1. CLANNADの論理的な作品構造とその難点


CLANNADのテーマ「家族愛」とは何か

 作品タイトルである「CLANNAD」は、北欧ゲール語で「家族」という意味を持つ単語を元に付けられたものだそうです(正確には "clann" が家族という意味を持つ単語らしいです)。作品中では、古河一家、岡崎一家、一ノ瀬一家、藤林姉妹、伊吹姉妹、春原兄妹、宮原兄妹、坂上姉弟など、様々な形の「家族」と、そこにある想い、いわゆる「家族愛」が描かれていました。

 しかし、この作品を単純な「家族愛」(家族の愛)の一言でくくってしまうことは非常に危険だと思います。渚と朋也は、作品のグランドフィナーレで次のような言葉を交わしました。

「なあ。町は、大きな家族か」
「はい。町も人も、みんな家族です。」
「そっか」
「だんご大家族です。」

ああ…そうか。そうだったのか。
渚はもしかしたら、出会った頃から…いや、もっと昔から気付いていたのだろう。
だから、渚は誰も嫌いにならない。誰のためでも、一生懸命に頑張る。
それは、家族だからだ。

 このセリフからも分かるように、この作品でいう「家族」とは、いわゆる『血縁関係』によって結ばれる人々のことだけでなく、様々な『絆』によって結ばれている人々のことをも意味していました。実際、ゲーム中でも、恋愛関係だけに焦点が当てられる一般的なギャルゲ―とは異なり、クラスメイトとの友情や恩師との関係など、非常に多彩な人間関係が描かれています。つまり、簡単に言えば、

とまとめることができるのではないかと思います。そうした人と人との繋がり、思いやりの大切さを、非常に暖かいメッセージとして真摯に描いた作品、それが CLANNAD なのではないかと私は思います。

 CLANNAD というゲームに関しては、Web 上での各種のインプレやレビューを見る限り、どのサイトでもほぼ絶賛に近い評価を下しており、酷評が目立つ 2ch ですらも極端なアンチがほとんど見られないという、非常に珍しいゲームです。私自身もまた、このゲームに関しては ★×5 をつけることを躊躇わない素晴らしい作品だと思うのですが、しかし手放しで褒めてよい作品なのかというと、やはりそうとも言いにくい面があるのは確かです。

 そこでこのネタバレゲームインプレッションでは、まずこの作品を論理的に読み解いてみることによって、その難点や問題点を考えてみたいと思います。

CLANNADにおけるテーマの描き方

 CLANNAD は、前半部と後半部とでテーマの描き方が大きく異なっていました。その違いを端的に言えば、

となると思います。形式的には大きな違いがあるのですが、もう少し作品を細かく見ていくと、「人と人との繋がり」というメインテーマに花を添える、一貫したサブテーマが背後に存在していたように思います。

■ 前半部 : 複数のモチーフにより立体的・多面的に描かれた人の繋がり

 Kanon や AIR は、論理的に作品が組み立てられた、一点突破型(あるいは一点収束型)の作品でした。このため、私たちが作品解釈をしたり、あるいはそれを論じたりする場合も、設計された作品構造に従って議論を行っていくことができ、例えばシナリオ解釈の是非も、そうした基本骨格に合致するか否かで白黒がつけやすいものだったように思えます。

 ところが CLANNAD の前半部にはそうしたはっきりした論理的な構造がなく、またテーマである「人と人との繋がり、思いやり」が具体的に『何か』ということに関して、明確で一意の回答を提示していません。むしろ CLANNAD は単一解を導出するのではなく、複数の作品素材を必要に応じてうまく組み合わせることで、様々な人の繋がりや思いやりを優しく描写していたのではないでしょうか? そしてこれは、ともすれば「本当の幸せはいかに死ぬかにある」などと解釈されかねない AIR の作品の作り方とは、全くといっていいほど異なるものではないでしょうか?

