Original Created 2003/02/11
Last Update 2003/03/05
このページは、ネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。また、直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。
今回はゲームインプレッションといいつつ、どうも真面目に書く気が起こらないので、簡単に自分流にメモ書きするにとどめたいと思います。きちんと書こうとするとこの数倍程度ではすまないような気もしますし……。(汗) というわけでかなりの駄文になっていますが、よろしければどうぞ。
本作への自分の感想を一言でまとめるのなら、味気ない作品だった、と思う。物足りないのではなく、味気がない、という表現が合う作品のように私には思えた。ケロQの以前の作品、終ノ空や二重影は荒削りながらも全体を一つのポイント、一つのテーマに収束させていく力強さがあり、その力強さが私にとってのケロQの作品の醍醐味であり、魅力であった。本作にはその力強さがなく、良くも悪くも平凡な作品だったと思えてしまうのだ。
『私が』理解するケロQとは、という前提で語るのであれば、ケロQのテーマは第一作目から一貫して変わらず、共同幻想とも言える価値観を問い、それを描出するところにあると考えている。それは本作も変わらず、特に冬葉のシナリオには極めて色濃く出ていることは間違いない(冬葉シナリオについては別記)。モエかんという作品全体も、全体的に泣き演出の傾向が強いとはいえ、涙を流すという価値観そのものを共有するというところに意味を持たせていると言ってもよいだろう。そのことは理解できるし、また実際にある程度成功していることは各所で好評を受けているところからして間違いないだろう。
しかし半面、私が問題視したいのは、作り手とプレイヤーとの間で共有されている価値観の実体が何なのか、という点でもある。ボクのこと忘れてくださいと健気なことを言い出すリニア、次第に存在が消滅していく鈴希、封印された過去の記憶を少しずつ取り戻していく貴広、などなど。今や泣きを誘うモノとしてはあまりにも当たり前で陳腐化した設定・シナリオ展開・演出のオンパレードである。いや、別に陳腐化していてオリジナリティがないこと自体が悪いのではない。価値観の共有を問いながら、実際に共有しているのは感情的なモノ、すなわち『中身』や『テーマ』ではなく作品の表層的な『フォーマット』になってしまっているという点が問題だと思うのだ。
さらにもう一点問題視したいのは、作品を裏から支えているものが『謎』であって『深い考察』ではない(ように見える)という点である。例えばEver 17は作品のラストで全ての謎を解き明かし、その上に成立するものを描き出した。謎が多いといわれるAIRでさえも作品を詳細に読めば作品解釈に必要な謎はほとんど解けるようになっている。逆に例えばエヴァンゲリオンや二重影では解き明かされなかった謎は多かったが、それらはしょせんギミックであって作品の本流ではなく、作品の本流にかかわる部分の謎は(エヴァのTV版ですらも)十分に描かれていた。ところが本作品の場合、大枠としての物語やバックボーンとなる世界観や設定にも相当量のテーマ性(下手をすると本編をも上回るテーマ性)が含まれているのにもかかわらず、それを解き明かすだけの十分な情報が作品中で開示されていない。結果としてそうした背後の世界観に対するユーザ側の考察は空振りとなり、表層の部分に対する考察に留まらざるを得ない。これでは仮に舞台設定に深い意味を持たせていたとしても作り手の自己満足と評されてもやむを得まい。商業的な理由があったことはまず間違いなかろうが、ユーザの考察(※解釈ではない)そのものが空振りにならないよう、作品のテーマ性に繋がり得る設定部分ぐらいは少なくとも開示すべきだったのではないか。
