このページは、ネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。また、直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。
今回は、すでに古いゲームということもあり、簡単に内容を整理するにとどめました。キモとなる部分は一通り押さえられていると思いますので、インプレがわりにお読みください。(^^;)
※なお、私は哲学については全っ然知りません。哲学の知識・観点から読み解くとまた違ったモノが見えてくるかもしれないのですが、その辺については触れていません。あくまで私が感じたもの、ということでご理解のほどを…。
何かしらアクションを取らない限りは非凡なことが起こらず、ゲームオーバもない日常をゲームシステムとして表現したもの。
設定上は 1 対のプリズムによって特殊な空間が形成されることによって起こっているが、テーマ的な側面から見た方が話は分かりやすい。
簡単に出来そうで出来ない、能動的な行動による循環する日常・思考からの脱却(超越)。
このテーマに対する直接的な回答はゲームシナリオ内で行われるが、ゲームシステム自体も同時にテーマに対するメッセージ性を持つ。
循環する一日や思考をゲームシステムとしてそのまま取り込むと共に、能動的なちょっとしたアクション(日常的な些細な出来事を『記憶』しておく)の積み重ねにより、その日常の変質を表現している。ゲームの難易度の高さは、そのまま循環日常・思考からの脱却の難しさに対応していると考えても良い。
最終的な循環からの脱却は 2 つ。ゲーム内の循環する日常に対して主人公と各ヒロインが迎えるエピローグ。もう一つは、ゲームという固定構造(循環構造)に対してそれをプレイしたプレイヤーが迎えるゲームの終了。後者の見方はレトリック的な側面も強いが、ゲームの作りを前提に考えるとあながち外れた考え方ではないと思われる。
各キャラクターはそれぞれ何らかの理由により閉塞感を味わっており、そこから抜け出せずにいる。主な理由は以下の通り。
主人公
知性の高さ、知識の豊富さゆえの循環思考。物事の意味や理由、その無意味さを理解しているが故に行動出来ない。
澄香
外界、特に相手の心理が分からないことに対する不安感。相手への信頼を持つことが出来ず、対人関係に慣れていない。
明美
告白が玉砕したことによって発生した自信喪失。そこから脱することが出来ず、ついには追い込まれて自暴自棄に近い行動に出る。
雪乃
時間が解決するのを待つという行動力のなさ、そして解決しなかった場合の逃避先としての兄貴の存在。
みゆ
他者の心情を把握できないことによる他人からの忌避。理屈抜きで相手の心を感じ取ることが出来ない。
さより
不義の関係を持った男性の娘との人間関係。自分から打開策を打つことも出来ず、みゆの側も離人症に陥っており打開することができない。
主人公については後述。
澄香
他人を信頼できるようになること。夢幻の世界 (9:00 を越えた記憶の連続した世界) の先に追いやられても主人公を「信頼」して待つことにより、現実世界をコミットできるようになる。
明美
冷静さの回復。部屋を共にしても主人公に何もされなかったこと、そして主人公にたしなめられたことで冷静さと本来の自分らしい行動を取り戻す。
ただし、明美シナリオに関しては主人公側の物語性の方が強い。主人公側の物語としては、自らのアクション(明美を求め、森の中で絶叫する)がこの循環世界を打破する鍵になっている。
雪乃
身の回りにある、大切なものへの気付きと、それに対する自発的な行動。ここに至る最初のきっかけは澄香との依存関係の逆転であり、決定打は逃げ先であった兄との意識ズレの発生。
みゆ
みゆが父親を「自分から」拒絶し、涙を流して感情を回復すること。
エピローグでは離人症を脱した二人が互いを思いやったり、適度に自分に都合の良い解釈をしたりしているのが特徴的。
さより
いわば再婚相手の妻と娘の間の信頼関係の成立(腫れ物に触るようだったみゆとの関係性の確立)。みゆが離人症を脱し、さよりに明確な感情(嫌い)を向け、窮地に陥ったみゆをさよりが庇うことで、長年生活を共にしてきた、二人の本当の関係性が始まる。
注意点としては、このシナリオでは琴原氏は結局もとの妻を愛しており(この点はみゆシナリオと違う)、元の鞘に収まるのが論理的にはベストシナリオ(みゆの母親の問題があり、限りなく可能性はゼロに近いが)。しかしさよりとみゆの間に信頼関係が成立したことによって逆にこの可能性が完全に消されている。さよりも内心は琴原氏の一時の気の迷いに気付いており、エピローグでは琴原氏を吹っ切っている様子を見せている。
