Fate/stay night ネタバレゲームインプレッション

Original Created (v0.01) 2004/02/19
Last Updated (v0.02) 2004/02/22

おねがい

 このページは、Fate/stay night のネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。

※直リンクから飛ばれてきた方々へ トップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。

 なお、本ネタバレゲームインプレッションはとてつもなく長いです。(^^;) 長文の上、駄文で申し訳ないですが、気楽にのんびりと読んでいただければ幸いです。

はじめに

 本作品は非常に注目度が高かったこともあってか、すでに Web 上に数多くのレビューやインプレが上がっており、さまざまな議論を呼んでいるように思います。特に本作の最終ルートである間桐 桜ルートは良くも悪くも議論を呼びやすく、賛否両論さまざまな意見を目にします。しかし間桐 桜ルートを嫌悪するにせよ受け入れるにせよ、まず感情論を抜きにして、さらには出来不出来・上手下手の問題も抜きにして、TYPE-MOONが本作品で何を語りたかったのかを正しく理解することは大切ではないかと思います。そうでなければ、議論という名を借りた感情論のぶつかり合いという無益な結果にもなりかねません。

 また、仮にフルコンプリートしたとしても、何か釈然としないシコリのようなものが残り、それが自分なりに噛み砕けていないという方も多いのではないでしょうか?(かくいう私もそうなのですが……(^^;))

 そこで、本ネタバレゲームインプレッションでは、まず、作品の全体構造と 3 つのルートをテーマ的な側面から解釈してみます。これにより、本作の持つテーマ性や各ルートの意味を明らかにします。それに引き続く形で、本作品の何が問題だったのか、どうあるべきだったのか、に関して、検討を加えてみたいと思います。

 私自身、この作品を完全に定位しきれているわけではないですし、作品の見方は一意的ではないと思いますが、皆様が "Fate/stay night" という作品を消化する上で、本ネタバレゲームインプレッションがその一助になれば幸いです。

 なお、以降の説明ではメインのストーリーライン部分にフォーカスした解説を行い、言峰綺礼などを初めとしたサブキャラに関しては部分的に触れるに留めたいと思います。これは、作品サイズが非常に大きいため、全ての要素を解説すると話が極めて複雑になるからです。実際には、サブキャラクターたちにもテーマ性はそれぞれの形で継承されていると思いますので、皆様のリプレイの中などで確認してみてください。

本作品のテーマは何か?

 各論に入る前に先に結論を書いてしまいたいと思いますが、作品の根底に一貫して流れるテーマは

「人としての誇りや信念の在り方」

です。本作品の 3 つのルート(セイバールート、桜ルート、凛ルート)はこのテーマを様々な側面から描き出していきます。非常におおざっぱにまとめると、以下のようになっています。

 本作品のストーリーラインは基本的には一本道で、前ルートの持つ矛盾や問題点を次のルートで解決していくという構成を取っています。

 例えば一例として、桜ルートと手前 2 つのルートの関係を明らかにしてみます。セイバールートや凛ルートで掲げられる信念は「正義の味方であろうとすること」でしたが、これは一般的な価値観でも幅広く人に受け入れられやすいものであり、だからこそ士郎もその信念を切嗣から継承しやすかったとも言えます。しかし、本当に手に入れたいモノがあるのなら、つまり「とにかく何があっても『桜を守りたい』」と思うのであれば、あらゆるモノ(それまで持っていた「借り物の信念」はもちろんのこと、道徳観、普遍的価値観、倫理観、自らの命などすべてのキレイゴト)を『かなぐり捨てて突き進め』、と主張しているのが桜ルートです。

 セイバールートや凛ルートでは、これでもかというぐらい徹底して、信念や誇りの尊さや美しさ、崇高さが描かれています。それはまさしく一級の芸術品です。しかし桜ルートでは、それを敢えて完膚なきまでに「士郎自身が」破壊していきます。そうしなければ、そこまでしなければ、本当に手に入れたいものには辿り付けない、と桜ルートは語っているわけです。(このことから考えれば、桜ルートに対する批判として指摘されることの多い「汚さ」「醜さ」は、実はこのルートのテーマ的な本質であるとも言えるわけで、非常に的外れです。)