 実際、前半部の各キャラクターのシナリオに見られる「素材」をざっと洗ってみると、以下のようなものがピックアップできます。

@ 世の中の理不尽、悲しみと涙に対するやるせのない怒り(荒れる)、または諦観。
A 今しかない時間、二度とない時間。この対比としての「止まった時間」。
B 前に進み、坂道を上がっていこうとする心。一歩を踏み出す勇気と覚悟。
C 人の思いの交錯、互いの支え合い。支えがあるから人は立つことができる。
D 自分の本当の気持ち。心から望むものは何か。自然体で望むものは何か。
E 変化を受け入れること。失うことへの恐れが枷にならないようにすること。

 このような素材に対して、ざっとマトリクスを作ってみると、下の表のようになります。このゲームを初めてプレイしたとき、私自身は芸幅が狭くて冗長なゲームだなと感じたのですが、改めてこのようにしてまとめてみると、作品素材をちょっとずつズラしながら描いていたからそのように感じられたのだということが分かります。

(※ 細かい部分での異論などはあるかと思いますし、まだ他にも素材をピックアップすることは出来ると思いますが、ここでは表の厳密性を議論することが目的ではないので許してください。(^^;))

  @ A B C D E
     
杏 & 椋      
ことみ    
風子 & 公子    
智代  
有紀寧        
陽平 & 芽衣        
椋 & 勝平    
美佐枝        

 このような形で作品を素材にいったん分解し、改めて@〜Eを頭の中で統合してみると、メインテーマ「人のつながりと、そこにある思いやり」を支えるサブテーマとして、「現実の中を生き、前に踏み出していくことによる人の成長」が存在しているように私には思えます。

 そして、どのストーリーを取っても、@〜Eにまとめたような『殻』を突き崩している鍵になっているものが、人との絆であり、思いやりであり、優しさだったと思います。そういう観点から見てみると、前半部(個別キャラルート)におけるメインテーマ的なブレは全くなく、人の繋がりと思いやりが人を成長させ、育んでいくのだということを、暖かく、多面的に描いていったのが前半部といえるのではないかという気がします。

■ 後半部 : ギャルゲ―の枠を越えたシナリオによるテーマの深掘り

 これに対して後半部の After Story では、就職、同棲、結婚、妊娠〜出産、父子家庭、父との和解と、従来のギャルゲーの枠を大きく逸脱したシナリオへと発展していきました。

 前半部では、朋也は人とのつながりとそこにある思いやりによって、厭世的で無気力な思考を脱し、前へと踏み出していくことになるわけですが、ところがそこに待ち構えていたのは厳しい現実でした。それでもなお、渚や古河夫妻、そして周囲の友人たちの支えを受けながら、何度も挫けながらもその現実の困難に立ち向かっていく朋也の様子が克明に描かれていたのが、後半の After Story だったように思います。

 後半部の汐ルートの展開の中でもとりわけ絶望的だったのは、朋也を支えた渚の喪失と、汐の熱病でした。ではこのルートで残ったものは悲劇だけだったのでしょうか? この問いに対して、まず渚は次の言葉をもって回答していました。

「もしかしたら、朋也くん…わたしと出会わなければよかったとか…」
「そんなこと思ってるんじゃないかって…」
「すごく不安でした…」
「でも、わたしは、朋也くんと出会えてよかったです」
「とても、幸せでした」
「だから、どうか…」
「もう、迷わないでください」
「これから先、どんなことが待っていようとも…」
「わたしと出会えたこと、後悔しないでください」
「………」
「ダメ、でしょうか…」
「………」
「いや…」
「わかった…後悔しない…」
「おまえと出会えたこと、胸を張って…生き続ける」

 つまり、現実世界に理不尽な『不幸』があることは仕方のないこと。その悲しみがあるからといって、出会いそのものを後悔しないで欲しい、生きていることを大切にして、それでもなお生きて前に踏み出していって欲しい、という訴えかけが、このセリフの意図するところではないでしょうか?

■ 前半部と後半部を背後から支える「幻想世界」の意味

 そしてもう一方の汐に関しては、「幻想世界」をテーマ的側面から解釈することによって、その回答が見えてくるように思います。

 Web 上では、論理的な視点から幻想世界と現実世界との関係を読み解き、渚や汐の原因不明の病について解釈を試みているものをよく見かけます。しかし、論理的な視点のみからそのような理由付けを探すことにはあまり意味がないように思えます。それは、渚や汐の原因不明の病を理論的に解明してみても、作品のテーマ的な全体解釈にほとんど変化が出ないからです。

 AIR の場合には、輪廻関係の設定解釈がともすれば作品の全体解釈をひっくり返しかねない危険性をはらんでいましたが、CLANNAD の場合にはそのような問題がありません。であれば、幻想世界と(作中の)現実世界との関係を読み解くことにこだわる必要はなく、その設定の仔細は「ファンタジー」として理屈抜きに認めてしまってよいのではないでしょうか? あるいは、このゲームの世界観がループ世界観なのか、並行世界観なのかに関しても、その差異が作品解釈に致命的な差異をもたらすようには、私には思えません。

 むしろ幻想世界に関しては、視点を変えて、以下のような見方をした方が、その意味を読み取りやすいのではないかと考えます。

◇ なぜ True End は汐ルートの先ではなく、汐の出産の場所に存在するのか?

