Sense Off & 未来にキスを 後日談

Last Update 2002/04/30

はじめに

 Sense Offのインプレを書いたのはもうすでに1年半近く前になりますが、今から思い返すとSense Offという作品をよく理解せずに書いていた感があり、掲示板に何回か自分の整理をかねて作品解釈をまとめていました。ここでは、掲示板の内容のさらなる整理を兼ねて、少し後日談をまとめておきたいと思います。

 なお、以下の文章には強烈なネタバレが含まれていますので、上記2作品をクリアした方のみご覧いただけますようお願いいたします。

アイデンティティとは - 機能と構造の問題

 当時、私がこの作品でどうしても馴染めなかったのは非常に唐突すぎるエピローグです。ファンタジーという根拠を元に超越的な「消滅&帰還」を描いたONEに対して、本作は物理法則や化学法則を使って丁寧な(いや本当の意味で理系の人間から見れば甘さはいくらでもありますが)世界の組み立てを行っていきます。にもかかわらず、エピローグでは大どんでん返しとも言える、超法則的な精神世界論を持ち出し、そこまでに積み上げてきた世界観をすべて破壊したハッピーエンドを迎えます。この作品をプレイした当時、私はこれを「甘っちょろいゲーマー向けに無理矢理ハッピーエンドにしたもの」と解釈し、それをベースに本作品を駄作と評価していたのですが、この次の作品である「未来にキスを」をプレイした結果、本作品の読み方・見方を全く変えざるを得ないことに気付きました。「未来にキスを」の時代設定は「Sense Off」の手前となり、慧子というキャラクターがSense Offへと引き継がれていきます。

 これらの二作品を読み解く上で重要になる概念が、アイデンティティです。アイデンティティという言葉は多義的に使われている側面もありますので、ここでの定義を書いておきますと、「自分」という(機能的)存在と「肉体」という(物質的)存在との関係を意味している、と思ってください。

 アイデンティティというものについては私自身、明確な答えを全く持っていませんが、それを考える上でヒントとなる書籍を2つ挙げておきます。一つは『唯脳論』(新書)、もう一つは『祈りの海』(SF文庫)です。どちらも本質を突き詰めれば同じところに行き着くのですが、より理論的なアプローチを取っている『唯脳論』についてまず簡単に解説します。

 『唯脳論』とは養老孟司氏(東大の教授だそうです)が近年の解剖医学の研究成果を元に、人間の思考のクセを脳の構造上の特徴という面から理論的にアプローチ、整理したものです。その主張の要点を簡単に整理すると、

といったところでしょうか。唯脳論の本文中に頻繁に出てくる「考えているのが自分の脳だということをすっかり忘れている」という表現は「自分の脳なくして思考はないのに、脳と思考が全くの別物だと主張しているのは論理矛盾だ」という話を言っているなど、ややレトリック的にセンセーショナルな書き方をしている面もあるとはいえ、この本が主張するところの「心と脳は機能と構造の関係にある」という主張自体は十分蓋然性があると思えます。

 なんにせよ、物事を捉える際に「機能」と「構造」という二通りの見方があり、それを切り離して考えがちなのが我々の頭脳のクセだというのがポイントで、これがそのままアイデンティティの問題へと繋がっていきます。

 例えば、あるAさんと全く同一の物理的原子構造を持つレプリカA'が仮に作れたとした場合(すなわち同一機能を持つ、別の物質(構造)がある場合)、果たして「本人」とはどちらを指すのか? このとき、2つの視点があります。

 さらにここに「死」という概念が絡んでくるともっと話は複雑になります。つまり、Aという物質が消滅した場合、Bさんから見てAとA'を区別できるのでしょうか。いや、区別することに意味があるのでしょうか。

 そしてもし仮に、他人Bさんから見た場合のAさんという存在の本質が「機能」の面のみにあると捉えるとどうなるのか。それが「未来にキスを」が提示している問題である、と言ってよいでしょう。相手のアイデンティティとは相手の持つ「機能」であると考えるのであれば、本質的に、現実世界にいる人間Xと、アニメやゲームのキャラクターYには差異がありません。XとYに差があるのは「現実世界の肉体を持つかどうか」という点だけです。(このことは、Sense Offの慧子シナリオの中で語られる「ならば、機械とヒトの違いは単に材質の差に過ぎない」というセリフの中にもその断片を見ることができます。)

 この話は極論としても、人間がこのような思考のクセを持っているというのは一面的には真実かもしれません。例えばXさんが亡くなった後でも「その人は自分の心の中で生きている」というのは、Xさんの本質が物質(構造)ではなく機能にあるという考え方の一例に思えます(もちろん違う側面もありますが)。また、アニメやゲームのキャラに没頭するアニメヲタク(ひとごとではありませんが(笑))などはまさに、人間の本質の重点を物質(構造)ではなく機能(思想や思考、行動)に置いていると言えるのではないでしょうか。

