このページは、とらいあんぐるハート全シリーズを総括したネタバレありのゲームインプレッションです。このため、すべてのシナリオ(DVD Editionのおまけシナリオも含む)をコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。
※直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。
なお、今回はちょっと熱の入った電波入りインプレ(感想)です。普段書いているものよりもかなり主観度が高い内容になっていますので、内容面で納得のいかない方も数多くいらっしゃると思います。が、これも一つの感想ということで、大目に見てやって頂けると助かります。
今回のインプレはDVD Edition全域に渡る話を取り扱うこともあって、かなり長い内容になっています。このため、まず最初にサマリを書いておきたいと思います。長文が面倒な方はここだけ読んでもらえれば十分だと思います(^^;)。
とらハシリーズの魅力の本質はストーリーではなく、ボトムアップで構築された世界にこそある。
ボトムアップで構築された世界それ自体は直接的な意味を持たないが、プレイヤーが意味を付与していくことのできる世界であるからこそ普通の物語ではなし得ない奥深さを持つことができる。
特にとらハ2はそれ自身が「意味を作り出す物語」としては、アニメ作品「花の魔法使いマリーベル」などに匹敵する傑作クラスの作品である。私にとっては生き方の『スタイル』として共感するところが多かったというのが最大の見所であり、心に残った理由である。
とらハ3やリリちゃでテーマを出したのは結果的に見れば失敗、しかしDVDおまけシナリオで挽回。
経緯や理由はどうあれ、とらハ3ではキャラ主導での物語からストーリー主導の物語への変質により技量的な問題から物語が破綻し始め、さらにリリちゃ箱ではプレイヤーへの満足感の供給のために既存の作品の土台までもが捻じ曲がってしまった。
ただ幸いなことに、DVDおまけシナリオではとらハ2に強く見られたとらハシリーズの本質的な良さが見事に出ており、やり直しの感はあるとはいえシリーズものとして本当のグランドフィナーレを迎えたと感じられる。
このインプレでは基本的に各キャラのシナリオについて詳細に触れることは文章の構成上避けていますが、いくつかのシナリオについては簡単なメモ書きとして別掲しておきました。よろしければ参考資料としてお読みくだされば幸いです。
インプレを始める前に、一つの問題提起をしたいと思います。
我々の『人生』には意味があるのでしょうか?
……私は、人生そのものは意味を持ってはいない、と思います。確かに我々はその人生から意味を見出したり、意味を与えたりすることは出来ます。しかしそれは「人生そのものが本来的に持っている意味を抽出する」のではありません。あくまで人生そのものは無味透明なものであって、そこに何らかの価値観を適用することによって、そこに初めて「意味」や「意義」が生まれるのです。
このことは、とらいあんぐるハートシリーズを語る上では絶対に外せないポイントだと思います。なぜこれが外せないポイントであるのかは追々書いていくことにして、まずはとらいあんぐるハートの全シリーズを概観し、このシリーズがどのように変化していったのかをおさらいしたいと思います。
とらいあんぐるハートシリーズはご存知の通り、1998年12月18日に発売された第一作目を皮切りとして、2002年6月14日のDVD Editionに至るまで全6作を輩出したロングセラー作品です。その他にもドラマCDや小説、OVAシリーズなど幅広いメディアに展開されており、コミケの物販ブースでの盛況ぶり、これからリリースされるとらハ3 OVAなど、まだまだ終わるところを見せないシリーズになっています。またとらハはLeafやKeyと並んでファン層が非常に厚い作品として知られており、名実ともにivoryの看板作品であると言えるでしょう。
このとらいあんぐるハートの各作品を一つのシリーズものとして見た場合、明らかに「変わらないもの」と「変わっていくもの」があります。
まず変わらないものの代表格として、シリーズの全作品が同一の街、海鳴市を使っていることが挙げられます。全登場キャラクターは50人以上、その一人一人に細かい設定がなされ、さらにそのキャラクター間の人間関係は複雑を極めます(この人間関係の複雑さはSOFTBANK刊のビジュアルファンブックを見てみるとよく分かるでしょう)。結果としてこの海鳴市は一つの世界、「とらハワールド」と呼ばれる一つの世界を構築しています。