私が感じた味気なさはこのポイントに集約される。つまり、(冬葉シナリオを除けば)作品の表層的なフォーマット以外の部分(例えば深い洞察など)で共有(共感)できるものがなかった、ということなのだ。演出やストーリー展開に刹那的に涙することは出来るかもしれないが、テーマや思想、価値観として忘れがたい共有感を味わうことはできなかった。終ノ空や二重影にはそれがあったのにもかかわらず、だ。そしてまたそれは、私自身がこの作品に対して本気で考察する気になれない理由でもある。考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しくなるというのもなかなかに空しい。
作品としてすべてがNGであるとは言わない。実際、終ノ空や二重影の荒っぽさが50点だとすると、それが70点程度にまで改善された、なかなかに凝ったよく出来た作品ではある(シナリオ間の整合性や放置要素、細かいところでは誤字脱字や意味が不明確な文など、まだまだ解決すべき問題点は多量にあるとはいえ)。そういう意味で及第点は越えてはいるのだが、あの荒削りな中にあった力強さによる加点要素が限りなく0になったしまった作品、それが本作であるように思える。良くも悪くも普通のメーカーになってしまった、私にはそう思えるのだが、皆さんにとっては果たしてどうだっただろうか。
ほとんどのシナリオは(背後設定を除けば)意味的な部分で読み取ることが難しいものはないと思われたが、冬葉シナリオだけはその展開の美しさに見惚れてしまった。
そのシナリオ展開をすべて整理するのは大変なので、ここではこのシナリオを読み解くカギとなる「星の銀貨」について簡単に整理してみたい。このグリム童話で問い詰めているのは「モノの価値」であり、誤解を恐れずに一言で言うなら、「物の価値は一般化できず、それが『その人の』心の中に作り出す価値によって決まる」ということを雄弁に語っている。
このシナリオに出てくる「星の銀貨」は4つある。@ 原典、A 貴広による別説、B 原典の再解釈、C 最終的な別説、である。@の意味・問題点を見落としているとこのシナリオの展開はピンとこないかもしれないので、それも含めて整理したい。
原典はこのシナリオの最後に出てくる通り、落ちてくる星が銀貨になってお金持ちになってハッピーエンドとなるものである。しかしこれは冷静に考えると、お金持ち=ハッピーエンドというのは我々が俗世的な物の見方で考えるからこそハッピーエンドなのであって、そもそも少女の優しい心が結果的にお金という俗世的なものに置き換わってしまうのは少女に対して失礼な話。少女が本心で求めていたものはお金ではなかったはずである。
この別説では、銀貨という俗世的なものが俗世的な悪意に騙されて服とパンというまるで不釣合いな物品に取り替えられてしまう。しかし『彼女にとって』は銀貨よりも服とパンの方がずっと価値のあるものだった、というところが重要。再び彼女は騙されてしまうかもしれないが、その一日を心温かく過ごせる服とパンの方が価値のあるものだった。
この別説は原典にある俗世的な『物の価値』に対する見方を一蹴し、物の価値はその物がその人の心の中に作り出す価値なのだという視点を示している。
ところがAの観点からすると、実は@の原典についても同じ話が当てはまる。つまり、@の原典は確かに俗世的な退屈でつまらない話なのかもしれない。しかし『冬葉にとって』、すなわち世の中の辛さを知った人から見ると、それでもその物語の持つ、優しさや暖かさは素晴らしい宝物にもなる。
童話の価値は、俗世的な物の価値の見方で一般化して捉えるべきものではない。童話の価値はその物語を読んだ本人の心の中に作り出される価値によって決まる。そう考えると、この原典は(そのままの形であっても)美しい世界を願う『冬葉にとって』は最高の物語なのだ、ということを示している。
そしてまたこの物語全体が、Aの星の銀貨を模したストーリーになっている。
つまり俗世的な価値観からすれば、飯島の言うように、貴広が中央情報管理局から取ってきた本など実に価値のないつまらないものなのだが、その童話本(=銀貨)は冬葉にとっては価値のあるもの。しかし冬葉にとって本当に価値のあったものは本そのものではなく、貴広が冬葉のために取ってきてくれたという「行動」もひっくるめたところにあり、それが冬葉に心を取り戻し、一生を通しても使い切れないような幸福を与えることになった。そしてそれが、冬葉が再び、決して届かないあの場所(=美しい世界)へ向かって歩き出すきっかけを与えている。