 作者である元長氏は「未来にキスを」のCDドラマのブックレット中にて自身の作品を次のように評しています。「結局のところこれは、恋愛についてのロマンティックな物語である。そしてまた、自分がこの業界を発見した時のセンス・オヴ・ワンダーを詰め込んだのが、この物語であるとも言える。」と。真意のほどは明らかではありませんが、相手を捉えるという際に構造面ではなく機能面に重点を置くことによって広がるロマンティックなドラマ、そしてそれを地で行くアニメ・ゲーム業界に何らかのセンス・オヴ・ワンダー(全く想像もしていなかったような新たな発見をしたときのような感覚)を感じたのではないか、と私には思えます。

 「未来にキスを」に関しては別ページのインプレにて書いたとおり、上述したような話を美少女ゲームの文脈中でご丁寧な理由つきで語った、という点において非常に興味深い、面白い作品です。ただ、この作品中では直接的にどちらがいいのか(旧人類がいいのか、新人類がいいのか)を語っていません。構造(物質)面より機能(思考)面をより重視し、より脳化していくこと。そしてその最先端を行くのがアニメ・ゲーム業界である、という実情・現状を語ったのが「未来にキスを」という作品だと思います。

『未来にキスを』の後続作品としての『Sense Off』

 ところがこの文脈をベースとして、「未来にキスを」の後継の物語として「Sense Off」という作品を捉えると、「Sense Off」単体では非常に分かりにくかったその主張が明確化してくるように思えます。

 「Sense Off」というタイトルは「意味が失われている」と同時に「感覚器(sense)の遮断(off)」(=脳化)の文字をひっかけています。「未来にキスを」の悠歌シナリオでは「目を閉じる」という表現がありますが、まさにこれ。唐突すぎるご都合主義的なハッピーエンドエピローグは、物語の終わりの後に続くsense offによる(現実を無視したプレイヤーによる)『妄想』エンドであると捉えられるでしょう。(この解釈は影王氏のWebサイト『PANDEMONIUM』のsense off解釈でより詳しく取り上げられています。) それが「未来にキスを」の後に続く「新人類」が持ち得た能力である、と解釈すれば、「未来にキスを」のゲーム内容とも綺麗に符合します。

 ところが問題はここから先です。構造(物質)面より機能(思考)面をより重視し、より脳化していくこと。その行き着く先は何かといえば、観念存在です。極端な話を言えば、思考さえ存在すれば肉体は要らない。その思考を行う『頭脳』さえ存在し、そこで好きなだけ妄想していれば、そこは究極のパラダイスになる。それをまさに端的に描いてしまったのがSense Offの慧子なのではないでしょうか。

 Sense Offの慧子は、脳だけで生き永らえ、コンピュータから与えられるもしくは自身が生み出す妄想の世界に生きているキャラ。それは「未来にキスを」の文脈に沿って読み取れば肉体という束縛のない『新人類』であり、『圧倒的な楽園』だったはず。ところがSense Offの結末は慧子というキャラの存在を肯定しませんでした。

 Sense Offというゲームが唯脳論をどこまで意識したかは不明ですが、唯脳論の中で著者の養老氏は脳について次のような説明をしています。脳は単体では存在できず、その末梢神経が全身を張り巡らされており、そこまで含めて考える必要がある、と。つまり肉体と脳、引いては外界との接触と思考とは完全に独立して存在させることはできないということです。ある意味、それが肉体に縛られる人間という存在の限界でもあります。

 この点に関してSense Offではどのように描かれていたのかというと、慧子は外界から充分な刺激(すなわち末梢神経からの入力)が与えられないが故に、自我が維持しきれず、崩壊していきます。このことは端的に、人間が完全に脳化する(すなわち構造という物質的な存在を抜きに思考だけで生きていく)ことはできない、そして外界との積極もまた、人間の心(機能)を維持するために必要である、ということを語っているのに他ならないと考えます。すなわち、完全な脳化、新人類化は絵空事である、という痛烈な皮肉とも読み取れます。

 このことはSense Offの他のED、すなわち成瀬を初めとする他のキャラのEDや、EDテーマ"birthday eve"を全面的に引っくり返す、元長氏の作品中唯一の主張である、と言ってよいでしょう。なぜなら、例えば最近発売されたnitro plusの鬼哭街では同じようなテーマに対して、肉体の消滅→精神の共存という展開を取りましたが、Sense Offの方はどうかというと、消滅したのは慧子の方。つまり肉体の存在(末梢神経からの入力であり、外界との物理的接触、それはすなわち『構造』)なくして精神(機能)の存在はありえずという主張をここでしている、と読み取れます。

