ゲームスタート時の朋也が直面していたもの、それはまさしく「世界の理不尽」、すなわち現実世界と人生の厳しさに他ならないものだったと思います。幼くして母を亡くし、それでもバスケ部のキャプテンとして順風満帆の学校生活を送っていた矢先に、父親とのささいなことから始まったケンカで右肩を負傷。進学校という特殊な環境下で、その依りどころとなる実力を失い、しかも厳しい家庭環境に置かれた朋也に対して、周囲の眼は決して優しいものではなかったはずです。
こうした現実世界と人生の厳しさ、困難、理不尽に直面し、どうにも行き場や居場所を失った場合、それに対する反応は、子供の場合と大人の場合とで異なるように思います。
まず、子供の場合は「荒れる」。智代は、自らの中学時代を振り返ってこう語りました。
「荒れることに理由なんてない。だが、荒れないことには理由がある。
思春期の人間は、理由がなければ、誰でも荒れるんだ。そんなものだと思う。違うか?」有紀寧ルートで描かれた不良たちにしろ、智代ルートで描かれた中学時代にしろ、彼らは皆、自分の居場所や行き場を失い、そして荒んでいきました。有紀寧ルートで描かれた他校の不良たちはあまりにもお行儀が良すぎる感もあったとはいえ、居場所を失った不安定な思春期の人間が荒れやすいというのは、確かにその通りなのではないでしょうか?
その一方で、大人の場合は「諦める」。正確には「諦観を以って受け入れる」と表現すべきなのかもしれませんが、理不尽なことも「仕方のないこと」として諦めてしまう。その典型例が、朋也の父である直幸だったように思います。
またかつては陽平と共に荒れていた朋也も、歳を取るにつれ疲れていき、高校 3 年生のゲーム開始時点では無気力や怠惰感の塊となり、諦観に近いものを抱いていたように思います。
しかし、荒れたところで世の中の理不尽がなくなるわけでもなく、諦めたところで零れ落ちる奇跡によって問題が解決するわけでもないと思います。実際この作品中でも、事態を好転させるきっかけを与えるのは、やはりあくまで当人の本気の覚悟と努力だとして作品が描かれていると思います。
例えば、中学生時代に荒れまくっていた智代が変わったのは、弟の身を呈した訴えかけにより、自らが、家族を繋ぎとめるために頑張ろうと決意を固めたからでした。その結果、智代は前向きに生きられるようになり、良循環のサイクルの中に身を置く事ができるようになっていきました。
あるいは After Story の朋也もまた、自らがぬるま湯の生活を脱することを心に決め、就職し、仕事で一生懸命頑張っていくことにより、ついには現場監督の話をもらうというところに至っていきます。それらは決して、当人の覚悟と努力なくしては至ることのなかった場所だったはずです。
俺は照れたように、顔を伏せた。
どんな顔をしていいかわからなかったのだ。
褒められたことが…認められたことが、純粋に嬉しかった。
俺がそんな人間に成長してたなんて…
あんなに、人間付き合いを拒絶し続けてた学生時代の俺から…
こんなにも、変わっていけるんだ、人は。
しかし、実際に人間が覚悟を決めて変化し、物事を好転させていこうとすることは、現実的にはとてつもなく難しいことだと思います。自らの内面的な心の問題、あるいは外部的な環境の問題など、変化を阻む壁は至るところに存在します。
一般的に、人間(特に男性)は変化することを好まない、保守的になりがちな生き物であると言われます。変化というのは、どんなに頭でそれがよいと分かっていてもなかなか難しいことであり、ましてやそれが怠惰や惰性といった悪しき習慣であればなおさら難しいことだと思います。
例えば智代は、朋也を少しでも変えようと、押しかけ妻のようにあれこれとおせっかいを焼きました。しかしそれにもかかわらず、朋也は自らの慣性と惰性を最後まで打ち破ることができませんでした。(これを単純に朋也がヘタレだと言ってしまうのは簡単ですが、必ずしもそうは言えない側面があります。詳しくは後述します。)
また変化には、往々にして恐れや未練がつきまとってくるものだと思います。
例えばことみの場合、彼女は杏や椋といった大切な友達を得ることによって、図書室の外に出て友達を作っていくことを一度は心に決めました。ところがバスの横転事故を見て、大切なものを失うことへの恐れを思い出してしまい、それによって、彼女は自ら変化しようとしていた心を閉ざし、再び自宅に篭ってしまうことになりました。
あるいは美佐枝は、告白の直後に突然いなくなった志麻に対する未練をいつまでも断ち切ることができず、寮母として未だこの学園に残り続けていました。美佐江の場合、志麻が決して帰ってくることがなとということは、当の昔に頭では理解していると思うのです。にもかかわらず、その心は未練に縛られたまま、変化できずにいるのではないでしょうか?
