さて、ここまでのシナリオ解釈などを元にこの作品(前半部の個別キャラルート)を『敢えて』まとめてみると、次のようになるのではないでしょうか?
「互いを思いやる優しさと、相手から送られる思いやりを感じ取り、そして行動していくことによって、初めて人の気持ちは繋がり、それが『幸せ』という名の奇跡を生み出す。」
ここまでのシナリオ解釈では、渚ルートに関しては断片的にしか触れてきませんでしたが、これは、他のルートと比較して、渚ルートは(物語の壮大さに比べると)強烈に伝わってくるメッセージが弱く、インプレとしてまとめる内容は特にないかな? と思っていたためです。ところが、個別ルートで語られていたような視点を持ってリプレイしてみると非常に見どころが多く、やはりこのルートこそが作品のメインルートとして相応しいものである、と思えてきました。
渚 & After Story は「朋也人物伝」とでも言うべき、人の一生そのものを扱ったようなルートですが、このルートを掴みづらくしている理由は大きく分けて 2 つあると思います。
物語の壮大さ
ギャルゲーや X ゲーで、高校時代から同棲、結婚、出産、父子家庭と、10 年近くに渡る物語を描ききった例はほとんどないこともあり、まずそのスケール感に圧倒されて思考力が停止(^^;)してしまいます。
イベントの細かさ
ルート全体が細かいイベントの積み上げで作り上げられています。このため、論理的な視点を持って「作品の作られ方」から単一のメッセージを抽出することが困難です。
このため、プレイヤーが「その行間に隠されている意味」を積極的に読み取ったり感じ取るように努力しないと、その本質が掴みにくいルートになっているように私には思えるのです。
実際、渚&After Story ルートをリプレイしてみると、サブキャラルートで取り扱われていたトピックが日常的なイベントの様々なところに垣間見られました。例えば分かりやすい例を 2 つほど挙げてみます。
思い込みによる気持ちのすれ違い(公子・風子ルート)
渚は、創立者祭の前日になって、物置に隠された秋生と早苗の過去を知ってしまいますが、渚はそのことを「二人が夢を諦めた」のだと思い込みました。
確かにそれは、自分の弱さで他人が犠牲になることをなによりも嫌う、渚なりの二人への思いやりだったのかもしれません。でも、渚は「二人が夢を諦めた」のだと思い込んでしまったことにより、二人が自分に向けてくれている本当の思いに気付くことが出来なくなっていたのではないでしょうか?
恐れに打ち克つことの難しさ(ことみルート)
渚ルートでは、町が変わっていく様子を次々と目の当たりにした朋也が漠然とした未来への不安を抱くようになり、そして渚が熱で倒れると、それは確固たる不安へと変化しました。その不安は、朋也を「変化すること、前へ進むこと」から遠ざけることになります。
またその不安は、渚を失った後、汐と本当の意味での父娘になれた後(幸せを再度築き上げた後)でも繰り返されることになりました。
これ以外にも、杏・椋ルートで描かれたような『見えない』部分に隠された気持ちや智代ルートで描かれたような慣性を破ることの難しさ、あるいは有紀寧ルートのレッテル貼りなども、渚ルートの細部に見て取ることができました。サブキャラルートで語られた内容が、日常的な小さなイベントの中に多数紛れ込む形になっているのが、この渚ルートなのではないでしょうか?