 ここで終わればああなるほどという感じなのですが、Sense Offの強烈なところは、なおさらに慧子のEDを続けたところにあるのでしょう。慧子のEDは上述したように、肉体なくして精神は存在しえずという脳化の限界と行き着く先の無益さを語っているにもかかわらず、それでもなおsense offし、脳という檻の中へと逃げ込んでいく様が描かれています。慧子シナリオの最後の一節を以下に引用します。

   聞こえる。
   聞こえてくる。
   声が聞こえる。
   それは、馴染みのある声。
   遮断された感覚の中、聞こえてくる声。
   そして、見える映像。
   檻の中にいるわたしたち。
   けれど……檻の中へと逃げ込むことは、後退じゃない。
   それは、未来への前進。
   わたしの中にあなたはいるし、あなたの中にわたしはいる。
   檻の中は、袋小路じゃない。
   わたしたちは、檻の中でわたしたちの姿を創る。
   そうやってしか、自分たちの像は創れない。
   そうやって知覚した像こそが、真実の像。
   檻の中に、変革された未来がある。
   閉じたモノローグの先に、未来が――
   ……
   歴史は、もう始まっている――

 感覚遮断されてもなお声が聞こえたり映像が見えたりするのはまさに妄想そのものだから。檻の中へ逃げ込むとは、現実世界の中で生きていくことを放棄し、妄想の世界(ゲームでもアニメでもいいですが)へと逃げ込むこと。そしていつしかそれが真実となり、現実と妄想の区別がつかなくなっていく。そして閉じたモノローグ(心の中での妄想)の先に未来が……(「閉じたモノローグの先に未来が『ある』」と言っていないのは、慧子シナリオでの主張の通り、元長氏がそれを素晴らしい未来だと認められないからでしょう。)

 とまあ、まるっきり踏んだり蹴ったりな語り草ですが、果たして本当にそんなところに未来があるのでしょうか?
 ……それに対する元長氏の考え(もしくは現状認識)が、「(良かろうが悪しかろうが、物理的に不可能だったとしても、脳化の方向に進む)歴史は、もう始まっている」なんでしょうね。

現状認識としての物語

 さて、最後に……。

 このように「未来へキスを」から「Sense Off」への流れで作品を読み解くと、ああなるほどと思える点も数多くあり、「未来へキスを」がいい意味で「Sense Off」の誤解を解く分かりやすい作品になっていたと思えます。二作品に共通するのはいずれも今現時点での美少女ゲーム業界(主にはプレイヤー側ですが)を上手く捉え、それをフィクションという形を使ってその現状認識をうまく表現したという点。そして、語っている内容もほぼ共通していると言ってよいでしょう(「未来にキスを」のドラマアルバム中で元長氏も「中身はといえば、驚くほど『sense off』と同じことしかしていない」と言っている)。

 しかし一方で、あまりにも初心者お断りというか、プレイヤーに対する配慮の少ないテキスト、展開、内容であり、そうした意味から万人に薦められるゲームとは言いがたいのも事実です。詮無きことをうだうだと考えるのが好きな人でないと、つらいゲームだと思います。

 ただ、いずれにせよ現状認識として「Sense Off」や「未来にキスを」の主張が正しかったとしても、では我々がどうすべきなのかという現実問題に対して両作品とも答えを示しているわけでもなく(示すつもりなど元々ないのでしょうが)、そこに存在するのは現状認識と消極的な現状肯定のみ。視点としての前向きさには欠ける、実践を含まない論評家好みの作品と言ってよいかもしれません(まさに私が該当するのでしょうけれど(汗))。

 また、私として興味深いのはやはり「ここから先の物語」です。「それでも脳化する」というのがSense Offの主張なのかもしれませんが、私にはどうもそうは思えないところがあります。いやもちろん「それでも脳化する人」が相当数いるのかもしれませんが、全員が全員そうなるわけでもないでしょうし、科学が脳化の問題を解決する(いわば青砥が目指したことでしょう)のにはまだ相当な時間がかかると思われます。パイを競い奪い合うことで加速度的に悪化していく美少女ゲーム・アニメ業界の動向、そしてあたかもバクテリアが増殖するかのごとく増加の一途を辿るアニメヲタクの増加。ある意味、どう転んでもおかしくないのが今現時点の状況にも思えるだけに、ここから数十年というのはなかなか面白い変化の時代になるのかもしれませんね。

参考文献


※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)