一方変わっていくものの代表格は、作品のテーマです。もっともこのシリーズ作品は『テーマ』や『コアコンセプト』と一般に呼ばれるものが何であるのかを定義しにくいので、作品の特徴と言った方がよいかもしれません。各作品は以下のような特徴、コンセプトを持っていました。
従来のXゲームあるいはギャルゲーととらハ1が異なっていたポイントは多々ありますが、特徴的なものをピックアップすると以下のようなものが挙げられます。
表面化されない『第三のハート』を常に意識した作りをする。
本作には「とらいあんぐるハート」の作品名から想像されるような三角関係こそないものの、それまでのXゲームあるいはギャルゲーの典型的なフォーマットであった、ある特定キャラルートに入ったときに他のキャラが全く絡んでこなくなるという「二人だけの世界」を廃し、常に『第三のハート』を存在させる作りがなされています。
多様な『幸せのカタチ』を提示する。
特にさくらシナリオや弓華シナリオが分かりやすいでしょうが、多くのキャラのエンディングは順風満帆な完璧無比のハッピーエンドではなく、より現実的な『幸せのカタチ』を多種多様に提示しています。無闇に完璧なハッピーエンドを求めるのではなく、自分たちが納得する『幸せ』を掴む物語というのは、意外にあるようでなかったのが実際です。これ以外にも、多彩なフォーマット(少年漫画的、少女漫画的など)を持つシナリオ群、ベッドインしたあともきちんと続く物語、キャラクターへの愛着を強化するキャラ萌え要素など、様々な点に先進的な部分が見られます。これらのポイントは、結果として従来のXゲームやギャルゲーのフォーマットである「カップル成立がゴール」という構図を突き崩すこととなり、より現実に近い恋愛ゲームという新しいジャンルを開拓することになりました。(この衝撃は、Web上で散見される、当時に書かれたレビューを見てみるとよく分かります。)
しかし今となって見返してみると、物語としては極めて荒削りでボリューム感もなく、構成の稚拙さと突っ込みの甘さ、物足りなさが目立つ作品になっているのも事実ではあります。確かに要素として優れたものは多々見受けられるものの、全体としての整合性は全くと言ってよいほどありません。構成や基本コンセプトを元に作られたゲームではなく、基本設定をベースに思い付いた要素を盛り込んでいくことにより作られたゲームであると感じられます。
キャラクターを「生かす」ことに主眼が置かれ、要素単位で見ると極めて素性のよい部分の多い本作品は、「とらいあんぐるハート・プロトタイプ」とでも呼ぶべき作品であると思います。実際、この作品で構築されたいくつかのフォーマットは、それ以降の作品にもずっと引き継がれていっています。
上述した通り、とらハ1はおそらく基本コンセプトを中核に据えてその土台の上に作られた作品ではない、いわばブレインストーミング的に作られた作品であると思います。しかし、とらハ1のブレインストーミングの中で浮かび上がってきた『本当に大切なもの』をさらに進化させてコアコンセプトに据え、それを中核にゼロから構築しなおした作品。それがとらいあんぐるハート2であると思います。
例えば「第三のハート」は、「ある個人」から「二人をとりまく周辺環境(=さざなみ寮とその住人たち)」というより大きな枠に捉え直されています。愛シナリオのラストで登場する、ベランダで語り合う二人の下にさざなみ寮のみんなが押しかけるCGが象徴的ですが、ほぼすべてのキャラについて、そのシナリオは『さざなみ寮』というバックボーンとなる世界をベースにして組み立てられています。