あるいは当人の心の問題がなくとも、外部的な環境の問題によって、変化しようという前向きな努力そのものが潰されてしまうこともあると思います。
After Story の朋也の場合、左肩のハンデキャップを背負いながらも努力を続け、六畳一間の同棲生活にも違和感がなくなり、さらに祐介からも認められて転職話が転がり込んできた矢先に直幸が犯罪を犯して逮捕され、すべてが水泡と化してしまいました。せっかく自らの努力で掴みかけた幸せが、理不尽としか言いようのない形で奪われ去っていってしまいました。
このように、CLANNAD では、変わろうと思っても変われない、その難しさが様々な形で描かれていたように思います。せっかく、覚悟を決めて努力して変化を掴みかけても、そうした困難や理不尽に直面し、再び行き先を失ってしまう。それは苦しみのループのようにも思えます。
しかし CLANNAD 前半部の各キャラ個別ルートでは、その苦しみのループが「人のつながりや思いやり」によって支えられ、解消されていっています(※ 後半部の After Story ではこの点がかなり異なるのですが、詳細は第 5 章で検討します)。ここでは 3 つほど例を取り上げて、彼らがどのように変化に苦しみ、そしてそれがどのように解消されていったのかを考えていってみたいと思います。
智代ルートは、杏ルートと並んで朋也のヘタレっぷりが目に付くルートですが、ストーリーの本質は、失恋の痛みを通して二人がそれぞれに自分の意志(気持ち)を固めるところにあったのではないでしょうか?
もともと朋也と智代が惹かれ合ったのは、二人が本質的な部分での同質性を持っていたからだと思います。シナリオ中では、こんなセリフが語られていました。
同じ目。似た者同士の目。
こんな学校で出会えた、仲間だ。智代はその類稀なる実力と私欲を持たない性格によって、次々と周囲の人望を集めていくわけですが、右肩を負傷する以前の、キャプテンを務めていたころの朋也もまた、それと同じ素質を持っていたはずです。常に飾らず自分に素直で、ありのままの自分を持ち、意志なく安易に周囲に迎合することが決してない。進学校というある特定の価値観が絶対的な是とされやすい特異な環境下において、二人は初めて出会った仲間であり、出会った二人がどんどん惹かれあっていくというのも自然な流れだと思うのです。
しかしこの二人の決定的な違いは、何かをやろうとする前向きな意志を持っているか否かという点にあると思います。かつて荒れ果てていた智代は、そのどん底で弟を失いかけました。
「弟は、自分の体を張って、家族を繋ぎ止めたんだ。
何もない…どんな愛情も優しさもない……名ばかりの、家族を。
でも、効果は覿面だった…
そうなって、ようやく気づけたんだからな…
弟が…家族のひとりが、死ぬ、という危機に直面してだ…
みんな、失わないと気づかないんだ…
なんて、馬鹿だったんだろう
弟はそのことに気づいてたんだ…
あんな家庭の中で、ひとりだけな…」この危機に直面して、初めて自分の意志で家族を繋ぎとめるために頑張ろうと決めるわけですが、その後の彼女は、頑張ってみると物事が好転すること、きちんとしてみるとそれもまた意外に面白いことを知り、物事の良循環サイクルの中に身を置くようになったのではないでしょうか。
「本当におまえたちは子供のようだな」
それを見ながら、智代が笑う。
「けど、規則正しくやったとしても、ちゃんと楽しいことはあると思うぞ、私は」智代がいつでも眩しいほどに前向きに努力を続けるのは、彼女は事態を好転させるきっかけが自分の努力にあり、それによって回っていく良循環サイクルの持つ面白さを身に染みてよく知っているからではないでしょうか?
