仕事でも現実経験でも何でもいい)を徹底的に『深く考える』ようにすること、そしてそこに潜む本質を見抜くように『考える』ようにすることを薦めるべきではないかと私は思う。いかがだろうか?

 2ch のあるスレッドでの議論で(正確な記述は覚えていないのだが)こんなようなことを語っていた人がいた。「単に概念を語るだけなら文章で書けばすむ、しかしそれを敢えて『物語』という形式で伝えることの意味を考えろ」と。「14歳からの哲学 考えるための教科書」という書籍を読んで、改めてその書き込みのことを思い出した今日この頃である。

ps.
 この書籍についてはあれこれと相当いちゃもんをつけたくなる点があるので、あんまりお薦めはしません。もし読むのであれば話半分に流し読みするとよいかと思います(^^;)。

2003/11/16(日)

■ ホントのイタさはどこにある? 〜 サイバーフォーミュラとガンダム SEED

※ この雑記にはサイバーフォーミュラと SEED の致命的なネタバレが含まれています。(^^;)

 新世紀 GPX サイバーフォーミュラというアニメ作品をご存知だろうか? 今から約 10 年前の 1991 年頃に日本テレビで放映されたフォーミュラグランプリアニメである。ちょうど先週から今週にかけて AT-X でテレビ版最終話が放映されたのだが、特に最終話手前の第 36 話は神降臨といっても良いほどの白眉の出来。見終わったあと感動の熱をしばらく持て余したのは久しぶりの経験だったような気がする。このサイバーフォーミュラ、実は機動戦士ガンダム SEED と同じく福田己津央監督の作品である。「種が弾けて反射神経が桁外れに向上する」のも露骨にサイバーフォーミュラで出てきた「ゼロの領域」と同じであるなどネタ的な類似性はいくつか見られるのだが、10 年も違う作品だと同じ監督でも取り扱うテーマが随分と違う。今回の雑記はこの二つの作品のテーマを通して、SEED の本質的なイタさがどこにあったのかを考えてみたい。

 まずサイバーフォーミュラのテーマは「仲間を信じることの大切さ」である。仲間を信じ、そして仲間から信頼されることがみんなの(心理的な)力へとつながっていくということが、様々な側面から描かれている。サイバーシステムであるアスラーダに人格を持たせていること、桁外れの才能を持ちながらも自分の才能の枠を破ってくれる仲間を持たないランドル、人間関係を常にドライなものとしてしか捉えられない京子など、作品中の様々な要素はテーマ的な視点から考えればすっと読み解くことができるだろう。
 「仲間を信じることの大切さ」というテーマは言葉にするとクサくて倒れそうになるぐらい極めてストレートでプリミティブ(根源的)なものである。しかしそうしたプリミティブで当たり前なことが、結果的にチーム全体の良循環サイクルを生み出すという、ある意味当たり前だが重要なことを、エンターテイメントという枠組みの中で真正面から描いている。それがサイバーフォーミュラという作品である。(余談だが、この観点から見ると第 36 話のストーリーの盛り上げ方がチームとしての信頼関係を深めていくことによって成立していることも分かる。なぜあのクサいセリフがあれだけの輝きを持つのか、それはあのセリフが極まった信頼関係の中でやり取りされたものだからである。)

 SEED の場合そもそも物語としての筋書きがあまりに稚拙であるため、テーマを論じること自体が馬鹿馬鹿しいと言えばその通りではある。しかしここでは『敢えて』展開の稚拙さに目をつぶることにして何を描きたかったのかを考えてみると、それは「組織(社会)依存型の思考からの脱却」であろうと思われる。
 「組織依存型の思考」とは、自分の属する組織(社会)に自分自身の判断(善悪などの価値判断から具体的な行動まで)を委ねることである。例えば、ナチュラルを一掃せよと命令されたら(正しいかどうかはともかく)ナチュラルを一掃する。作品中では再三「相手は敵なんだから」「敵のことなんて考えるな」といった発言が繰り返されるが、こうした考え方はまさしく「組織依存型の思考」の一例である。「組織依存型の思考」は自分の行動に対する理由(言い訳)を社会が保証してくれるため、ある社会に属する人間としては非常にラクなものである。しかしそうした言い訳の行き着く先はアスランとキラの一騎打ち、そしてかけがえのない仲間を失うことであり、そこを転機として「組織(社会)依存型の思考からの脱却」を図り、自立した物事の考え方を確立していく、というのが SEED の全体の話の流れである。

 停滞感漂う現代社会では「会社が悪い」「景気が悪い」と組織や社会をタテにした言い訳は日常茶飯事に行われる。しかしそうした言い訳をやめて、他人のせいにするんじゃなくて自立して考えろ、『自分が』どうしたいのかを突き詰めて考えろ、というのが SEED のテーマである。戦争のどうにもならない悲劇さが様々な局面で強調して描かれるのは、「戦争なんだから」という言い訳をしてはならない、その悲劇的な中でどうするべきなのか、どうしたいのかを考えろ、というテーマを突きつけるためのお膳立てだと考えると分かりやすい。

 このように、サイバーフォーミュラに比べると SEED は取り扱うテーマが概念的に遥かに難しくなっている。それは、比較的上の年齢層(20 代や 30 代)をもターゲットとして考えねばならなくなってきたアニメというメディアが、エンターテイメント性だけではなくより高度なテーマ性を求められるようになったということでもあるのかもしれない。前向きな言い方をすれば、アニメというメディア自体が成熟してきたとも言えるだろう。しかし問題なのは、そうした高度な概念を取り扱うだけの深い洞察、そしてそれをメディアに落とし込むための表現力が、昨今のアニメの多くに欠けている点である。