また、構成面でも進化が見られます。とらハ1では真一郎・唯子・小鳥の三人の関係は既成のものでしたが、とらハ2では第一部・第二部を使って、この世界の構築のプロセス(さざなみ寮という空間を構築するプロセス)が丁寧に描写されています。このため各キャラの分岐に入るタイミングでは、そのストーリーを語るベースとなる『さざなみ寮』という空間がしっかりとプレイヤーの中に構築されています。第一部と第二部は、この作品のバックボーンである『さざなみ寮』を構築するためにどうしても必須な章なのです。(もっとも第一部と第二部は物語としては極めて単調である上にゲームシステムの作り・操作性の悪さが重なり、結論やテンポのよい展開を重視するプレイヤーには苦痛以外の何物でもなかったということもあったようです。この点はDVD Editionではシステム面での改良により大幅に改善されています。)とらハ2を語る上ではこの『さざなみ寮』という存在がとにもかくにも大きいのですが、このさざなみ寮の本質はどこにあるのでしょうか? その点に関して、このさざなみ寮をラブひなのひなた荘と同様な「プレイヤーにとっての桃源郷空間」と捉えているレビューが極めて多いのですが、この二つは(外敵がいないという意味で)同じ桃源郷空間であっても、その内部特性が全く違っていると思います。
まずラブひなのひなた荘は、そこに存在するキャラクター間のパワーバランスによってその世界が構成され、維持されています。つまりひなた荘という世界は、そこに存在する各キャラの性格の役割分担と、それらのぶつかり合いによってバランスが取れているわけです。このことは、この世界のキャラの増減が極めて困難であることを考えて見ると分かりやすいと思います。性格のかぶるキャラクタの導入は極めて困難ですし、またむつみや加奈子をこの世界に組み入れて再度ひなた荘のバランスを組み直すこともなかなかに手間のかかることでした。(このことについては作者の赤松氏自身も研究本ラブひなゼロやラブひな∞などの中で述べられています)
これに対してさざなみ寮は、その根底に流れる「思いやり」によってカラーが統一されており、この「思いやり」を持つことの出来るキャラクターであれば容易に増減が可能になっています。このことは、第二部で何の違和感もなくゆうひやみなみがさざなみ寮になじんでいったこと、またリスティが最初にやってきたときにさざなみ寮が崩れかけたことを思い返してみれば明らかでしょう。
つまり総じて言うと、とらハ2の作品のバックボーンになっている『さざなみ寮』のそのさらに裏側のバックボーンには、キャラクター間でやり取りされる「思いやり」が大前提としてあり、いわば「思いやりのある生き方」こそがこの作品とらハ2のコアコンセプトになっている、ということです。真雪シナリオで語られた「一生、笑って過ごそうぜ!」という言葉を実現するために必要な様々な要素がこの作品中には散りばめられていますが、それらがすべて根底にある「思いやり」という糊によって有機的に統合されている。その構造こそがとらハ2の作品としての素性の良さである、と言えます。作品の持つ究極の暖かさは、こうした複層構造を持ったバックボーンから滲み出ているものだと言ってよいでしょう。
しかしながらとらハ2の舞台になっているさざなみ寮というのが隔離空間(すなわち外的要因による阻害のない桃源郷世界)であるということに関しては、作品としての弱さであり甘さであるという批判を免れ得ないところでしょう。とらハ2の物語はまさしく『風に負けないハートのカタチ』、すなわち『逆風(逆境)に負けない気持ちの持ち方』、ではあるのですが、その逆境のほとんどは生まれつきの要素であったりトラウマであったりと内的要因によって発生しているものです。しかし現実世界では往々にして外的要因によって逆境が発生するものであり、とらハ2の「思いやり」だけでは必ずしも現実に通用するメソドロジー(解決手段)を提供できない場合も多いわけです。
おそらくはこれがとらハ3の物語へと繋がっていくのでしょう。すなわち、とらハ2のような桃源郷世界(さざなみ寮のような世界)に対する現実的な敵対勢力に対してどのように現実的な折り合いをつけていくのか。それがとらハ3である、と言えます。特に本作品のメインストーリーとなる美由希やフィアッセシナリオでは、この桃源郷世界を破壊する『話の通用しない敵対勢力』として非常に分かりやすいテロ集団が持ち出されており、またとらハ3の広告に出てくる「守りたいもの、ありますか?」の「守りたいもの」が指しているものは特定の女性(攻略キャラ)ではなく、人の想いであったり夢であったり、この平和な世界そのものになっています。
確かにこの作品コンセプト(テーマ)は分かりやすいし目の付け所も悪くはないのですが、正直なところ、実際のゲーム内容は残念ながらまるで稚拙なものでした。その理由の詳細は補足資料の各キャラ別シナリオ解説に書いていますが、簡単にまとめれば以下のように言えるでしょう。
物語の構造・流れの悪さ
シナリオの基本とも言える「起承転結」の流れをきちんと作ることができていません。