とはいえ、渚ルートを「サブキャラルートの和集合」ルートである、とみなすことは私は不適切だと思います。というのも、渚ルートは人の一生を扱ったような壮大なスケールを持つのですから、他のルートとの類似性を探そうと思えばいくらでも見つけ出せて当然だと思うのです。むしろ重要なのは、何気ない日常的なシーンの中にも、サブキャラルートで語られていたような『大切なこと』はいくらでも転がっているということ、そしてそうしたものは『気付きにくいけれども確かにそこにある』ということではないでしょうか? それらを汲み取れるか、感じ取れるか、ということが、結果的には思いやりの深さの違いとして現れてくるように思えるのです。
しかし、確かに渚ルートは「その細部にこそ本質がある」とは思うものの、大枠で見てもいろいろと興味深い点があります。まず、渚ルート〜After Story 全体の流れを追いかけてみると、ストーリーは大きく分けて以下の 5 つのブロックから構成されていました。
二人が出会い、朋也が卒業するまで(渚ルート)
進学校の中の『はみ出し者』である渚と朋也が出会い、二人が互いに支え合うことによって、坂道を登っていけるようになるまでの物語。
主なイベントとしては、演劇部の建て直し、バスケ 3 on 3、創立者祭、初デート〜原因不明の病の発生、など。
二人が同棲を始め、渚が卒業するまで(After Story ルート前半)
同棲を始めた二人が、渚は学校で、朋也は職場でそれぞれ頑張り、自立して卒業を迎えるまでの物語。
主なイベントとしては、古河家での住み込みバイト、就職、同棲、創立者祭、直幸の逮捕、渚へのプロポーズ、仲間たちによる卒業式、など。
二人が結婚し、渚が汐を出産するまで(After Story ルート後半)
卒業後に結婚したのち、汐を身篭った渚が、母親としての強さによって汐を出産するまでの物語。
主なイベントとしては、ファミレスでのバイト、妊娠、渚の発熱など。
渚を失った後、汐の父親になるまで(汐ルート前半)
直幸の置かれていた境遇を理解することによって、渚の死を受け入れ、汐と共に生きていくようになるまでの物語。
主なイベントとしては、朋也の仕事への現実逃避、汐との旅行、祖母との出会い、渚の死の受容、など。
汐が熱病に冒され、倒れてしまうまで(汐ルート後半)
本当の意味で汐の父親になる事の出来た朋也が、なおもまた現実の厳しさと理不尽を突きつけられ、再び朋也が喪失への恐れを抱いてしまうまでの物語。
このうち汐ルート(4., 5.)については、すでに第 1 章の『前半部と後半部を背後から支える「幻想世界」の意味』にて検討したように、「万物の流転を前提条件として受容して欲しい」という朋也へのメッセージが込められたエンディング(Bad Endですが)になっていたと思います。
一方、True End ルートに着目した場合、そのうち 1.と 2.については第 4 章の『渚&After Story ルートでの二人の同棲 : 思いやりと支え合いのカタチ』にて検討した通り、二人の支え合い、思いやりの形が変化していくことにより、深い絆を作り上げつつも二人がそれぞれに自立していくプロセスが描かれていたのではないでしょうか?
ところが、1.と 2.においては二人の同質性と、互いに並んで歩んでいく様子が強調されているにもかかわらず、渚ルートは 3. で明確な転機を迎え、ここでは渚の強さと朋也の弱さが極めて対照的に描かれていました。
このシナリオを担当した麻枝氏は、電撃姫 (2004/07)のインタビューで、渚シナリオは結局、弱かった渚が母親になるまでの過程を描く物語なのだと語っていました。ゲーム開始直後にはあんなにも弱かった渚が、なぜ「強い母親」になることが出来たのか? このインプレを締めくくっていくにあたり、そのことを考えてみたいと思います。
同棲しつつも互いに少し距離を取りつつ、絆を深めながら自立を果たした二人は渚の卒業後に結婚しましたが、その後、妊娠し、出産が近づくにつれて、渚は母親としての強烈な強さを見せるようになり、逆に朋也は変化を恐れ、心の弱さを見せるようになっていきます。二人は同じどん底から共に支え合い、共に坂道を登ってきたにもかかわらず、なぜここに至ってここまで極端な違いを見せるようになってしまったのでしょうか?