 このゲームの True End の鍵となっているのは 13 個の光ですが、この光は、幻想世界の少女が説明する言葉を借りれば、「たくさんの人の思いと幸せを願う心」が目に見えるカタチとなったものでした。

 この作品の場合、「人の繋がりとそこにある思いが幸せな世界を形作る」というのがメインテーマなのですから、渚が汐を産んだ場所に、13 個の光の力を借りて『ただ一つの奇跡』が起こってすべてが大団円となるのは、テーマ的必然と言えるのではないかと考えます。

◇ 幻想世界の少女の正体は誰か?

 幻想世界の最後にある以下のセリフを素直に単純に解釈すれば、幻想世界の少女は朋也の愛娘である汐だった、ということになります。

その中で、僕は彼女の手を求めた。
ずっと、つないでいたかった。
彼女が僕を見て叫ぶ。
…さようなら…パパっ…

 これ以外にも、以下のような点から幻想世界の少女が汐であることが示唆されます。

 幻想世界の論理的な解釈を突き詰めている方々の中には、もう少し凝った解釈をしている方々もいらっしゃるようです。確かに、前半部において渚が幻想世界の記憶を持っていること、またグランドフィナーレ後に汐と幻想世界の少女が同時に存在しているような状態になっていること、さらに少女が自分自身のことを「この世界そのもの」と表現していることなどを元にすると、少女をもっと象徴的な存在として読み解く、あるいは並行世界論などを論じていくことも可能だと思います。しかし、幻想世界をテーマ的に解釈する分には、単純に「少女=汐」の構図としても十分なのではないかと思います。

◇ 幻想世界の持つテーマ的な意味は何か?

 その理由は、幻想世界のテーマ的な意味が、次のようなものではないかと思うからです。

「朋也に対して、『万物の流転(=すべての物事が変わらずにはいられないこと)をすべての前提条件として受け入れる』ことを促す」

(※ より端的に『現実回帰』、と表現することも可能ですが、このような表現をしてしまうと「プレイヤーに対する説教」といったニュアンスを含んでしまうので、敢えて上のような表現にします。)

 現実世界における「光」が人の繋がりと思いやりを表わすものであるのなら、幻想世界に散らばったガラクタは、思いやりの対極にあるエゴと独り善がりのみによって存在する、暖かさを失った人間の抜け殻の象徴ということになります。汐を放り出し、仕事に没頭することで現実逃避する朋也は、他人への思いやりを持たない、まさにエゴと独り善がりの塊のようなものであり、幻想世界におけるガラクタのようなものでした。ところが、その寂しい様子を見て、初めてガラクタだった人形に心が宿って動き出す……それが、幻想世界の意味するところとなるのだと思います。

 だとすると、この幻想世界のテーマ的な意味、すなわち少女(=汐)がガラクタの人形(=朋也)に最後に願った以下のセリフの意味は、「朋也に幸せを願う思いを持って、万物の流転(とそれによって起こる不幸)を受け入れて、それでもなお生きていって欲しいという祈り」(=作品のサブテーマ)だったと解釈できるのではないでしょうか。

…わたしの思いは、世界の心…
…たくさんの光たちの幸せを願う、心…
…もし、大切な人が不幸になるなら…
…それで、助けてあげてほしいの…

この終わり続ける世界で…
ずっとひとりで…
…それは、わたしが望んだことだから…
…わたしは、見守っていく…
…ここから、ずっと…
…永遠に…

 つまり、(汐ルートの)汐が、終わり続ける世界(=行き止まりとしての汐ルートの結末)から、その父親たる朋也に対して、いかに厳しい現実であっても頑張って生き続けていって欲しいということを訴えかける、それが幻想世界のラストシーンのテーマ的意味なのではないかと思うのです。

 つまり、「世界に存在する理不尽と不幸」の究極形として汐の長い闘病生活の果てがあるとするのなら、この汐ルートのラストの意味は、渚の喪失に続いて厳しい現実に再び叩きのめされた朋也に対して、それでもなお『変化を受容すること』を後押しするためのものだった、と言えるのではないでしょうか? 変わらずにはいられないこと、幸せすらも変わらずにはいられないこと、それから逃避することなく、前提条件として受け入れることを後押しするためのものだったのではないでしょうか?