簡単に言えば、価値はモノそのものではなく行動や行為にあり、そしてそれが人の心の中に作り出すモノこそが重要なのだということ、それをグリム童話という物語内のエピソードと物語全体によって表現とするという二重構造のシナリオになっている。
この作品では明かされている設定が少なすぎるため、これだけの情報から正しい作品設定を読み取ることは到底できないが、私なりに勝手な妄想を展開してみたい。間違っている可能性は極めて大だが、この妄想や、今後少しずつ明かされていくであろう設定情報を元にして適切な解釈が現れることを期待したい。
NURSERY CRYMEは五行の相生相剋の思想がベースになっている。これは簡単に言うと、世の中は土、金、水、木、火の5つの要素からなっており、これらの要素が互いに生成・破壊を繰り返していくことにより万物が生々流転していくとする考えである。始めに水気が存在し、これを起点として5つの要素が生成・消滅することにより現在の世界が創られた、という思想である。NURSERY CRYMEの例に当てはめると下図のようになる。
ここで、赤い線は相手を消滅させることが可能な能力を、水色の線は相手を生成させることが可能な能力を表す(詳細は五行について紹介しているページを参照)。この構図は本編中でもいくつか出てきており、例えば貴広と極東が争ったときには極東は貴広のNURSERY CRYMEとしての能力を消滅させており、また霧島ルートでは極東との闘いで瀕死となった貴広を霧島の能力の一部を持っている香織が抱くことにより貴広を復活させている。
本編中には木気、火気のNURSERY CRYMEが現れていないが、このうち木気のNURSERY CRYMEは存在しないらしい(OfficialネタバレBBSより)。ここで火気もまた存在しないと仮定すると、現在の状態は下の図のようになる。
この図から言えることは、極東日没が極端な力を付けて貴広を撃破している現状はいわば一種の硬直状態であるということ、そしてこれを打破するためには貴広が木気のNURSERY CRYMEの宿主を見つけ出し、これを覚醒し、木気のNURSERY CRYMEが極東日没を打破しなければならない、ということである。(なお極東日没が執拗なまでに霧島香織を追いかけたのも、幼生体である霧島を覚醒させるためと解釈できなくもないが、この点については霧島差異と香織の関係が不明確であり、良く分からない。)
おそらくここまでは異論がないところと思われるが、問題はこの状況に対して萌えっ娘カンパニーが何を企んでいたかである。単純に木気のNURSERY CRYMEを覚醒させて極東日没を倒すのではNURSERY CRYMEの相生相剋連鎖を断ち切ることができない。隷(RAY0001)を使ったN計画とは何か、そこにカギがあると考えられる。
もともと萌えっ娘カンパニーは、人工的に幸せを作り出す最高の社会システムを目指している節がある。そう考えると、極端な力を持つNURSERY CRYMEのゆらぎはむしろ世界を危機に陥れる不安要素であり排除しなければならないのだが、相生相剋連鎖を断ち切らない限り、NURSERY CRYMEは際限なく生成と破壊を繰り返すことになってしまう。単純に考えるとこのサイクルを断ち切る方法は3つある。すべての5要素を完全に抹消して無に帰するか、本来の相生・相剋の矢印を逆転させるか、もしくは相生相剋サイクルそのものを消滅させるのではなく、安定化させる。しかし一つ目は世界を無に帰することだからNG、二つ目は世界の論理の書き換えに相当するのでNG。では3つ目だったらどうか。
モエかん社長の田中太郎(おそらく金気のNURSERY CRYMEである霧島差異)は2004年のACカンパニー設立とほぼ同時に庵原博士を筑波に招き入れ、心を持ったアンドロイドの研究をさせている。これはNURSERY CRYMEの力(世界の五要素)を宿す主体を人間ではなくアンドロイドとすることで、LABにとって管理しやすい形とし、NURSERY CRYMEの力の宿主が相生相剋連鎖から逃れるためではないかと考えられる。霧島差異が死ぬと次の金気のNURSERY CRYMEの宿主は現在幼生体である香織となるだろうが、霧島差異はこれを防ぐことを狙ったのかもしれない。