これに対して、朋也は智代のような手痛い経験をしたことがなく、無気力と惰性の中に生きてきました。朋也と付き合うようになった智代は、押しかけ妻のように朋也の世話をひたすら焼くことになりますが、その理由は、朋也の姿がかつての自分に重なること、そして朋也に自分が知っている良循環サイクルの持つ気持ちよさや面白さを、一緒に経験してもらいたいからだったと思うのです。
しかし、長年身についた怠け癖はそう簡単に治るものでもなく、桜並木を守るために生徒会長を目指し、周囲の悪評をすべて実力と実績で塗り替えていく智代との極端な差は、埋めることも耐えることもできないものへと広がっていきます。それでもなお朋也を求め続ける智代に対して、朋也はそのアンバランスと周囲からの非難に堪え切れなくなり、ついには自分の気持ちを恋ではないと偽り、智代に別れ話を切り出しました。
ふと、学校すべてを敵に回している気がした。
皆が、智代を立てようとしている。
俺はその足にしがみつく、疫病神だった。
智代は、俺に手を伸ばして引き上げようとしている。
けど、俺は疫病神であって、それ以外の何者にもなれないのだ。「なぁ、朋也…私はおまえのことが好きなんだ。一緒に居たいんだ…」
「ああ…俺も、一緒に居たい。
でもな、智代…俺の思いは…恋じゃなかったんだ。
どこまでも勝手な奴だったんだよ。ずっと気づいていたのにな…」
「………」
「もう一度言うぞ…」
「………」
「…別れよう」
その言葉に…唇を噛んだままで…そっと、智代は頷いた。当人が頑張れば済む事なのかもしれないのに、自らの怠惰から最後まで脱することができず、朋也は奇麗ごとを重ね続け、変化を拒みました。そして智代を失ってみて初めて、朋也は自分の心への偽りと、その諸悪の根元に気付いたのではないでしょうか?
でも、俺はもう、見送るだけだった。
じっと見上げていた。
この場所から。三年前から、ずっと居た場所から。
そして、ひとりになってしまった今…俺の思いは、恋だったのだと気づいた。
俺は、智代のことが…好きだった。
しかしもはや時すでに遅く、彼は再び堕落した日々へと落ちていくことになります。
この一連の流れでの朋也のヘタレっぷりは、確かにプレイヤーの立場から見ていると目に余るものがありました。しかし私には、この失恋の痛みと空虚感に叩きのめされ続ける八ヶ月間にこそ、この物語の本質があるように思います。
先に書いたように、一般論として、人間(特に男性)は変化に対して消極的で、保守的な側面を持っています。智代と別れて一週間で元の怠惰な生活に戻ったという描写が象徴するように、朋也のように数年間に渡って身に染み付いたヘタレ癖はそんなに簡単に矯正できるものではないと思うのです。
ストーリーの中盤で智代は何度も朋也をそのどん底から引き上げようとしますが、それにもかかわらず変わることのできなかった朋也。それはかつての智代の昔の姿に重なります。必死に家族を繋ぎ止めようとする弟の懸命な努力があっても、智代も両親も決して変われなかった。智代たちが変わったきっかけを与えたのは、弟の身を呈した事故。たまたま弟は一命を取り留めましたが、それぐらいの手痛い思いをしなければ、荒れた人間が変わっていくことはできない、ということだったのではないでしょうか? 失ってみて初めて気付けるもの、手痛い思いをして初めて理解できるものもあると思うのです。
致命的な失恋という痛手を経験し、喪失感に長期間苦しみ続けたからこそ、智代との再会という、奇跡のように与えられたチャンスで、初めて朋也はその後悔の念を新たな決意の念に変えていくことができたのだと思うのです。そういう意味では、中途半端に智代に引っ張り上げてもらうよりも、遥かに説得力のあるストーリー展開だったように私には思えます。物語の最後で語られる朋也のセリフには、ようやく自らが掴み取った、本気の覚悟がうかがえるように思うのです。
「智代…おまえは、いつだって、先輩面な…
俺にも努力させてくれ…」
「なにを言っているんだ…おまえは、これから努力するんだろ?
春になれば、毎日油にまみれて、働くんだろ?
私は、そばにいて応援するぐらいしかできないからな…」
「すんげぇ、尻に敷かれてそうだ」
「そんなことはしない。全部おまえが決めるんだからな」
「………」
「さぁ、決めてくれ…朋也」
目の前には、俺のことを好きな女の子が立っている。
これから、一緒に居続けてくれるという。
「ああ……よろしく」
その手を取った。そして、そのまま抱き寄せた。ここでの智代もまた、朋也から唯一残された言葉である「智代、たくさんの期待に応えろ」にしがみ付くようにさらに次々と栄光を掴んでいくものの、その先には本当に欲しいものがなかったことに気付き、だからこそ再び朋也のところに戻ってきたのではないでしょうか?