 その構図は、先に書いた「渚」の場合とほぼ同じです。渚は、命を失ってもなお朋也に変化を受容すること(不幸な現実を受け入れること)を願いました。汐もまた、父親である朋也が「光」(=人との繋がりと思いやり)を感じて、変化(万物の流転)を受け入れることを願ったのではないでしょうか?

 以上に基づいて考えると、After Story の汐ルートは以下のようにまとめられるのではないかと思うのです。

 ……と、このように論理的に作品を読み解いてみると、いろいろと綺麗に作られているなぁとは理解できるのですが、それが心情的に納得できるかどうかは全く別の話です。実際、この作品には致命的とも考えられる難点がいくつもあると思います。

テーマ・設定・シチュエーション主導で展開される恣意的なストーリー

 私が考える CLANNAD の難点を一言にまとめれば、

『物語としてのストーリー展開が恣意的で、納得感に欠ける部分が多々ある』

ということだと思います。つまり、テーマ的必然、あるいは構成上の必然が理解できたとしても、物語的な必然性がなく、恣意的に(=作者にとって都合よく)無理矢理ストーリーを展開している点が多々見受けられる、ということです。挙げだすとキリがないのですが、ここでは 4 点ほど例を取ってみたいと思います。

■ 例@ 自宅出産

 六畳一間とちゃぶ台に代表される日本的情景の中にある家族像は、多くの作品(例えば家族計画の末莉シナリオなど)で使われています。CLANNAD においても、After Story の中で描かれた家族愛は、やはりこの質素で慎ましい部屋の風景と切り離すことはできないように思います。

 しかしだからといって、母胎に危険があることを承知しながらの出産でありながら、この六畳一間での自宅出産にこだわるというのは、常識的にはどう考えてもあり得ない話です。

 入院もせず、自宅出産が行われた理由は、「六畳一間の中にある『家族』という情景を描く」ためのもの、そして True End の情景につなげるためのもの、すなわちテーマや構成上の必然性によるものと考えられます。

■ 例A 理不尽な選択肢と、プレイヤーの意図と反した方向に進む物語

 このゲームの攻略難易度を高めている要素の一つに、とても予想できるとは言い難い理不尽な選択肢の存在があります。

 特に致命的なものとして、杏シナリオにおける椋に対する選択肢が挙げられます。杏を攻略するためには、椋の告白をいったん受け入れ、適度に椋と付き合いつつ(しかもキスまでしないといけない)、あるところで手のひらを返して杏に振り返る、という選択肢を『プレイヤーが』選んでいく必要がありましたが、そもそも朋也はそこまで不誠実な性格の持ち主だったでしょうか? 他のルートでは「謝る場所だけは間違えない」という描写もあるぐらいであり、安易に椋の告白を受け入れるような性格とも私には思えません。

 なぜこのような選択肢を選ばないと杏ルートに進めないのかといえば、それは杏ルートのラストを描くためには、二人が同じ朋也を好きになり、かつそこに泥沼の三角関係が存在しなければならないからです。そのシチュエーションに持ち込むためには、朋也が優柔不断でなければならない、だから上記のような選択肢が必要になるわけです。

 しかしそれはテーマ的必然であって、物語必然とは言えません。もちろんある状況下に置かれた際に、朋也がふらっと椋の告白を受け入れてしまうこともあるかもしれませんが、朋也がそのような行動をとってもおかしくないと納得させるだけの描写が為されていたと言えるでしょうか? 杏シナリオに見られるような「後ろ向きな選択肢」をプレイヤーに選択させるには、感情的な裏付けが十二分に行われていることが必要になります。しかし各 Web サイトでの不評を見るにつけ、杏シナリオに関しては、特にこの点に失敗していたように感じられます。