「朱キ日」でモエかんは隷を使って極東日没と神崎貴広を衝突させているが、これは貴広を消滅させて隷(RAY0001)を水気のNURSERY CRYMEの能力の転移先にするためだったのではないか。ところが、実際には隷が最後の土壇場で貴広を救ってしまい、NURSERY CRYMEの能力こそ無くなるものの貴広自身は助かってしまう。しかし貴広のNURSERY CRYMEの力が中途半端に戻ることは、隷への能力転移、あるいは再び極東日没に潰されかねないという点からして問題である。そこでモエかんは貴広を霧島香織に管理させる形で萌えっ娘島へと島流しにしたのではないか。
一方、心を持つアンドロイドの成功体である隷はLAB内にて霧島差異によって漆黒の力(水気のNURSERY CRYMEの力)を与えられることになるが、この実験がうまくいけば、NURSERY CRYMEの5つの力をLAB内で管理することができ、その生成・破壊サイクルを安定状態に保つことができる。これにより、世界の安定、完全な社会システムを目指したのではないだろうか。
……うーん、書いててかなり無理があるなぁ。やっぱり情報が少ないとこの程度が限界かも。(^^;) ま、たわごとってことで。
発売から一ヶ月が経ち、そろそろモエかんのレビューが出揃ってきた感があるが、それらを読んでみてから自分のインプレを読み返してみると言葉が足りなかった感もあるので、若干ここで補足をしておきたい。
前段の総評で書いた通り、私はこの作品を「味気ない」(※1)と感じたのだが、その原因は私がこの作品から「オレはこれが正しい、大切だと思う」という一貫した明確な主張を感じ取ることができなかったためである。これは読み手としての私の能力不足にも原因があると思われるので必ずしも作品が不出来であるとは断言できないし、10年後にこの作品を振り返ったときにもしかしたら真実を見出せるのかもしれないが、『現時点での』私の読解力の範囲でこの作品をまとめておいてみたい。
この作品の中には様々な場所に哲学的な要素を垣間見ることができる。代表的な例としては貴広と霧島が酒を交し合う中で出てくる会話や、リニアと貴広が語り合う黒い夜空の話、あるいは冬葉シナリオのカニ鍋のエピソードなどがある。敢えてこれらの要素を話中に差し込んだ真意については図りかねる部分もあるが、これらが語らんとしていることは(ケロQが一貫して取り扱っているテーマである)価値観とその共有に関する問題であろう。簡単に書けば、「価値観は人それぞれに違っているけど、だから無意味だという結論は短絡的だ。共有できる部分は必ずあるし、自分がどの価値観を大切だと思うか(=信念)が大切だ。」ということだ。
これらのミニエピソードを通して語られる、価値観についての考え(見解)については私も同感だし何の異論もない。しかしこれらのミニエピソードはあくまで『客観的事実としての』価値観に関する見解を述べているに過ぎず、「『どんな』ものに価値を見出すのか」についてはほとんど何も述べていない。
もうちょっと分かりやすく書くと、「価値観は人それぞれに多少は違っているけど、共有できる部分があるからこそ美しいのだ」というのは事実としてはよく分かるし全く同感だ。しかし、「どんなものが共有できる価値観なのか」についてはこれでは何も語れていない。二重影や終ノ空は『生きる』ということにすべての要素や価値観が収束していったが、そういう収束点(=作品としてのメッセージ、作り手の見解や信念)をこの作品からは感じ取れないのだ(※2)。