妊娠から出産にかけての二人を見比べてみると、以下の 2 つの点について、二人の考え方の違いがはっきりと現れているように思います。
他人への思いやりの度合いの違い
変化への受容の度合いの違い
そして、渚はこの二つの両方を兼ね備えているからこそ、強い母親になれているように感じられました。
◇ 他人への思いやりの度合いの違い
もともとあんなにも気弱だった渚が強くなっていくことが出来たのは、倒れそうになるところを他ならぬ朋也に支えてもらったからだったと思います。しかし、渚が強くいられる本当の理由は、誰かに支えて続けてもらうからではなく、他人を深く思いやり、自分の生きる意味や理由、夢を、他者の幸せの中に見出すことができるから、だと思うのです。
出産に向けての朋也の様子を見てみると、朋也の場合には幸せのカタチが常に自分の中にありました。渚と共に『自分も』生きていくこと、それが朋也にとっての幸せでした。そしてその願いや夢が、渚の夢(仮に自分が死んでも汐を生みたいという夢)と相反したときに、朋也は渚の夢を自分の夢にすることができず、二人の二つの夢を同時に叶えるんだ、と言いました。
「なぁ、渚…俺はおまえと一緒に生きていくことが、俺の生きる理由なんだ。
そのために生きていきたいんだ。
そして、おまえは強く生きたい…強い母として、新しい生命を産みたい…
それがおまえの生きる理由だ。
なら、ふたつの夢を叶えよう。」
「いいんですか…」
「ああ。その代わり…絶対に負けては駄目だ。
絶対に、叶えなくちゃならないんだ。
他の結果はない。挫折も、失敗も、何もないんだ。
ふたりの夢を叶える…それだけだ。絶対にだ。」ところが、渚や秋生、早苗たちは、自分の生きる意味や理由を、何の迷いもなく、他者の幸せの中に見出すことができます。秋生は演劇、早苗は教師という夢を自ら閉ざし、自分たちの夢を娘に託し、渚が夢を叶えることを自分たちの夢にしました。あるいは汐を身篭った渚は、自分の身を危険にさらしても、汐に自分の夢を託しました。
このような違いは、渚が妊娠したことによって初めて生まれてきたものではなく、渚シナリオの前半でも幾度となく描かれていました。例えば、杉坂から仁科の話を聞かされた渚は、あっさりと自分の夢を捨て、仁科たちの夢を優先させていました。
「そんなの…そんなのわたし、断れないです。
わたしこそ…許してほしいです。そんなこと知らずに…
自分のためだけに、幸村先生を演劇部の顧問にしようとしてたんですから…」
「古河…それは仕方ないだろ…知らなかったんだから」
「でも、もう知ってしまいました。だから…あきらめます」
「どうして…」
「わたしががんばれば、仁科さんが…夢を叶えられなくなります。
わたしは、あきらめます。」それは確かに朋也や陽平からすると、馬鹿正直すぎる行為に他ならなかったかもしれません。しかし、自分が生きていく意味を他人の中に見出すこと、他人への深い思いやりを始めから持っていた女の子、それが渚だったのではないでしょうか。
秋生は、朋也に向かって次のように語りました。
「なぁ、朋也。俺はこう思うんだ。
結局、人が生きる意味は、家族や愛す人の中にあるんじゃないかってな…
だから俺たちは…
あの日、自分たちの夢を諦めて、それを渚に託すことができた…
ひとりで生きてたって、いいことなんてありゃしねぇよ…
遠い星で、ひとりで暮らしてみろ。何を糧に生きていける?
なんにもねぇだろ。
だから、人は繋がってる。
誰かと繋がっていて、初めて、生きている、と実感できる。
喜びも生まれる。
だから、それを否定するなんてことはしたくねぇんだよ…俺は…」出産に向けて、朋也は「渚と共に『自分も』生きていく」という自分の夢を堅持し続けましたが、もし朋也と渚の立場が逆であったのなら、渚はなんの迷いもなく、相手の夢を優先させ、そしてそれを自分の夢として共有したのではないでしょうか?