 個人的には、同様に分かりづらい選択肢として、美佐枝シナリオの「美佐枝評の 3 つの選択肢」と、智代シナリオの「キャッチャーをするか否かの選択」についても挙げておきたいと思います。どちらも、後から思い返してみれば意味のある選択肢なのですが、初回プレイでは運としか言いようのない、手探りが必要な選択肢だったように思えます。

■ 例B シナリオ主導で作り変えられてしまうキャラクターの内面

 また、勝平ルートの椋についても、そのシナリオ導入部はあまりにもお粗末な展開でした。

 確かに椋の性格を考えてみると、彼女は、人を支えて、人から頼られる時に最強のパワーを発揮するキャラクターだと思います。だから彼女には看護婦が似合っており、そして彼女と連れ添うキャラクターとしては勝平のような人物像が似合うのでしょう。そういう意味で、椋と勝平のカップルは CLANNAD という作品中でもベストカップルの一つと言っていいように思えます。

 ですが、杏ルートにおける椋とのあまりの違いには違和感を覚えた方が多かったのではないでしょうか? 杏ルートにおいて、椋が杏に朋也の相談を持ちかけたのは、他ならぬ姉への牽制でした。双子の姉を諮ってまで朋也を手に入れようとした椋が、どうして勝平ルートではこうも簡単に勝平の告白を受け入れてしまうのでしょうか? ここにも、「その先にあるものを描きたいから」という、筋書き優先の納得感のない物語展開を見て取ることができます。

 ……というか、それ以前の問題として、杏ルートにおいてすら、杏と椋が朋也に惚れ込んだ理由がさっっっぱり描かれていないことがそもそもの問題なわけですが。

■ 例C 構成上の必然としての汐編ラストと幻想世界

 最後の例として、汐編ラストと幻想世界を挙げたいと思います。

 先にまとめた通り、現実世界の不幸と理不尽の極みともいえる汐の闘病生活の果てには、朋也(引いてはプレイヤー)に痛みを伴った「変化の受容」を促すというサブテーマ的意味が込められているのだと思います。しかしそれは「構成上の必然」あるいは「テーマ的な意味」に過ぎません。

 確かに、作品サイズを考えても、またテーマ的に渚の死の繰り返しになるという観点からも、汐ルートのラストには上記のような意味付けを行い、そこで留めておくというのが作品としての「妥当な落としどころ」ではあります。

 しかし、「世界に存在する理不尽と不幸」の究極形として汐の闘病生活があるとするのなら、渚や汐の言うように、それでもなお強く生きていくことを示す必要があった、という見方も成立し得ます。(この点に関しては、汐ルートにおける、杏などとの再婚話というのも考えることができたでしょう。渚を失ったのちに、再び作り出される家族というのも、現実を考えれば十分にあり得る話のように思います。)

 つまり汐ルートのラストの痛みは、グランドフィナーレたる渚 True End を下支えし、作品世界を閉じるために「使われて」いるものであり、汐ルートが「Dead End(行き止まり)」になるべき必然性は物語的には存在しない、むしろ CLANNAD のテーマを考えれば、それでもなお世界とその物語は続けられていくべきだと考えられるのではないでしょうか。

 またこれ以外にも、作品構成上の True End (グランドフィナーレ)の配置位置の悪さという問題もあります。汐ルートを見た後、秋生ルートを見て、あっさりとした True End によって物語が締めくくられるという構図は、残念ながらプレイヤーへのインパクトには欠ける構成だったように思います。クリア後に残った衝撃は AIR の方が大きかったという意見が後を絶たないのも、こうした構成の拙さに一因があるのではないでしょうか?

 ここまでざっと CLANNAD の難点を挙げてきましたが、こうした点を鑑みてみると、減点法評価ではせいぜい 60 点をつけるのがいいところではないかとも思えてきます。しかし、CLANNAD は果たしてこのような論理的な構造から解釈を進めることに本当に意味のある作品なのでしょうか? 先に、CLANNAD では幻想世界の設定を論理的に解明することはあまり意味がないと述べましたが、同じように、前述のような「恣意的なストーリー運び」を指摘することにも、実はあまり意味がない作品なのではないでしょうか?

 そのことを考えてみるために、次章では、この CLANNAD の作品世界の構図をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。



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