まず、前半部では「守りたいもの」を構築することが重要なはずですが、とらハ2のさざなみ寮ほどに「この幸せを外敵から守りたい」と思える空間をシナリオ展開の中で作り上げることには残念ながら失敗しているように思います。
唯一とらハ2に劣らないレベルで成功していると言えるのは那美シナリオですが、これは那美のキャラ造詣=平和な日常の象徴=守りたいもの、という構図が出来ているために、キャラの魅力の描出がそのまま守りたいものの強化に繋がっているためです。しかしその那美シナリオですらも後半部では「主人公の関与できない物語」「作品フォーマットに縛られるが故の話の要点の分かりづらさ」といった問題を抱えています。
作品全体としての「基調」のなさ
とらハ2は「思いやり」というベースの上に「さざなみ寮」という桃源郷が構築され、さらにその上でドラマが展開されるのだということを書きましたが、その結果として、この土台の上でどのような物語が展開されたとしてもそれらには統一感がありました。しかしとらハ3の場合にはそうした基調がはっきりしていません。「守りたいもの、ありますか」という言葉にしても守りたいものは攻略キャラごとにバラバラですし、こじんまりと内的世界の問題だけで収まるシナリオもあれば、明確にテロ集団など外敵を持ち出すシナリオもある。トーンの不一致が目立ちます。失礼を承知で言えば、物語の構造に関して「守りたいもの、ありますか?」というキーワードを元に作品を膨らませてみたらこうなりました、という、同人的な素人くささがあるのです。
しかしだからといってとらハ3は駄作と単純に切って捨てられるかというと決してそういうわけでもないところが難しいのです。例えばレンと晶のシナリオでの、レンの心臓病が出たあとの晶の気遣いの仕方、レンの話の回し方の上手さには舌を巻くものがありますし、桃子の立ち振る舞いと高町家の構造にはやはり目を見張るものがあります。
こうした点はとらハ1や2でもやはり素性の良さとして見られた点なのですが、整理すれば、こうした日常描写、より正確にはキャラ同士の心のやり取りで成立するコミュニケーションの描写について圧倒的とも言える強さを持つ半面、トップダウン的に作品構造を持って何かしらのテーマを語るということに関しては絶望的なまでに弱いというのが、このとらいあんぐるハートシリーズ、そしてそれを作ったスタッフの方々の得手不得手である、ということなのでしょう。先に、作品としてのテーマやコンセプトを定義することが難しいと書きましたが、それは設定したであろうテーマやコンセプトが一つの作品内できちんと一貫していないことにも起因しています。
しかしそれでも、とらハ3は「物語(ストーリー)を作り上げるのがヘタだね」という力量不足の失敗で済まされていた話だったのですが、リリちゃに関しては完全に間違った方向に作品が変質してしまったと思わざるを得ませんでした。
リリちゃミニシナリオで選定されたテーマは、シリーズ最終作、未来へと続く物語としての「成長と別れ」。やはりこのテーマ選定は決して悪くないのですが、最大の問題は主人公なのはが過去の痛みを忌避してしまう話になってしまっていることです。とらハ3おまけシナリオでなのははアリサ・ローズウェルと悲しい出会いと別れをし、その半年後の物語にクロノと出会い、そして再び同じ悲しい別れを繰り返します。が、その後の作品のラストで、なのははクロノとの別れを消化して乗り越えるのではなく、クロノと再会して単純なハッピーエンドを迎えてしまいます。この部分が、シリーズの基本コンセプトに反した成長物語になってしまっているのです。
なぜこれがまずいのかはとらハ1から3までに出てくるキャラの設定を概観してみるとよく分かります。登場キャラのほとんどは過去に数々の痛い経験をし、そしてそれを乗り越えて現在に至っているのですが、その痛みとその克服こそが、人に優しくすることの出来る原動力になっているのです。暗い過去を消化していって人間として大成していく…より端的な言葉にすれば「傷ついた分だけ優しくなれる」ということ。それが、とらハ2などに見られた「絶対的な善人しかいない世界」をかろうじて存在感ある世界として成立させていた根本だったと思うのです。