もちろん、見方を変えれば次のような考え方も出来るかもしれない。この作品の場合、二重影や終ノ空のような極限状態を描いている作品ではないので「共有できる価値観」を一つの明確化したメッセージに絞り込むことが難しい。そこで家族計画のように様々な「断片」を描出していくことにより、明確な形のない、掴み所のない「共有価値観」を描出しようとしたのだ……そんなふうに考えることもできるかもしれない。実際、作品のタイトルはそれに近い。つまり、「ボクが大切だと思うものをてんこ盛りにした作品」=「萌えの缶詰め」=「モエかん」、というわけである。だがもしそうなら、なぜこの作品を敢えて借り物の集合体のような形で作り上げたのか、という点が疑問になる。どこかで見たような設定、どこかで見たようなストーリー展開、どこかで見たようなセリフ回し。これでは「借り物」(=典型的な萌えのフォーマット)を文献として寄せ集めて「自分たちはこういうのが大切だと思う、みんなもそう思うよね」と言っているだけに過ぎないのではないだろうか(※3)。
しかしそれは現代の物語に対する現状認識(あるいは現状確認)の物語ではあっても、現状を打破する物語にはならないし、現状認識の物語であれば元長氏の作品群の方がよほど面白いだろうし、逆に萌えを狙った作品だとするのならシスプリ RePure であるとか Key の作品群の方が五歩も六歩も先を行っている。どれにしても中途半端。ケロQさんのスタッフ陣のコメント類を読む限り、路線は変えたが作品としてのコアは変えていないということらしいのだが、モエかんの路線で同じテーマを取り扱った作品など山ほどある状況の中でケロQさんがどの辺にポジショニングされるのかを考えるとかなりお寒い状況なのではないか、と思うのだ。実際、発売から一ヶ月、すでに多くの人の心は SNOW やマブラヴに移ってしまっている……その程度の作品だったということなのではないか。
会社の判断として狭いニッチ路線で Only 1, No 1 を目指すのではなくパイの広い大海原に出ていこうという考え方であったのならそれは正しいだろうと思うのだが、それは同時にニッチ路線では許されていた甘さが許容されなくなる、ということでもある。実際、Web 上のレビュー類を見ていても、各論として要素を誉めているものはあっても総体として全体の構成などをきちんと誉めているものはほとんどないように思える。加えてケロQさん自身の本作品の売り方も敢えて NURSERY CRYME まわりの設定を隠蔽してビジュアルファンブックやファンディスクに引っ張るといったことをしているが、これは本当の一流作品の売り方ではないだろう。
果たしてケロQさんというメーカが今後どうなるのかは分からないが、SCA-自氏を初めとするケロQスタッフ陣は「彼らにしか書けない」モノを作り出せる力を持っていたハズであり、この程度のところで普通のメーカに埋もれてしまって泣かず飛ばずのメーカになどなって欲しくない。そう思うだけに、彼らの次回作には不安と同時に期待も寄せたいところなのだが、果たしてどうなのだろうか……そう思わずにはいられない作品だった。
(補足)
※1
「味気ない」というのは作品の良し悪しとは別次元の話。前作・前々作からの流れでケロQに私が求めていた味わいが感じられなかった、という意味だが、そもそも私が求めていたものそのものが勘違いの可能性も当然ある。
※2
収束点がない(=明確なテーマ性が存在しない)作品が駄作であると主張するつもりは毛頭ないが、前作・前々作の最大の魅力を大きく失っていることはやはり残念である。このように書くと「終ノ空や二重影と同じモノを求めるな!」と怒られそうであるが、では単独の物語としてこのモエかんを評価するとどうかというと、「その辺のよくある凡作」のレベルを超えていないと私は思う(←という話を※2以降に書いている)。
※3
この点に着目しているのかどうかは分からないが、この作品はパロディ作品であると判断しているレビューも散見される。借り物作品であるという指摘は正しいと思うのだが、メタものとしての見解や深みはここにはなく、二次創作的な作られ方に留まっている。かといって後述するように二次創作作品として見た場合にたいした出来というわけでもない。果たしてクリエイターの実力として見た場合にはどうか。
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