 このように、テーマの『提示方法』は確かに一本道なのですが、果たしてテーマ的な最終結論が桜ルートの最後でグランドフィナーレとして提示されているのかというと、それには疑問があります。私自身の結論を先に書くと、テーマ的な最終結論そのものがすっぽりと抜け落ちているのが本作品 Fate/stay night だと思うのですが、そのことを示すためにはもう少し詳細に各ルートの内容を解釈し、その上で全体構造を考えてみる必要があります。

個別ルート解釈

※ ファイルが巨大になるため、別ページに分けました。それぞれ長文ではありますが、個別ルート解釈を一通り読んだ上で、後ろの全体解釈に進んでいただけると助かります。

桜ルート True End の持つ二面性

 上に挙げた個々のルートの詳細解釈から分かるように、このゲームは感嘆するほどよく練りこまれた作品であると思います。にもかかわらず、本作品に関しては、Web 上(このサイトの掲示板もそうですが)で激しい賛否両論が交わされています。なぜここまで「モメる」のか? その理由を端的に言えば、桜ルートの True End を『全体結論として』受け入れられない人が多いから、ということに尽きると思います。

 そもそも、本作品のストーリーラインをもう一度まとめなおしてみると、

という流れを取っており、単に設定や伏線の見せ方が一本道であるだけではなく、テーマ的な側面からも一本道な見せ方をしている、という構成を取っています。ということは、桜ルートの True End は、個別ルートのエンディングという性質だけでなく、作品全体の結論としての性質(「これこそが Fate/stay night の結論である!」といった側面)も持っていなければなりません。ですから、桜ルートの True End の是非も、

という 2 つの側面から吟味されなければなりません。

■ 桜ルート True End は個別結論として適切なものかどうか?

 まず、個別結論としてこの桜ルートの True End が適切なものなのかどうか、について考えてみましょう。先の個別ルート解釈で示した通り、桜ルート True End はテーマ論的な解釈をすれば決して破綻しているものではなく、むしろ、Normal End よりもそのテーマ性を強烈にアピールしたものになっています。そういう意味で、この結論は個別結論としては適切なものである、ということになるでしょう。

 少し横道に逸れますが、これに関連して一点補足をしておきたいと思います。桜ルート True End が納得できるものなのかどうか? 適切なものなのかどうか? という議論において、

「桜が好きかどうか? 感情移入できるかどうか? 桜を許せるほど好きかどうか?」

という感情論を持ち出して擁護している方々をよく見かけます。しかし、このルートを個別ルートとして擁護するのであれば、そのような感情論を持ち出す必要など全くないと思います。なぜなら、そもそもこの桜ルートは、「作品中の士郎は桜が大好きで、その笑顔を守ろうと思った」という前提条件の元で進んでいくからです。その前提条件の元でシナリオを適切に解釈すれば、先の個別ルート解釈で示した通り、決してテーマに対して破綻している内容ではありません。むしろ、テーマに沿って忠実に作られている、と言ってもよいでしょう。(※ どうしてアンリ・マユまでひっくるめて桜を愛さないんだ、なんていう過激な意見もありますが、まあそうした意見を差し置けば(^^;)。)

 つまり、この桜ルート True End を個別結論として見た場合には、その展開や結論は「この上なく的確なものである」、としか言いようがないのです。それでもなおこのルートを個別結論として否定するためには、このルートの「前提条件(=桜のことが好き)」を前提条件として受け入れないことが必要であり、それは単なる好みの問題、あるいは個人としての見解の相違、ポリシーの相違、ということになります。そんなことで争っても、しょせんは水掛け論というものでしょう。

 もし、敢えて「好み」の問題を抜きにして、(個別結論としての)桜ルート True End を理屈の上で論理的に叩こうと思うのなら、以下のように叩くべきだと考えます。