ところがなのはのシナリオでは、物語としての美しさやキャラクタのかわいさを優先させたせいか、こうした「痛みや悲しみの克服」の描写が全くといっていいほどありません。もちろん「傷つかなかったから優しくなれない」ということではありませんが、成長過程における痛みや悲しみとの遭遇というテーマに対する回答としては砂糖菓子のように甘いものだと言わざるを得ません。そしてそれは同時に、シリーズが基盤として持っている作品の持つ優しさの源流にもうまく適合できていないと思うのです。
ここまで、とらいあんぐるハートシリーズの一連の作品の流れを簡単にまとめてみましたが、正直なところ、とらハ3やリリちゃの作品コンセプトや意味付けというのは、私自身、とらハシリーズを最初から通してプレイして初めて気付いたものであり、とらハ3やリリちゃだけをプレイした人には分かりにくいものだったと思います(少なくとも当時の私には分からず、作品としての不完全さをなんとなく感じるレベルに留まっていただけでした)。また、各作品を単体として見た場合には必ずしも欠点として出てこないものなのかもしれませんし、別の意味付けを行っていくことも可能かもしれません。ですがシリーズを通してみると、あくまで私の推測の域を出ないものではありますが、とらハ3やリリちゃ箱は結果論として誤った方向に進んでしまったように私には感じられます。
確かに、このように進んでしまった理由もある意味必然だったのかもしれません。Hシーンの濃さを求めるプレイヤー、ストーリー性を求めるプレイヤーの声、幼いなのはが痛みを受けることに耐え切れないプレイヤー、こうした様々な要望に応えるために苦労した結果がおそらくとらハ3であり、リリちゃなのでしょう。しかしながら最終的には作品の根幹までをも壊しかねない安易な場所に着地せざるを得なくなってしまっていたとらハシリーズというのは、私には不幸以外の何物でもないように思えて仕方がありません。少なくとも私には、このリリカルおもちゃ箱をもってしてとらいあんぐるハートのシリーズ最終作である、というのはとても許容しがたいものでした(そんなファンはほとんどいないのでしょうが(^^;))。
経緯や理由はどうあれ、キャラ主導での物語からストーリー主導の物語に変質したタイミングで技量的な問題から物語が破綻し始め、さらにはプレイヤーへの満足感の供給のために既存の作品の土台までもが捻じ曲がってしまった、そう私には感じられました。
結局、とらいあんぐるハートシリーズというのはトップダウン的な物語構造に弱く、ボトムアップ的な日常描写の積み上げやキャラクターの性格付け、行動原理、内的世界の思考や描写が異常なまでに強い。……程度の違いこそあれ、とらハ1からリリちゃ箱の全作品がそうした性質・問題を抱えているのではないでしょうか。そしてそうした実情が、(熱狂的なファンの方の中には手放しで誉められている方もいらっしゃいますが)多くのレビューをもってしてとらハシリーズを名作と断言しきれずにいる状況を作り出しているように思います。
しかし私はそれでも敢えて、とらいあんぐるハート2は歴史に残る大傑作である、と言いたいと思います。その理由は、
必要最小限のトップダウン構造しか持っていない。
他作品を圧倒するほどの「優しさ」「思いやり」を描出することに成功している。
の2点にあります。前者は一般的な観点から一見するとマイナス事項のように見えますが、とらハ2に限っていえばこれはプラス事項だと思います。なぜプラス事項なのか、そしてなぜとらハ2が大傑作だと考えるのかをより的確に語るために、ここでもう一度、『物語』について再考してみたいと思います。
はじめに、私は問題提起として「我々の『人生』に意味はあるのか?」という問いかけと、それに対する一つの回答として、人生そのものから意味を抽出することはできないが、そこに価値観を適用することによって意味を生み出すことができる、ということを書きましたが、これと同じことはとらハ2についても言えると思います。
多くの場合、『物語』(作品)は何かしらの意図を持って作られるのが普通で、そこには何らかのテーマが盛り込まれます(このテーマは必ずしもメッセージとは限りません、例えば叙述トリックものではプレイヤーを『騙す』ということそれ自体がテーマになることもあります)。そしてそのテーマを効率的に上手に表現するために、ほとんどの物語はトップダウン的な構造(作品の骨格)を決めた上で作られています。