この八ヶ月間は、智代の言うように「失われた八ヶ月間」ではなく、智代から見た場合には、ひたすらに努力を続けてみて、やはり何よりも欲しいものが朋也であったことに気付くために、また朋也から見た場合には、自らが変わっていく意志を持てるようになるために必要な時間だったと思います。そしてその『空白のつながりのない期間』が、逆説的に人のつながりと思いというものを強く意識させることに繋がっていったのではないでしょうか?
智代ルートは普通の恋愛ドラマとしての色合いが濃く、その物語は二人が寄り添い、より強くあるために支えあうようになるところで終わっており、その先にあるだろう、現実の理不尽による『挫折』までは描かれませんでした。そういう意味では、「ここからが本番」というところで終わってしまっている物語だとも言えるのですが、しかし強く支えあうことを知ったこの二人であれば、どんな障壁や理不尽すらもきっと乗り越えていくだろう……敢えてその姿を物語として描かずとも、私には十分にそんなふうに感じられました。
ことみルートは個人的には一番のお気に入りシナリオで、一言で言えば、
「世界は美しい。」
だけで終わってしまうような気もしますが(^^;)、細かく見ていくと、ぬいぐるみの奇跡というだけでは収まり切らない、とても美しい物語だったように私には思えます。まずは、ことみの決めゼリフ(?)である、
「今日もご本に囲まれて、しあわせ。」
というところから見ていくことにしたいと思います。
ことみにとって、図書館に入り浸って本を読み、ただひたすら勉強を続けること。それは彼女の唯一の楽しみであると同時に、偉大な両親像に囚われ続ける彼女の贖罪行為でもあったことがシナリオ後半で明かされました。幼いことみが父と母の虚像を追い求めるために始めた新聞の切り抜きと勉強。しかし徐々に両親の研究内容の輪郭が見えてくるにつれ、両親の偉大さと、二人が作り上げようとしていた「超統一理論」が、世界の人たちにとってどれほどの価値を持つものなのか、そしてそれがどれほど難しいものなのかを理解するようになっていきました。
「でも…お父さんとお母さんの研究のことが、やっとわかるようになってきたの。
お父さんとお母さんは、この世界の成り立ちそのものを、
いちばんきれいな言葉で表わそうとしていた。
二人でいっしょに、一生をかけて見つけようとした言葉。
それはきっと、とっても大切なこと。世界中の人に、伝えなければいけないこと。
お父さんとお母さんにしか、できなかったこと。
それはきっと、だれにも真似することができなくて…
きっと、私にも真似することができなくて…
でも、私がそれをしなければ…かみさまは私を、ゆるしてくれないから。」自分では辿り付けないと分かりつつも、それでも自分がしなければきっと神様は許してくれないと思っていることみ。図書館に入り浸ってひたすらに続けられる読書と勉強は、彼女にとっての全世界の人々に対する贖罪行為なのではないでしょうか?
確かに、ストーリー前半においてことみが入り浸る「図書館」、あるいは彼女が読み漁る「本」というものは、『固定された世界』、すなわち傷つくことも失うこともない世界の暗喩であり、それは幼少期のことみにとっての『暖かい自宅の中』と同じ位置付けにあるものなのでしょう。ですが、別にことみは対人関係への「恐れ」、あるいはそこからの「逃避行為」のために図書館に閉じ篭もっているわけではないと思います。友達を作ることの楽しさを理解していないだけであり、後にことみの先生が言うように、ひとりでいることに慣れてしまっているだけの話なのだと思うのです。
「ずっと昔に、一ノ瀬さんのご家族のことが新聞やテレビでさかんに取りあげられた時期があるの。
一ノ瀬さんは注目されたし、そのせいで苛められもした…
だから、一ノ瀬さんのことを知っている大人はね、みんなこう思ってきたの。
できるだけ、そっとしておいてあげたいって。
でも、そのせいで一ノ瀬さんは、ひとりでいることに慣れてしまった。
それは、私たちが間違っていたせいでもある
だから、誰かが一ノ瀬さんを変えてあげなければいけないの。」そんなことみに転機が訪れたのは、朋也との再会でした。かつての唯一の友達であった朋也との関わり。そしてその友達の輪が杏や椋、渚たちに広がっていくにつれ、彼女は友達の温かさを知り、『外の世界』(=閉じ篭もりきりの世界ではなく、他人とのつながりを持つ世界)への憧れを抱くようになり、そしてついには図書館の外に出ていくことを心に決めていくことになっていったのだと思います。
「私、決めたの。ここにはできるだけ、来ないようにするの。
今は、ここにいても、前みたいに楽しくないから。
みんなといる方が、楽しいから。朋也くんといる方が、楽しいから。
だから私、みんなと一緒になるの。
ちゃんと授業を受けて、先生の言うことをきちんと聞いて、クラスのみんなとも仲良くなって…
ほんとはそうしなきゃいけないって、ずっと前からわかってたの。」
俺に言っているのではなかった。
逆光の中、遺跡のように立ち並ぶ書棚。
今までことみを見守ってきた、何万冊という本の背表紙。
ことみの声に耳を澄ましていた。
最後にことみは、ぺこりとお辞儀をした。
「朋也くん、帰ろ。」そうやって一度は外に出ることを心に決めたことみですが、そんな彼女を襲ったのが、直後に起こったバスの横転事故でした。外の世界とのつながりを持つことで出来た友達を失うことは、ことみにとって、かつての両親の喪失の悲劇を再現することに他なりません。その喪失に対する恐怖心が、彼女を再び贖罪行為へと駆り立て、海外留学して勉強に打ち込もうと決めることに繋がっていったのではないでしょうか?