 桜ルート True End の本質は、「倫理観も社会的正義も何もかも覆す」非常にダークな Ending です。しかし、一般的にはやはり「表面的な Happy End」として誤解されています。いや、むしろそう誤解されるように意識的に作られていると言っていいでしょう。それは TYPE-MOON の覚悟のなさと言えるのではないでしょうか? 作中では「信念による覚悟」を淡々と語りながら、しかし作りや見せ方としては覚悟がないという矛盾、これでは茶番と言われても仕方がないのではありませんか? ……と。

 もっとも先に書いた通り、私は基本的には「個別結論として十分に納得出来る」(これ以外に逃げ道がない)ものだと思っていますし、上述したような重箱の隅を突いても仕方がないと思っています。それに、そもそも桜 True End が叩かれる本質的な理由は、次に述べる「全体結論としての不適切さ」にある、と考えます。

■ 桜ルート True End は全体結論として適切なものかどうか?

 桜ルートで語られた、「本当に守りたいものがあるのなら、本気の覚悟で信念を貫いてみせろ」というテーマは、今さら何を、とでも言うべき当たり前すぎるモノです。その当たり前すぎるテーマを力強く、説得力あるものとして描くために TYPE-MOON が行ったこと、それが『桜ルートによる、凛・セイバールートの破壊』です。つまり、セイバールートや凛ルートで TYPE-MOON 自らが組み立て上げた『超一流の幻想(理想論)』を、これでもかというぐらいに TYPE-MOON 自らが破壊していく。それをやって見せることで、桜ルートのテーマがホンモノであることを際立たせているわけです。

 つまり、セイバールートと凛ルートという超一流の「ニセモノ」が、作品全体の結論たる「ホンモノ」によって突き崩されていくという構図、これをもって桜ルート True End に全体結論としての説得力を持たせようとしているわけです。

 しかしもしそうであるなら、桜ルートでの壊し方は、セイバーや凛ルートに比べて遜色のない、超一流の壊し方でなければなりません。ところが実際には、ニセモノ(とまで言わずとも青臭い理想論)を押し通すためにセイバールートや凛ルートで裂かれたパワーとその達成度に比べると、桜ルートの方はその破壊の仕方が粗雑すぎます。つまり、確かに桜ルートでは徹底的なまでの破壊を行いましたが、それは『超一流の壊し方』ではなかった、ということです。

 この理由を元に、桜ルートそのものが結論までひっくるめた形で非難されることは致し方のないことでしょう。特に致命的だった問題点は以下の 2 つです。

 桜ルートはイリヤルートを統合している感もあり、とにかくボリューム満点です。他ルートに比べて遥かに多いサーヴァント同士の戦闘、次々と明かされていく裏設定、不死身かと思えるほどの士郎の生命力。それらがギリギリのバランスで詰め込まれているのが桜ルートです。内容を追いかけきれず、その怒涛の展開に置いてきぼりを食らったプレイヤーも少なくないでしょう。

 またそれに関連して、やはり桜というキャラの造形が今ひとつ上手くいっていない、という問題があります。本来であれば、セイバーや凛ルートで日常的な桜の魅力を存分に伝えておいた上で、桜ルートの中で驚愕の事実を明かしていく、という展開が望ましいのでしょうが、残念ながらセイバー・凛ルートでは十二分な描出がなされていませんでした。また、見かけと裏腹に桜が処女じゃないどころか慎二に性的虐待を受けていたという事実を知ればショックを受けるでしょうが、「それでも桜が好きなんだ、桜の場合に限ってはそんなこと無視してもいいんだ」と、全てのプレイヤーに思わせるぐらいに『桜の魅力』を描けていたかというと、それもまた疑問です。

 しかし、そうした『桜の魅力』が十二分に描かれていないと、そもそも「第 3 ルートの士郎は桜のことが大好きで、その笑顔を守ろうと思った」という本シナリオの前提条件がプレイヤーに共有されません。万が一、プレイヤーが『桜への感情移入』に失敗すると、桜ルートのシナリオ展開は説得力を失い、完全に空転してしまうことになるでしょう。こうなってしまうと、「頭では理解できても、心では納得できない」という状況に陥ってしまいます。サーヴァント戦や臓硯、アヴェンジャーや第三魔法など、様々な要素が盛り込まれている分、やはり(相対的に見て)桜の魅力の描出が手薄になってしまっている感はあるように思います。