しかし、我々の『人生』にはそのようなアプローチで読み解ける意味というのはありません。なぜなら人生は物語とは違ってトップダウン的に予め構造が決められてそれに従って進むようなものではないからです(当たり前のことですが)。しかし、日常の細かい生活の積み重ねに対して何らかの価値観を適用することで、そこから意味を生み出すことは可能です。人間は意味を生み出すために行動しているのではありませんが、行動の結果に対してそこから意味を読み出すことは出来るのです。それと同時に、構造を持った(予め意味を与えられた)物語よりもずっと深い意味を作り出す可能性を秘めているのが人生である、ということも言えると思います。予め意味を与えられた物語というのは(やや極論に言えば)良くも悪くも最初の設計段階で決められた意味がその最大値でしかありませんが、人生のように後から価値観を適用して意味を生み出すものはそうした制約を持たず、無限の意味を生み出し得る可能性を秘めていると思うのです。
つまり作品としての奥行き、意味の深さを究極的に深めるためには、予め考えた作者の意図が最大値となってしまうような作品構造を取ってはいけないと思うのです。
にもかかわらず世の中の多くの物語(作品)はやはり依然として予めテーマを決め、構造を決めてそれに沿って詳細部が作られています。なぜか? その理由は単純で、『人生』のような手法で物語を作ろうとしてもまずたいていは見るに耐え得るまともな作品にならないからです。確かに『人生』が生み出し得る意味は無限の可能性を秘めてはいるものの、純度が極めて低いのです。実際、我々の普段の日常生活から意味を汲み出そうとしても、中身の濃い、心に響く意味を大量に生み出すことはなかなか難しいでしょう。
ところが、とらいあんぐるハート2はそれに成功しているのです。
先に書いたようにとらハ2は本当に必要最小限の単純なストーリーはあるものの、作品のコアにはさざなみ寮という空間があり、そしてその中で日常的にやり取りされる暖かい心の思いやりがあります。しかしそれらはすべて平凡な日常的な出来事という『素材』でしかなく、そこに「思いやりを持つことで人間は暖かくなれるし、幸せになれる」といった『意味』を付与していくのはプレイヤーです。そして、プレイヤーがそうした『意味』を生み出すのに十分耐え得る原材料、素材になっている、それがとらいあんぐるハート2なのだと思うのです。そうした『意味』を生み出せるほどにまで純度の高い、徹底した思いやりのある日常をさざなみ寮の中で一貫して展開し続けているというのは脅威的なことだと思います。
また大半の作品では、プレイヤーによる過剰な『意味』の創出は作者の意図を超えた妄想になってしまうことが多いのですが、キャラクターを「生かす」ことに全力が注がれている、そして彼らを幸せに生かすことそれ自体が作品のテーマになっているといってもよいとらいあんぐるハート2の場合には、もともと構造的に語られている作者の意図がない、もしくは極めて希薄であるが故に、プレイヤーが制約なく極めて深い『意味』を生み出していくことが可能なのです。
やや熱を込めて極端に言うと、とらハ2の作品の奥深さとはこの世に生きる人間の人生の持つ奥深さである、そんなふうに言うこともできるかもしれません(←さすがにちょっと言い過ぎかな、とは思いますが(^^;))。そして逆に、トップダウンで作られた人生であるとらハ3やリリちゃには、この奥深さがない、もしくは薄いのです。
私はこうした「そこにある世界や人」が意味を生み出す物語を極めて高く評価しますが、こうした作品に出会えることは本当に極めて少ないです。アニメで言うなら、『花の魔法使いマリーベル』『無限のリヴァイアス』ぐらいなもの。一般ゲームで言うなら『幻想水滸伝I/II』、ギャルゲーやXゲームでこれに成功しているものということになるとせいぜい『鬼畜王ランス』ぐらいなものでしょう。とらハ2という傑作に出会えたことは、私にとって非常にハッピーなことだったと思います。こういう作品に出会うことがたまにあるからこそ、なかなか足を洗いづらいのでしょう(^^;)。
ただそうは言いながらも、このとらいあんぐるハート2が大傑作となり得たのは偶然の産物であるということも指摘しなければなりません。とらハ2の真雪シナリオでは、真雪を使って制作者の代弁とも取ることができるセリフが語られています。
「…物語でさ。こんな時にはこうあってほしい、とか…こうだったら、みんなうまくいくのに、とか…思うでしょ?」