エピローグに関しては雪乃やさよりのシナリオについてはユーモア性や事後報告的な側面が強いが、澄香やみゆのシナリオはかなり直球勝負になっている。
主人公の語りの切り口にしばしば現れ、またゲーム全体に浸透しているベースラインとなる考え方が主に二つある。
自我の境界
人間は脳内メカニズムでしか外界を認識できないため、外存在である他人を完全に理解することは原理的に出来ない。
世界や人生の究極の根本原理の追求
論理的な思考に基づいた上での、より優れた価値観の追求。ゲーム中ではその価値を論理的に見出すことができない自分自身の行動や社会通念に対する懐疑として現れる。
どちらかというとテーマ的には後者がメインで、それを語るための題材として前者を利用している、という形を取っている。(後者を考えることがいわゆる哲学に相当するらしい。)
ヴィトゲンシュタインの考え方の応用。無矛盾な形での絶対真理や認識を求めることは不可能。詳細は kagami 氏による「未来にキスを」のレビューを参照。
端的に言えば、この主人公があれこれうだうだと考えても結論は出るはずがない。すなわち絶対的な認識や真理に価値を求め、それを得ようとしても思考は循環してしまう、ということ。理屈や思考の正しさだけでは循環思考から脱却することはできない。この循環思考(循環日常)に対してどう手を打つか、がこの作品が取り扱う本質的なテーマである。
Prismaticallization がこのテーマに対して出した結論は、
「思考の循環を認め、受容しつつも、それでも前向きに現実世界に『生きる』ことを選択せよ」
というものである。特に以下の 2 つのシナリオではこれを強く見ることができ、他のシナリオでも大なり小なり同様の結論をメッセージとして見て取ることができる。
例@ みゆシナリオ
このシナリオのエピローグでは、離人症を脱した二人が互いを思いやったり適当に自分に都合の良い解釈をしたりしている。しかしそこまでの展開での論理は、「互いを思っても本質的な理解は出来ない」であったり「自分に都合の良い解釈ではなく、相手の本心を知りたい」であったりしている。このポイントから見ると、エピローグはむしろ逆行とも言える。
しかし、『それでも別に構わないのだ』というところがミソ。つまり、他者は本質的には理解できないということを前提として受け入れた上で、それでもなお適度なバランスを持って他人との協調を築くことが、循環を打破する鍵だということ。
例A 明美シナリオ
このシナリオのラストでは、主人公は明美を求め、森の中で絶叫する。こうした行動を他人の前ですることは冷静に考えれば恥ずかしいし、みっともない。
しかし何を求めるのか、それを知ることができれば、そうした迷いや思考を断ち切り、能動的なアクションを起こして循環を打破していくことができる。
つまり主人公の循環世界からの回帰とは、思考の循環を認めつつも(=絶対的に正しいことは証明できないと知りつつも)、何らかの信念や情動に基づいた能動的な行動を取ることにある。このことは、シナリオ中では明確に以下のセリフによって語られている。下線部がミソ。
「……何かは知らないが、つまりは終わったんだ。猶予の時間は」
「ようやく気付いた。ただ単に、自分で踏み出せば良かったんだ。それだけのことだったのさ」
俺は論拠は無く、しかし確信を持って、答える。
トラウマゲーは過去が原因(足枷)となって明日への一歩を踏み出せないという形態を取るのに対して、このゲームは性格的な原因、自分の思考や理屈が原因で次の一歩を踏み出せないという形態を取っている。そしてそうした循環思考に対して、『理屈や思考の正しさだけでは循環思考から脱却することはできない』ということを、ゲームシステム含みで突きつけている。
sense off や未来にキスをでは、相手に対する絶対的な認識を認めても思考は循環せざるを得ないというという事実に対して、絶対的な認識(支配)を認めるために内世界へ逃避する現代の潮流を現状認識として描いてみせた。これは、絶対的な真理がないからこそ、自分自身を絶対(中心)だとして外世界を捉えてしまおう、という逆転発想である。ただしそのメッセージ性は薄く、かろうじて慧子 ED にメッセージが見られるに留まる。
これに対して本作品は、思考の循環を認め、絶対的な認識が存在しないということを貫こうとするのではなく、それを事実として受け入れた上で現実世界を生きろというメッセージを示している。