朋也はそのことになかなか気付けませんでしたが、汐ルートではついにそのことに気付く様子が描写されていました。
「何か…何でもいいですから、俺にできることがあればやりますから…
一生かけて、恩返ししたいです。」
「なら、幸せになってください」
ああ…早苗さんは、いつだってそう。
いつだって、家族の幸せを思い、そして家族の幸せと共に幸せになれる人だった。
この家族はみんなそうだ。
オッサンだって同じことを言ってくれるだろう。
もし、渚が生きていたとしたら…やはり同じことを。
俺も仲間に入れるだろうか。
人を幸せにして、共に幸せになる家族の仲間に。
今日からはなれるだろうか。
幸せにしたい小さな家族と共に。「…渚」
その名を呟く。
「時間かかっちまったけどさ…」
「やっと、家族になれたよ、俺…」
「人を幸せにして、自分も幸せになる家族の仲間に…」朋也と違って渚が強くいられる理由、それは他の人の幸せの中に、自分の生きる意味や理由、夢を見出すことができるからだったのではないでしょうか?
◇ 変化への受容の度合いの違い
そして渚と朋也にはもう一つ、大きな違いがあると思います。それは、『万物の流転を前提条件として受け入れているかどうか』です。
そもそも渚が繰り返し語る、「強くなりたい」というのは、『何に対して』強くなりたいのでしょうか? ゲーム開始直後に、渚は坂の下で次のように呟いていました。
「でも、なにもかも…変わらずにはいられないです。
楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。
ぜんぶ、変わらずにはいられないです。
それでも、この場所が好きでいられますか」渚は、原因不明の病気によって幾度となく友人やかけがえない時間を失いました。彼女にとって、時間とそれがもたらす変化というものは、楽しいもの、嬉しいものばかりではなく、むしろ悲しみや苦しみといったものの方が大きかったのではないでしょうか。だとすると、渚の言う「強くなりたい」というのは、時の流れによって、すべてのものが変化してもなおそれを受け入れ、生きていくことができるかどうか、ということではないでしょうか? そのことは、渚から朋也に託された、次の言葉にも表れているように思います。
「もしかしたら、朋也くん…わたしと出会わなければよかったとか…
そんなこと思ってるんじゃないかって…すごく不安でした…
でも、わたしは、朋也くんと出会えてよかったです。とても、幸せでした。
だから、どうか…もう、迷わないでください。
これから先、どんなことが待っていようとも…
わたしと出会えたこと、後悔しないでください。
ずっと…いつまでも、強く生きてください」渚は、朋也にはない『何らかの特別な理由』があって、辛い変化を難なく受け止められるというわけではないと思います。朋也と同じように、失うことへの恐れも抱くでしょうし、失えば悲しみに暮れることもあるだろうと思います。しかし渚の場合は、「何もかも変わらずにはいられない(自分すらも)」ことを前提条件として受け入れており、その中で自分はどう生きていくかを考えているように思えます。
このことは朋也と対照的です。朋也は幸せを作り上げるという変化に対してはとても前向きに受け入れていく半面、幸せが失われるという厳しい現実を直視することができず、時として逃避すらもします。渚を失った後、朋也は仕事と遊び、酒やタバコに逃避しますが、それは取りも直さず、幸せが失われるという厳しい現実、その変化を受け入れることが出来ていないということではないでしょうか。
そしてここで述べた二つの要素(他者への思いやりと、変化の受容)は、渚の中で、あたかも歯車の両輪であるかのように一つに噛み合っているのではないでしょうか? 渚は変化を受け入れているからこそ、他者に対する深い思いやり(人が生きる意味や夢は、他人の幸せの中にこそある)を持っており、逆に、他者の幸せを自分の幸せとして取り込むことの出来る思いやりの究極形を持つことができるからこそ、変化や喪失の持つ恐怖や悲しみすらも乗り越えていくことが出来ると思うのです。