「片っ端から消化されて、一年やそこらで忘れられてく…使い捨ての快楽でもさ。あたしは…あたしの描いたもので、あたしの読者ちゃんたちを笑わせたいし…おんなじように、物語の出来事に、一喜一憂したい。そんで、最後には笑っていたい……少しの間だけ、その人の一番で…すぐに忘れられて…でも、それでいいんだ。あたしは…そういうもの描きでいたい。」
このセリフは実際、とらハ2の『物語』の作られ方の本質を的確に捉えている部分があります。癒し系の物語を描けば『消費される』使い捨ての物語になるのは確か。しかしそうであっても、生き方のスタンスとして「こんなふうにありたい」という願望、性善説的な気持ちのやり取り、思いやりが通じる空間での良循環。そんなものを描きたい。まさにとらハ2はそういう情動から作り出されていると感じられますし、なにかを「語る」「伝える」ために作られた作品ではないからこそ、逆にそこに作品としての深み、厚みが現れてくることになったと思うのです。
しかしシリーズ全体の中の一作として前後関係を見てみると、本作が作品としての深みや厚みを増すために敢えてテーマやストーリー性を持たせない戦略を取った、とは残念ながら考えづらいのではないでしょうか。また他の傑作の中にはトップダウンに構成された作品構造とボトムアップで構築された人々の想いとを見事に共存させている作品もあるだけに(例えば幻想水滸伝など)、やはりとらハ2は偶然の産物だったのではないかとどうしても私は感じてしまうのです。
ただ、不思議なことですが制作者たちが意識せずたまたまこうした大傑作を生み出してしまう、そういう偶然が発生するのが創作物の面白いところでもあると思います。例えば先に挙げた作品の中の一つ『花の魔法使いマリーベル』はスタッフの多くが初めてであったり、制作中はとにかく頑張って作ることが全てだったと聞いたことがありますが、その力のすべてはサニーベルという街、そしてそこで生きる人々とそこで交わされる思いやりを描くことに注力されていました。結果として、(とらハ2と同じように)その「作品世界」が圧倒的な現実感(※キャラ設定としての現実性のことではなく、生きた感情を持った人間としての実在感)を伴って見るものに迫ってきました。そういった作品は「制作者の思惑を遥かに超えた輝き」を持つことができると思うのですが、とらいあんぐるハート2もまさにそうした制作者の意図を超えた輝きを持つ大傑作である、と思うのです。
偶然の産物とはいえ大傑作であったとらいあんぐるハート2は、その後さまざまな制約条件や経緯によって残念ながら破滅への道を進んでいき、最後には後味の悪い終わり方をしてしまったシリーズとなってしまっていたと感じるのですが、しかしこの後に発売されたDVD Editionおまけシナリオは、本当の意味でのシリーズ最終作にふさわしいものになっていたと思います。
このシナリオに含まれている二つの別れ、すなわち七瀬との別れと避暑地との別れは、シリーズの最終作として見た場合にはキャラクターとの別れと夏の思い出(ゲームそのもの)との別れとに重ねることができるのですが、にもかかわらずこのシナリオはプレイヤーへのメッセージ性を全くといっていいほど出していません。そうではなく、予めこのようなダブルミーニングを持つシチュエーションを選択しておいた上で、地道に七瀬との別れと避暑地との別れを描くという選択肢を取っています。物語のテーマ性はシチュエーションの取り方によって表現し、テーマをメッセージとして語ることをしない。あくまで淡々とキャラクターたちが思い思いに自由に動き、そしてその結果としてそこからじわりと意味が生まれてくる。とらハ2を大傑作たらしめている由来である『作品から生み出される意味』というポイントを、無理なく作品のテーマ性(ここでは作品世界との別れ)と共存させることに成功したショートストーリーだと思います。
これがある意味最もファンサービス的な位置付けの一作なのだろうと思います。さざなみ寮の暖かい空間を再実感させてくれる作品になっています。が、それと同時に「守りたいもの」を再実感させてくれるという意味において、三本目の「お正月だよ全員集合」の布石になってもいます。