しかしこの行為は、もはや両親に対する贖罪行為というよりも、恐怖からの逃避行為と言った方が適切なものかもしれません。ことみは自ら関係を断ち、自宅の書斎(=両親の残像)に閉じ篭もり、自分を縛り付ける過去に必死にすがり、手に入れた幸せから逃げ出そうとしました。
ことみはもう、何も言わなかった。
どんなに難しい勉強ができても、どんなにたくさん本を読んでも。
外が恐いと泣いている、ちいさな子供のままだった。
大切なものを燃やしてしまって、途方に暮れる女の子のままだった。
隣に座ってやれば、よかったのかもしれない。
俺もここにいてやるからと、言えばよかったのかもしれない。
幼い頃のことみが、俺にそう望んだように。
でも、それでは何も変わらないだろう。
ことみの中のもうひとりのことみは、ここから出ようとしないだろう。ことみの中のもう一人のことみ、それは大切なもの(論文)を燃やしてしまって途方に暮れ、そこから一歩も動けずにいる、幼き日のことみ。自ら閉じ篭もろうとすることみを再び外(=未来)へ連れ出すことはとても難しいことですが、そんな彼女を外へと連れ出すために朋也が行ったこと、それがあの日以来、すっかりと荒れ果ててしまった庭を再び再現することでした。
もちろん再現するといっても、元の状態を取り戻すことが目的ではありません。この庭を再現したのは、もうひとりのことみが動けずにいる過去の時点から、彼女の心を再び未来に連れ出すためです。二人を結びつけていた小説の短編集は、二人を過去へとタイムスリップさせるための鍵として働くことになります。
今なら、全部思い出せる。あの頃のことみが、いちばん好きだった本の一節。
繰り返し繰り返しふたりで読んで、本がなくても覚えてしまった会話…
それはいつも、こんな風にはじまった。
「君はタイムマシンでここに来たんだね」
「あ……」
ことみが瞳を見開いた。信じられないというように、俺のことを見据える。
俺はただ、言葉の続きを待つ。
そして、ことみが口を開いた。
「ええ。わたしのお父さまが発明したの」
「なら、ここにはよく来るのかい?」
「もう何度も。ここはわたしのお気に入りの時空座標だから。
何時間いても飽きないの。ここから見えるものは、みんなみんなすてき。
おとといは兎を見たの。きのうは鹿、今日はあなた。」
そうして、本当に幸せそうに笑った。
あの頃のままのことみが、長い時を越えて、俺の目の前で笑っていた。
「迎えに来た」
俺は手を差し伸べた。
この家で、俺のことをずっと待っていた、小さな女の子に。
「行こう…」
外の世界に。
みんなが待っている場所に。しかしそれでもなお、ことみは朋也を拒絶しました。ことみはそれでもなお、「失った両親への悲しみ」と「新たに失うことへの恐怖」を語りました。
それなのに…
ことみは、両手で顔を覆ってしまった。「私も…私も、朋也くんが好き。とってもとっても、大好き。
はじめて会った時から、ずっと好きだったの…
でも…
私、こわいの。
私は知ってるから。
どんなに大切な人も、いなくなってしまうから。
いちばんしあわせな時も、消えてしまうから。
私には、どうすることもできないから。
私、こわくてたまらないの…」そのことみの恐怖を打ち破ったものが、朋也からの言葉でした。(下線部に注目しておいてください)
「ああ。ずっと一緒にはいられない。いつかは会えなくなる時が、きっと来る。
それがいつになるか、俺にはわからない。もしかしたら、今なのかもしれない。
でもな…
もしも俺が、ことみより先にいなくなったとしても、
俺はずっと、ことみのそばにいる。
俺のことが見えなくても、何も伝えられなくても、
ことみのいちばんそばで、ずっとことみを見てるから。
俺はずっと、ことみを守るから。
会えなくても、そばにいるから。
ことみが立ち止まってしまわないように。
今日よりも明日、ことみがもっと幸せになれるように。」ふたり、手を繋ぐ。もう二度と、離れないように。
「ことみ。ふたりで、外に行こう。大丈夫、恐くない。ずっと一緒だから。」
ことみは、こくりと頷いた。ことみの恐怖を打ち破ったもの、それは大切な人から伝えられた想いであり、『死してもなおそばでことみを守り続ける』という、その深い想いだったのではないでしょうか? その気持ちをことみが受け取ることができたからこそ、ことみは恐怖を打ち破れたのではないでしょうか?