これは、CLANNAD 前半部の個別キャラルートで描かれていた内容(思いやりや支え合いのカタチ)をさらに一歩推し進めたものであるように思います。CLANNAD 前半部の個別キャラルート(渚ルートも含む)では、人と人とが支え合い、想い合い、具体的に問題を解決していくことによって、現実世界の辛さを乗り越え続けていけるということが様々に示されていました。例えば、ことみルートを例に取って言うなら、変化の先にある喪失への恐れは、朋也がそばに居続けて支えることによって解消されていました。もちろんそれは「恋人の関係」としては適切であり、CLANNAD 前半部の渚ルートでもそのような解が示されていました。しかし、後半の After Story ルートの汐の出産で見せた渚の「母親としての」強さは、万物の流転を前提条件として受け入れると同時に、人を幸せにして自分も幸せになることができるという、思いやりの究極形を持つからこそのものではないでしょうか。
そしてそのことを踏まえて考えると、渚にとっての出産の意味(母親になることの意味)もまた見えてくるように思えるのです。渚は、朋也から汐を産むことについて問われたとき、次のように答えました。
「なぁ、渚。ひとつ訊きたいんだ。
おまえが、強く生きること…
強い母として、新しい命を生んで、育くんでいく、ということ…
それは、おまえにとっての何なんだ…? それを教えてくれ…」
「わたしのやるべきことです」
「それは…一番か?」
「はい…わたしの一番です。
今までずっと弱かったわたしが…母として最初にやるべきことなんです…
ここで負けたらわたしは…人の親になんてなる資格もない…弱い子です…
それでは…わたしのお腹に宿ってしまったこの子が…あまりに可哀想です。
だから、絶対に産まないといけないんです…
朋也くんとの間にできた…この子を…強い母として。」渚の言う「強さ」が、変化せずにはいられない現実の辛さに負けずに生きていくところにあるとするのなら、渚の出産には、その逆境に負けずに、自らがその変化(変わりゆくもの)を生み出す、という意味が篭められているように思うのです。
つまり、渚の出産は、自らの生きる意味や夢を自分の娘の中に見出すという、思いやりの究極形であると同時に、変化に負けず、自らが変化を生み出すことの象徴として存在しているのではないでしょうか? だからこそ、渚は汐を産むことを、強くありたい自分にとっての一番だといい、絶対に自分はここで挫けたくないと、頑なに主張したのではないでしょうか。
「わたしの弱さのために…
ひとの命が消えてしまうなんて、わたしには堪えられないです…
それが自分の子なら、なおさらです。
わたしの強さで産んであげたいです。母親の強さで…」「朋也くんと出会って、わたしは強く生きようとがんばってきました。
こんな…一番大事なところで、挫けたくないです。しおちゃんを産んであげたいです。
朋也くん…体が弱いわたしですけど…
どうか…強く生きさせてください」
そしてまた、ここまで見てきた渚の強さと朋也の弱さを元にして考えると、人の営みの象徴ともいえる『町』というものに対して、この作品が篭めた意味も明らかになるように思います。渚と朋也では、この『町』というものの捉え方が全く違っていたのではないでしょうか?
まず朋也にとっての町は、変化していくものの象徴であり、自らの中にある恐怖心の象徴として存在していました。ファミレスが建設されたことに動揺し、旧校舎が取り壊されるということを聞き、朋也はショックを受けました。
俺以外のものが、変わっていく。そんな気がした。
俺の愛したものはすべて思い出となり、まったく見たこともない新しい世界が出来上がっていく。
何もかも、変わらずにはいられず…何もかもが、変わり続けていく。
そしてそこには…渚も含まれているのだ。ところが、渚はこの「町」というものの受け止め方が全く違っていたように思います。渚にとっての町は、エピローグで語られた通り、大きな家族であり、人の繋がりの象徴でした。相手の幸せが自分の幸せになる、人を幸せにして自分も幸せになる、それが渚にとっての町でした。朋也と渚とでは、「町」というものの受け止め方が全く違っているのではないでしょうか?