そして本当の意味での最終作が本作です。上述したように、ナツノカケラがとらハシリーズとの別れを見事に体現したストーリーになってはいるものの、これで終わってしまうとややセンチメンタルな後味の悪さが微妙に残るのも事実だと思います。そのための口直し、そしてある意味ではとらハ3の失敗をカバーし、その意味の再定義までをも兼ねた一作、それが本作だと思います。あるべき場所、日常への帰着、みんながいる海鳴市の世界。それこそがこのシナリオで描写される「守りたいもの」。このシナリオには意味を与えるための『構造』はありませんが、そんなものは全く不要。そのかわりとなるのが恭也の持つデジタルカメラです。恭也が海鳴のさまざまな場所で撮っていく写真は、愛すべき守るべき日常のスナップショット。そのスナップショットをプレイヤーの中に作り上げて定着させることができたとき、このとらいあんぐるハートシリーズは本当の意味でプレイヤーにとってかけがえのない思い出となり、完結するのです。
このように、DVDおまけシナリオはとらハ3やリリちゃで犯されていたミスを補正すると同時に、本当の意味でのシリーズ最終作をやり直した一作になっています。果たしてこれが制作スタッフの意図していたことなのか、または偶然の産物なのかは私には分かりませんが、どちらであったにせよこれこそ私が求めていたとらいあんぐるハートの本当のグランドフィナーレである、そう思わせてくれるものでした。一つ一つのシナリオは短くても、とらハの本当の良さが如実に表れており、これで本当の意味でとらハシリーズは安心して幕を降ろすことができるのではないでしょうか。
今まで数多くのゲームをプレイしてきた私ですが、とらいあんぐるハートシリーズをプレイしてインプレを整理してみて、これはギャルゲーあるいはXゲーが到達しうる終着点の一つなのだな、と今回強く痛感させられました。
このゲームが人気が出る理由の一つには確かに純粋なイベントフォーマットとしての萌えもあるのでしょうが、それはあくまで表面的なことであり、より本質的な理由には、それをしっかり下支えしている価値観の存在があると思います。先に、とらハ2は意味を付与するのに十分に耐え得る素材を提供していると書きましたが、そのような強固で堅牢な素材が提示できている源流には徹底した「思いやり」があり、その裏にはスタッフ陣の持つ人生の年輪の厚さや深みを持った価値観といったものがおそらくあるでしょう。私はこのインプレをもってして制作スタッフ陣の人格(^^;)などを語るつもりは毛頭ありませんが、少なくともアウトプットとして出てきた作品の中には、それぞれに大切な価値観を持った『生きた』キャラクターたちがたくさんいた、と感じられます。
そうした価値観やキャラクターたちの生き方が、現実世界に則して考えると確かに非現実的な側面を帯びていること、そして特にとらハ2は現実に比べて無菌空間的な甘さがあることを私は決して否定しません。ですがそうであったとしても、例えば情への厚さ、責任感、前向きさ、信念、思いやり、そうしたプリミティブ(根源的)な、そしてある意味愚直ともいえる純粋さ、そうしたものが良循環して、みんなが互いを想い、笑い合っていられること。それらは人として生きていく上でとても大切なものであり、そして海鳴市に根付いていた彼らの生き様は、「現実世界で100%同じことをするのは絶対無理だけど、それでも私も頑張ってこんなふうに生きていきたい」と思わせてくれるものでした。端的に言えば、このゲームで私が最も共感したのはキャラクターでもストーリー展開でもなく、彼らの生き方、『スタイル』だった、ということです。
ギャルゲーやXゲーに対して求めるものは人それぞれ違うはずなので一義的な良し悪しは当然のことながら決められないのですが、「私にとって」ということでこのゲームを総括すれば、単にプレイヤーを夢に取り込んで堕落させるようなキャラ萌えゲームとは全く違い、現実世界でもこういうふうにありたい、こんなふうに生きたい、頑張るぞー、と思わせてくれた作品。それがとらいあんぐるハートでした。この作品の持つ愚直なまでの前向きさ、それは私の心にストレートに非常に強く響きました。
確かにゲーム作品として完璧無比な出来とは程遠いシリーズ作品であり、それゆえに万人にお薦めできるゲームではありませんでしたが、その中にあった輝きは決してどのゲームにも劣らぬ、私の中でも間違いなく殿堂入り作品の一つとして数えられるものでした。このような素晴らしい作品を世に送り出したivoryと制作スタッフの方々に敬意と感謝を。そしてまた再び、素晴らしい作品に出会えることに期待しつつ、このゲームインプレッションを締め括りたいと思います。
※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)