 例えば上記の SEED を一例に取って考えてみよう。SEED には、上述したテーマ的な側面から見た致命的な問題点が 2 つある。

@ 『社会』というものの存在に対する洞察の欠如

 例えば、この作品では戦争の根源にナチュラルとコーディネイターの感情的な衝突があり、それが連鎖的な憎悪を生み出して最終的に殲滅戦へとつながっていく、という分かりやすい構図がある(これを焚き付けた黒幕がクルーゼである)。しかしいくらなんでもそんなに幼稚なロジックで動く『社会』が『社会』として存在できるわけがない。特に戦争はトップダウン的なビューで見ると陰謀論や感情論で動くものではなく、むしろ論理と力学で理路整然と事が進むものである。(この辺のことは「アメリカの論理」(吉崎達彦氏)を是非読んでみて頂きたい。イラク戦争をここまで綺麗に論理的に説明できるものなのかと非常に感心した一冊。お薦め。)

 あるいはリヴァイアスと比較してみるのも面白い。同じように社会と個人の対立を描いたリヴァイアスは、相葉昴治という一人称視点を描くと同時に、リヴァイアスの中に出来上がる社会そのものの動向を細かく描きこむことで、客観的な視点から『社会 vs 個人』の対立構図を描いている。ところがこの『社会』に対するリヴァイアスの洞察はこれでもかというぐらいに深かった。夏のこたつ氏の表現を借りると、リヴァイアスの中に出来上がる社会は世襲の封建制 → 帝国主義 → 左派平和主義(社民主義) → 近代的管理型資本主義と近代史をなぞらえている。しかし SEED における『社会』はまるで「ヒネた子供が考える大人たちの歪んだ世界」像である。これではせっかくの「自立」というテーマも台無しである。

 「個人の自立」という立派なテーマが「僕らの七日間戦争」的な反組織活動にとどまってしまっているのは、こうした『社会』に対する洞察の浅さゆえのものだと考えられる。

A 一部のヒーローしか掴めない『自立』

 「流されるだけでは明日は来ない、だから自立して行動せよ」という SEED の主張は確かにごもっともではある。しかし、実際にそれが出来たのは誰かといえば、キラやアスラン、あるいはラクスといった極めて限られた『力を持った』ヒーロー層のキャラクターたちだけである(フリーダム登場のときに語られた「力だけでも、想いだけでも」というセリフはまさにそのことを端的に示している)。逆にアークエンジェルの乗組員(力なきもの)の大半は単に流されただけの話でしかない。

 確かに物語を進めるために一部の力を持ったヒーローに『焦点が当たる』のは仕方ないのだが、この「力なき一般人が想いを実現する姿がほとんど描かれていない」のは本作品のテーマを扱う上ではさすがに乱暴であろう。本来の「組織依存の思考からの脱却」は「思考」が脱却すればいい(すなわち物事の考え方が変わればよい)のであって、この作品のように「組織そのものからの物理的な脱却」が必ずしも必要なわけではない。この論理のすり替えがあるが故に、結果的に一部の力を持ったヒーローしか『自立』を掴めない、という結論に陥ってしまっている。(この点も先に述べたリヴァイアスと比べてみると分かりやすい)

 「僕たちはどうしてこんなところに来てしまったんだろう…? 僕たちの世界は…」という終幕のキラのセリフに端的に回答すれば、それは「組織に思考や判断を委ねる自立してない一般人があまりにも多いから」ということになり、またこのセリフは「破滅に至る前に自立しようよ」という視聴者へのメッセージだと理解できる。だが、そもそも一般人の自立する様をきちんと描けなかった本作品は、悪意的に言えば個人の自立というテーマを扱いながらも「そんなの力を持たない一般人には無理だよね、てへっ」と最後にツバを吐き掛けているのだとも解釈できてしまう。

 ところが先に取り上げたサイバーフォーミュラには、テーマに対して作品が論理矛盾を起こしているようなところがほとんどない。取り扱っているテーマが純粋で単純なものであるため、論理矛盾の起こしようがないのだ。「仲間を信頼することは大切だ」という社会通念(価値観)が無条件に認められ、それが絶対的な信念を持ってエンターテイメントの中に色濃く刷り込まれている。描かれ方はお子様向けではあるが、矛盾のなさと力強さは SEED と比べるべくもない。そういう意味で、テーマ的完成度はサイバーフォーミュラの方が遥かに高いのである。

 「他人のせいにするんじゃなくて、自立して考えろ」という SEED のテーマは現代社会へ一石を投じようとするものではあるが、物語がテーマ性を高め、難しい観念的なテーマを取り扱おうとするからには必然的に高い視点や視座が求められる。それが伴わない、同人誌的な微視的視点から声高らかに語られる「世の中論」は痛々しい。10 年以上経ってみて、取り扱うテーマの難易度は高まったがそれに見合うだけの洞察の深さはついてこなかった。ガンダム SEED の本質的なイタさはそこにあったのではないだろうか?

 加えて言うのなら、私にはサイバーフォーミュラの方がテーマ的にも大切なものを扱っているように思える。何より考え方が前向きで、改めてその日常的な大切さを実感させてくれるからだ。単純でもいいから心に伝わり、心に残るテーマをうまく描いて欲しいと思う今日この頃。好き嫌いの問題といえばそれまでかもしれないが、「難しいこと」と「大切なこと」を勘違いしてはならないと思う。


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