ところで、祐介は、朋也に子供が出来たことを知ったとき、次のように語っていました。
「自宅出産か…そいつはいいな。
岡崎、おまえは自覚することになる。
人は誰もがひとりきりでは生きていけないということ…
誰かが誰かを支えて生きていくこと…
その始まりを岡崎、おまえは最初にその手で我が子に伝えてやるんだ」
埃で黒く汚れていく手。
この手で。朋也は万物が流転し、その変化によって大切なものが失われていくことを恐れました。そのため、渚のように、自分の生きる意味や夢を他者の中に見出すことを理解できず、その恐れは、渚が汐を出産するまで変わることがありませんでした。
しかし、汐という新しい命を自らの手に抱き、そして渚と会話したときに、朋也は「渚にとっての町」、すなわち渚の強さの本質を初めて理解するに至ったのではないでしょうか?
柔らかいタオルで撫でるように拭き、肌着に包む。
小さくて、容易く壊れてしまいそうな存在…
でも、その奥には、命がある。まっさらで、逞しい命だ。
(ああ…)
その胸に抱いて、俺は気づいた。
(なんて、強いんだろう、こいつは…)
こいつが、これから歩んでいく道。
それがどんな険しいもので…そして、どんな長いものであっても…
きっと、強く生きていく。そんな気がした。カーテンを開けた窓の外の町が光に満たされているのを見て、朋也は渚に問い掛けました。
「もし…町に人と同じように、意志や心があるとして…
そして、そこに住む人たちを幸せにしようって…そんな思いで、いるとしたら…
こんな奇跡も、そんな町のしわざかもしれないです。」
いや…奇跡はこれからたくさん起こるのだろう。
そんな気がしていた。
「でも、それは奇跡じゃないですよね。
町を大好きな人が、町に住み…人を好きな町が、人を愛する…
そんな、誰にでもある感情から生まれるものです。
この町だけじゃないです。どんな町だって、そうです。
わたしたちは町を愛して、町に育まれてるんです。そう思います。」「なぁ…町は、大きな家族か」
「はい。町も人も、みんな家族です」
「そっか…」
「だんご大家族です」
ああ…そうか。そうだったのか。
渚はもしかしたら、出会った頃から…
いや、もっと昔から気づいていたのだろう。
だから、渚は誰も嫌いにならない。
誰のためでも、一生懸命に頑張る。
それは、家族だからだ。「町」を変化という痛みや苦しみの象徴と捉えるのか、それとも万物の流転を前提条件として受け入れ、互いの幸せを願うことによって幸せが育まれていく大きな家族(=人の繋がり)とみなすのか。それは、現実世界の象徴としての「町」の捉え方の二面性ですが、後者のように捉えることができるからこそ、渚は強くいることが出来るのではないでしょうか? そして朋也もまた、そんな渚を理解したからこそ、これからは強く生きていくことが出来るようになっていくのではないでしょぅか。
こうして考えてみると、私には渚ルートの True End は、やはりこのゲームを総括するに相応しい内容を伴ったものであるように思えます。町にある他人の幸せ(光)を集めていくことによって、最後に渚が助かるということも、作品のテーマ的必然といえるのではないでしょうか?