ここで注意すべき点は、ことみが過去の悲劇と喪失への恐怖を克服し、外(未来)へ向けて歩みだす意志を固める物語としてはこの時点で完結している、というところです。ことみが庭へと出た時点ですでに物語としては閉じている。しかしことみシナリオは、さらにエピローグで、ここまでで語られた断片的な内容を見事な形で昇華し、物語を閉じていったように思います。
エピローグでは奇跡的な偶然によって、一ノ瀬夫妻が遺したかばんが、後見人からことみの元へと届けられます。そこにあったものは、夫妻が愛娘に遺した、一通の手紙と誕生日プレゼントだったわけですが、その手紙とプレゼントは、ことみにとって非常に大きな意味を持つものでした。
まず、ことみがあれほどまでに固執し、囚われ続けていた「超統一理論」。それは、この世界の成り立ちそのものをいちばんきれいな言葉で表わそうとしていたもの。その一ノ瀬夫妻が最後に遺した手紙、それは確かに世界の真理をいちばん美しい言葉で解き明かした、最高の論文だったのではないでしょうか?
そして、彼女の元に届けられたぬいぐるみは、死してもなお残り続けた一ノ瀬夫妻の想いのかたち。それは、ことみの恐怖を打ち破るきっかけとなった、朋也の想いと同じものだったのではないでしょうか?
さらに、世界最高の論文とくまのぬいぐるみが誕生日に愛娘のもとに届けられたのは、世界中の人たちの思いやりとそのつながりによって起こされた奇跡そのものだったのではないでしょうか?
「ことみへ
世界は美しい
悲しみと涙に満ちてさえ
瞳を開きなさい
やりたい事をしなさい
なりたい者になりなさい
友達を見つけなさい
焦らずにゆっくりと大人になりなさい」「おみやげもの屋さんで見つけたくまさんです
たくさんたくさん探したけど、この子がいちばん大きかったの
時間がなくて、空港からは送れなかったから
かわいいことみ
おたんじょうびおめでとう」遺された手紙に書かれていたもの、それはなかなか家から出ようとしなかった娘のことみに宛てられた、夫妻の愛情の篭もった言葉でした。それはもしかしたら、夫妻にとっての唯一の心残りであったのかもしれません。
でもすでにことみは、両親が願ったとおりの女の子に育っていたはずです。ことみは、朋也や杏、椋、渚などのかけがえのない友達を作り、そして一緒に手を取ってすでに外に踏み出しているのです。
だからぬいぐるみを手にしたことみは、両親に向かって、せいいっぱいに報告するのだと思うのです。自分が、二人の一番に願った幸せの通りに育っていることを。
見られるはずのないもの、触れられるはずのないもの。
ずっと昔に、この世界がなくしてしまったもの…
それは今、たしかにここにある。
ぬいぐるみを抱いた女の子のことを、やさしく見守っている。「お父さん、お母さん…」
ことみが語りかける。両親の遺した形見に向かって精一杯話し掛けることみの姿は、確かにそれだけで涙を誘うものがあります。しかし、ことみがぬいぐるみに話し掛けた瞬間は、互いを想う両親の心とことみの心とが、長い時を経て初めて繋がった瞬間であり、そこにこそ、このシーンの美しさの本質があるように私は思うのです。
ことみシナリオについては、このエピローグの素晴らしさもさることながら、さらに最後の幕引きも非常に美しかったと思います。
庭の再現のエピソードからも分かるように、不幸な事故により失われたもの(過去)を取り返すことが問題を解決するわけではありません。失われたものを振り返りつつも、そこを起点として新しい一歩を生み出すことに意味がある、というのがこのシナリオの鍵だと思うのです。
それと同じことは、ヴァイオリンについても当てはまります。ヴァイオリンが事故(世界の理不尽)に会ったのは、テーマ的には「再生」という意味を持つのではないでしょうか? 失われたものは元には戻らないけれども、形を変えて新しく生まれ変わっていくことはできる。だからヴァイオリンは、黒いワンピース(=喪服)から白いワンピース(=再生)へと着替えたことみに、大切な友達から、再生した形で引き渡されるのだと思うのです。中盤で手厚く描かれた、(恋愛ゲームには珍しい)女の子同士の友情が、その幕引きに見事に花を添えているのではないでしょうか?