各 Web サイトを調べてみると様々な経緯があったようだが、結果論から言えば、本来これが突き刺さるであろうプレイヤー層に本作が浸透していない可能性が高く、カルトな「知る人ぞ知る名作」になっている。どこまでもストイックに『芸術的完成度』を追求しているにもかかわらず、パッケージデザインや選択した市場などの営業戦略がすべてそれらに矛盾してしまっている。
商売としては大失敗もいいところだろうが、作品に罪は無い。そう思いたいところだ。
似たようなカルトゲーとして X ゲーム市場でも「書淫、或いは失われた夢の物語。」や otherwise の作品群があるが、出来れば今後もこうした作品群はよりニッチではあるが目と舌の肥えたプレイヤーの多い市場で生き残っていって欲しい。
最後に、インプレらしいインプレを書いてまとめとしたい(ホントの意味での駄文なインプレで申し訳ないですけど(^^;))。
このゲームで私が感心したのは、@ 循環思考を無駄だと切り捨てるのではなく、そうした迷いや戸惑いは現実を生きていくための『猶予期間』であるとして描いたこと、A そして現実世界が『待ったなし』のものである、だからこそ循環思考を受け入れつつも現実を生きていくことを考えろ、というメッセージがストレートに伝わってきたことである。(本作の何をメッセージとして受け取るかは個々人の受け取り方によって変わるかもしれないが、私にはそのように感じられた。)
程度や頻度の差こそあれ、誰しも自分の今の生き方に戸惑い、よりよい生き方があるのではないかと思い悩むことがあると思う。自分の今やっている勉強や仕事、研究を無意味に感じたり、もっと素晴らしいやり方があるように思えたり、あるときふとその価値を見出せなくなったりする。そうしたとき、改めて自分を振り返ったり考え悩んだりすると循環思考に陥ることがある。よりよいものを目指そうという上昇志向は時として循環思考に陥る危険性をはらんでおり、そしてそれは時として停滞をもたらす。
しかし現実世界が『待ったなし』のものであるからこそ、その循環思考(猶予期間)の中から最終的な結論が出なくともとりあえず信じるものを何かしら見出し、『絶対』が存在しないことを認めた上で現実世界にコミットして生きていこう、という考え方は、この上なく現実的で、前向きな考え方だと思う。そしてそれは同時に、人間が悩みながら生きていくことそのものに対する賛美でもあると思うのだ。
こうした現実的な前向きさがリアルに皮膚感覚として伝わってきたゲームという観点から言うと、Prismaticallization は今までに類を見ないゲームであったことは間違いない。確かに同じようなネタを扱ったゲームは多々あったのだが、ゲームシステムまで含めて直球勝負で体当たりしてきたゲームは私にとっては本作が初めてであった。
数多くのレビューやインプレが述べているように、大衆向けのゲームとして見た場合にお世辞にも出来が良いとは思えないが、ある種の人間への突き刺さり方という意味で言うと、刃物以上に恐ろしいゲームであったと言わざるを得ない。このゲームを発売当時の3年前にプレイしていたとしたら、このゲームが何を言わんとしているのかはさっぱり分からなかっただろうが、しかし今この時期にこのゲームにめぐり合えたことは私にとっては間違いなく幸せなことだった。極めて人を選ぶゲームではあるが、私にとっては非常に素晴らしいゲームだったと思う。
最後に、このゲームで大好きな一節を引用して締め括りたい。澄香ルートのエピローグより。
全てが意味を持っているのかは、知らない。証明もできない。知り合いに、神様もいない。
…それでも信じるものが無ければ、生き難い。
些細なこと。明文化されない、証明されない、保証されない、全て。
自分が在ること。他人が居ること。明日が、明日も続くこと。
Prismaticallization について
Le Monde de Prismaticallization (Chaotics、Koba氏)
僕とあなたのPrizmaticallization記念碑 (森の十字路、月森さんぽ氏)
『Prismaticallization』論評のようなもの序文 (亜蘭 一人氏)
他作品について
未来にキスを プレイ雑記 (kagami 氏)
sense off & 未来にキスを 後日談 (まちばりあかね)
※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)