確かに、「たとえ万物の流転によって不幸が避けられないとしても、深い思いやりによって人は前に進んでいける」、というのは、砂糖菓子のように甘い戯言と言えなくもありません。朋也の 3 on 3 や仕事での頭角発揮などは、朋也にもともと類稀な才能があったからこそ為しえたという側面もあり、決して誰しもが同じことを出来るわけではありませんし、現実はもっと厳しく、過酷であることがほとんどでしょう。けれども、「他者への思いやりによって集められた光が、幸せをもたらす」という True End は、人間の切なる願いでもあり、たとえそれが奇跡であったとしても、フィクションとしての願いを込めたハッピーエンドであるように、私には思えました。
ここまで、CLANNAD という作品の各ルートを私なりに解釈してきましたが、人を思いやり、幸せにすることで、共に幸せになっていく家族、町という人の繋がりの持つ暖かさは、本当に心に染み入る物語であったと思います。
とはいえ、作品全体の True End に至る流れやその描かれ方を大枠で捉えてみると、「はみ出し者たち(ドロップアウトした者たち)にこそ幸せが訪れる」的な構図があるのもまた事実かとは思います。
実際、社会からの疎外感を前面に押し出したところを起点としてゲームはスタートし、互いの思いやりや支え合いによって幸せを掴んでいき、最後の True End ではその究極形として「町の幸せ」が描かれる、という物語にはなっているものの、その視点は基本的には『最も小さな集合』としての家族や友達に向いており、より大きな開かれた『世界全体』へと向かったものにはなっていなかったように思います。例えば、進学校という環境の中で無味乾燥でイヤな連中の象徴のように描かれていた渚ルートの生徒会や、良い大学に進学するために朋也たちを無視して勉学に励み続ける生徒たちに対する理解は最後まで描かれていませんでした。むしろ朋也はそこから取り残されたかのようでいて、彼らとは対照的に、社会の中で自らの『居場所』と『家族』を 18 歳という若さで手に入れている。今もなお大学で勉学に励む、無味乾燥な連中の幸せは、この作品のいったいどこにあったのでしょうか?
正直、嬉しかった。ずっと違和感のあったこの場所。
それが自分の居場所として、馴染んでいくのが実感できた。
事務所にいても、みんなから、声をかけてもらえるようになった。
煤まみれの先輩たち。
(ああ、本当に、あの頃からは考えられない…)
窓の外に下校していくどこかの学校の生徒を見ながら思った。
あの頃、机を並べていた連中は、みんな進学して、今もなお、勉学に励んでいるのだ。
俺だけ、ここにいる。
でも、ひとりじゃない。同じように、毎日煤にまみれる人たちと一緒だ。
それが俺が選んで…新しく手に入れた場所だった。 …★
あるいは、多数の人々を救うために建てられたはずの病院で騒ぎを起こす秋生の行為なども、社会的には決して褒められたものとは言えないのではないでしょうか。
この作品での描写が意図的に避けられた、「はみ出し者ではない、メインストリームにいる人々」たちへの理解を獲得していくプロセスは、少なくとも朋也に関しては描かれていませんでした。特に★のような表現に対して敢えて皮肉な捉え方をすれば、はみ出し者にこそ他の者には得られない唯一無二の幸せが得られる、的な構図があったとも言えるのではないでしょうか。
先に検討してみたように、このゲームは非常にバランスの取れた世界観を持ってはいるのですが、この点、すなわち個人のわがままやエゴ、あるいは社会や世間の常識のもたらすプラス面、メリットなどに関しては敢えて伏せられており(せいぜい早苗ルートでかろうじて描かれた程度に留まる)、非常にバランスの悪い作品になっているようにも思うのです。そしてこうした点を指して、このゲームを「保守的」「原点回帰」「反社会的」と評しているレビューも散見されるように思います。
確かにその事自体は、レビュー(批評)としては的確なものだと思いますし、私も否定しません。社会性や世間の常識は、バランスを取るためには重要です。しかし社会の常識の中に生きる我々にとって、社会性や世間の常識を元に考えることの容易さに比べると、思いやりを突き詰めて考える事はとてつもなく難しいことではないでしょうか? むしろほとんどの場合、社会性や世間の常識といったものが、相手に対する深い思いやりを意図的に遠ざけるための言い訳として使われてしまってはいないでしょうか? 思いやりというものを突き詰めて考える上では、敢えてそうしたしがらみを取り払い、弁証法的(※1)なアプローチや考察を行うこともまた、時として必要だと思うのです。