世界の真理を解き明かそうとした一ノ瀬夫妻の遺した言葉にあるように、世界は理不尽という名の悲しみと涙に満ちているのかもしれません。それでもなおそこに奇跡があるとするのなら、それはきっと、人の思いやりとそのつながりによるものであり、だからこそ世界は美しいのではないでしょうか? それはきっと、ことみが一歩踏み出したように、瞳を開き、その想いを受け取れるようになって、初めて分かる美しさであるように私には思えます。
ことみシナリオに関しては、シナリオ担当である涼元氏が「やりたかったことを詰め込みまくりました」とオフィシャルガイドブックに書いていましたが、その言葉に嘘偽りなく、CLANNAD のテーマが全力で詰め込まれていた見事なストーリーだったように思います。
ことみの物語において彼女が外に出られなかったのは、彼女のトラウマという内面的な心の問題でした。しかし先に書いたように、当人の心の問題がなくとも、外部的な環境(しかも場合によっては人間)が、変化しようという前向きな心そのものを潰してしまうこともあると思います。
このゲームで非常に強く私の心に残ったシーンの一つとして、After Story の渚へのプロポーズがあります。
After Story の朋也は、自らの意志で古河家の居候というぬるま湯の生活を脱する覚悟を決め、左肩のハンデキャップを背負いながらも努力を続け、渚とともに六畳一間の慎ましい生活を築き上げました。それは彼の精一杯の努力なくしてはありえず、学生時代の怠惰な生活を思い返せば、まるで人が変わったかのようでした。そして掴んだ元請の会社での現場監督見習いという転職の話。その話を聞いたとき、朋也は次のように語っていました。
褒められたことが…認められたことが、純粋に嬉しかった。
俺がそんな人間に成長してたなんて…
あんなに、人間付き合いを拒絶し続けてた学生時代の俺から…
こんなにも、変わっていけるんだ、人は。
それはあいつのおかげでもあった。
俺は大好きな人の顔を思い浮かべていた。ところがその矢先に直幸が犯罪を犯して逮捕され、すべてが水泡と化してしまう。家を出てからかなりの時間が経ち、事実上の独立を果たしていたにもかかわらず、「親子」という実体のない繋がりだけで降りかかってきた災厄。自らの努力で掴みかけた幸せが、青天の霹靂としか言いようのない理不尽によって奪い去られ、朋也は一転して不幸のどん底に再び叩き落されます。
普段通りの、穏和な表情。俺を前にしても、眉一つ動かさなかった。
それが、許せなかった。
慌てて、頭を下げてほしかった。許しを乞うてほしかった。
これまでの…十年分の謝罪と共に。
でも…黙ったままだった。
だから、俺から口を開いた。
「あんたは…あんたは一体何がしたいんだよ…」
声が震えるのを押さえられなかった。
「人の人生の邪魔なんてして、楽しいのかよ…
俺はあんたを親だなんて、思ってねぇ…
けどな、世の中はそう思ってくれないんだ。
俺はあんたの息子なんだよ…犯罪を犯した男の息子なんだよっ…」身内に犯罪者がいるということ、それは日本という社会においてはとてつもないマイナス要因になります。朋也もまたそれによって転職話を失いますし、普通に考えれば、それだけで縁談が破談になってもおかしくないものです。ところがこのゲームはその全く逆を描いてみせました。つまり、身内から犯罪者が出たことがきっかけとなって、朋也が渚へのプロポーズをしているのです。
「なら、すがってください。わたしは朋也くんのために今、ここにいるんです。
他の誰のためでもないです。朋也くんのため、だけにです。」手のひらで何度も背中をなぞる。
合わせられる部分は、すべて合わせようと力を籠める。
そうして、その存在を強く確かめる。
それは支えで、俺を繋ぎ止めてくれる。
怒りの感情はやがて、大好きな渚を思う穏やかな気持ちに変わっていった。「………なぁ、渚…」
「はい」
「結婚しよう」
「はい」
渚は迷いもなく答えていた。このシーンは、理不尽によって絶望のどん底に叩き落されたことを通して、初めて朋也が渚なしでは生きてはいけないということをはっきりと自覚し、それによってプロポーズするシーンだと思うのです。そして渚もまた、朋也の身内に犯罪者がいるかどうかなど全く気にもせず、迷いもなくそのプロポーズを受け止めました。
「俺みたいな情けない男でもいいのか」
「わたしだって、情けないです。
でも、こうして、わたしたちはお互いを支えとしてがんばっていけます。
そうして、今まで強くなってきました。
だから、これからは、もっと強くなっていけると思います。
ふたり、一緒だったらです。」単に同棲を続けるだけだったとしたら、本当の意味で「渚なしでは生きられない」ということにはっきりと気付くことができなかったかもしれないのではないか……私にはこのシーンが非常に逆説的で、だからこそとても印象に残る素晴らしい情景のように思えます。
さてここまで 3 つほど例を取り上げて、彼らがどのように苦しみ、それがどのように解消されていったのかをまとめてみたわけですが、どのルートを取ってみても、基本的に描かれていることは同じだと思います。
この現実世界が内包する困難、いくら努力をしても続き続ける理不尽にずっと一人だけで立ち向かい続けていくことは、とても厳しく、辛いこと。それでも、人と人とが支え合い、想い合うことによって、そうした現実世界の辛さを乗り越え続けていくことが初めて出来るということ。それを、様々な素材を使って描いているのが、この CLANNAD という作品なのではないでしょうか? そしてその支え合いも決して恋愛関係という狭い 1:1 の範囲だけのものではなく、朋也と渚を取り囲むみんな、あるいはことみを取り囲んだ女の子たち、といった具合に、ネットワーク的に広がりを持った、他者への思いやりなのではないでしょうか?
ここまでの話をまとめてみると、CLANNAD の前半部(個別キャラルート)の物語としてのキーポイントは次のようなところにあると思うのです。
「この世の中に存在する様々な『理不尽』に立ち向かい、人が成長して変わっていくことができるのは、人同士が支えあっていくことができるからであり、その根底には、他者(相手)への思いやりがある。」
つまり、この作品のテーマは「他者に対する思いやり」なのではないかと私は思うのです。
確かに一番最初に述べた通り、CLANNAD にはそのテーマを支えるサブテーマとして「変化を受け入れ、現実の中を生き、前に踏み出していくことによる人の成長」が存在しているので、その部分を強く押し出して、
CLANNAD の前半の内容は「ヒッキーをやめて外に出よう!」である。
CLANNAD の後半の内容は「早く大人になれ(人を思いやれるようになれ)」である。
とシングルキーワードでまとめてしまうのはたやすいことであり、その観点から論理的に読み解けば、これもこのインプレの第 1 章で書いたとおり、非常に冗長な物語かもしれません。
あるいは、乱暴で恣意的なストーリー展開を槍玉に挙げて、CLANNAD の出来の悪さを指摘することもまた、非常に簡単にできると思います。
しかし、そのような荒っぽい作品理解は、物語の細部にあった人々の心の動き、「思いやり」そのものから目を逸らすことにはつながらないでしょうか?
有紀寧ルートの話の中でレッテル張りの危険性を挙げましたが、シングルキーワードで作品をまとめたり、あるいは理屈や論理のみからこの作品を読み解こうとすることは、自分の目を曇らせ、そこにある本質的な輝きを見落としてしまう危険性を孕んでいるのではないでしょうか? もしこの作品のテーマが「他者に対する思いやり」という心の動きであるのなら、その輝きは、作品の細部にこそ宿っているのだと思うのです。それらは、「この作品のテーマは他者に対する思いやりです」といった、シングルキーワードでまとめてしまうような大味な解釈や理解だけでは決して辿り付けないものではないでしょうか?
次の章ではまだ触れていないシナリオなども見ながら、この作品で取り扱われた「思いやり」とは何かについて、改めて考えてみたいと思います。
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