※1 弁証法 : 簡単に言うと、ある主張が存在するときに、それと矛盾する正反対のことを敢えて考えてみて、その両者の良いところを併せ持つものへとブラッシュアップしていくこと。
例えばこのゲームのメインヒロインである渚。彼女は一般論から言えば、はっきり言って「アホな子」です。なぜなら、彼女には個人のエゴが希薄で、他人に対してレッテル貼りをすることが決してなく、他人の行動をとにかく善意的にしか解釈できないからです。よく言えばお人好し、悪く言えばアホな子としか言いようがありません。しかしこのゲームを最後までプレイして、『強い母親』として汐を出産した彼女を見ても、まだ渚のことを「アホな子」と簡単に切り捨てられるでしょうか? 他人を幸せにすることで自分もまた幸せになれる、そんなプラス面の素晴らしさを併せ持つ彼女を、「アホな子」と一刀両断することは、少なくとも私には出来ません。
もしレビュアー(批評家)としてこのゲームを評するのであれば、やはり減点せざるを得ない要素は多数あると思います。しかし一人のプレイヤーとしてこの物語を受け止めるのであれば、敢えて自分も渚のように「アホな子」になって、この物語を考えてみてもいいように思うのです。エゴの強さが強調されすぎる今の時代背景を鑑みると、『思いやりとは何か』『人のつながりとは何か』『人生とは何か』を突き詰めて考えてみることもまた、大切な思考実験ではないでしょうか? (このネタバレゲームインプレが、敢えてそうしたレビュー的スタンスを廃して、ただひたすらに CLANNAD の良さを突き詰めるようなインプレの形を取ったのは、ここに理由があります。)
「町」と「人生」が様々な形で描かれたこのゲームを通して、「どこまですべての前提条件を捨てて、『思いやりとは何か』『人のつながりとは何か』『人生とは何か』などを突き詰めて考えることが出来るのか?」という思考実験を行うことにこそ、このゲームの存在価値があるのではないでしょうか? そして私は、その思考実験を通して、そこで受け止めたもの、読み取ったもの、汲み取ったものこそが、この作品中で最も価値のあるものなのだと思うのです。
作品構成やシナリオごとの出来の差など、全体論からすればいろいろと難もあるゲームでした。しかし、この作品をプレイしてみて、思いやりの持つ温かさやそれがもたらす幸せ、そしてその多様性や難しさ、生きていくことの意味というものを、改めて考えさせてもらったような気がします。設定には非現実的な部分が多数ありましたが、それに比べると、その中で語られていたテーマは非常にリアリティを帯びた、難しいものだったように思います。意表を付くような、あるいは殴りかけてくるような乱暴さを伴った物語ではなかったものの、そこにあったものは、確かに今までの Kanon や AIR の成功や失敗を踏まえた上での、Key の集大成たる作品だったように思います。
先に述べたように、このゲームの本当の価値は、思考実験を通して自分が受け止めたもの、読み取ったもの、汲み取ったものにこそあると思うので、このインプレでは CLANNAD という作品の本当の魅力は決して伝わらないと思います。また、ここまで書き連ねた私の「アホな子」モードの解釈も、作り手の意図とはかなり違う部分も多いでしょうし、あくまでこの作品に対する一つの視点、切り口でしかないと思います。そういう意味で、もしこのインプレで何らかの別の視点を得ることができたのであれば、是非 CLANNAD というゲームをリプレイしてみて欲しい、と思います。そしてまた、皆様方が受け止めた CLANNAD という作品がどんなものだったのかを、Official 掲示板やこのサイトの掲示板などで聞かせて頂ければ嬉しいです。
なにはともあれ、とんでもなく長文でまとまりのないネタバレゲームインプレを読んで頂いて、ありがとうございました。そして、素晴らしい作品を仕上げた CLANNAD スタッフの皆様、本当におつかれさまでした。次回作も期待してますよ〜、ホントに。(^^;)
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