 この桜への感情移入度はプレイヤーによって変化するでしょうし、好みの問題も多分に影響しますが、少なくとも「プレイヤーの 9 割が桜を愛しく思った」なんていう状況ではないように思います。

 この作品の見どころの一つに、宝具を駆使したサーヴァント同士の強烈な戦いというものがあります。しかしこの戦いがなぜここまでの輝きを持つのかというと、それは「力のぶつかり合い」に「意味のぶつかり合い」が重なってくるからです。

 例えば凛ルートにおいて、士郎 vs 英霊エミヤの激突がなぜあれほどまでに迫力があったのか? といえば、それは強烈な力のぶつかり合いに、二人の信念のぶつかり合いが投影されているからです。「力のインフレ」に「意味のインフレ」がダブるからこそ、こうした戦いがとてつもなく「アツい」戦いになる。力だけインフレさせても(→デモンベインがそうでした)、意味だけインフレさせても(→桜ルート)、戦いとしては不十分なのです。

 そう考えてみると、桜ルートでのサーヴァントたちの戦いはあまりにも地味です。例えば、セイバー vs ライダー戦を取ってみても、第 1 ルートのエクスカリバー vs ペルレ・フォーンに比べると何とも迫力に欠ける戦いですし(そもそも洞窟の中というのが間違っている)、最凶のサーヴァントであるギルガメッシュは戦うことすらなく桜に食われ、ラストバトルに至っては言峰 vs 士郎の『素手の』殴り合い。一生懸命頑張って迫力を増すように文章を書いているのはひしひしと伝わってきますが、それにしたって物理的な迫力不足はどうにも補えません。

 翻って考えてみれば、セイバールートや凛ルートにはこうした問題点(内容の詰め込みすぎ、盛り上がりに欠ける地味な展開)が全く見受けられません。

 (仮にこの桜 True End を作品の全体結論とみなすとしても)、『超一流の作り上げ方』をしたのなら、『超一流の壊し方』をしなければならなかった。それが出来なかったということがこのルート自身の説得力の弱さに繋がり、さらにはこの True End の納得感や満足感の薄さに繋がっているのではないでしょうか?

 つまり、桜 True End の問題を端的にまとめれば、以下の通りになります。

 では、第 3 ルートの作りや出来栄えさえ良ければ 桜 True End は作品の全体結論となり得たのか? というと、それもまた難しい問題です。

桜ルート True End を全体結論だとみなす場合の問題点

 桜ルート True End を Fate/stay night の作品の全体結論だとみなす場合、以下の 2 つの問題が残される事になります。

 以下、順番に説明します。

■ 作品全体の結論として見た場合の True End の歪(いびつ)さ

 士郎は桜 True End で確かに「あらゆるモノ」から桜を守りました。が、本当に「あらゆるモノ」から桜を守ってしまっています。

 特に 2 点目に関しては、人により相当意見が分かれる部分でしょう。(個別ルート解説でも説明しましたが)、桜ルートで凛が切って捨てたように、本来、彼女が感じる罪悪感は、彼女にしか祓えないものです。士郎も言います。「―――当然だろう、奪ったからには責任を果たせ」と。しかし、桜 True End のカタチ、それはむしろ彼女が感じる罪悪感から彼女を守るというよりは、むしろ罪悪感を『忘れさせている』状態に近く、やっていることは、桜の精神的自立を阻む「飼い殺し」に近いものがあります。それは(士郎自身がどう感じているのかはともかく)、傍から見るとどうにも落ち着きの悪い愛のカタチであり、好みが分かれるところでしょう。

 つまり、一歩引いた第三者的な大局的倫理観からすれば、桜 Normal End の方が腑に落ちる。しかし、「桜だけの正義の味方、あらゆるモノから桜を守る」ことを士郎が貫き通した形としては True End の方が適切である、という相反がそこにあるわけです。

 先に書いた通り、桜ルートの『個別結論』として True End が腑に落ちるものであったとしても、大局的な倫理観に欠ける True End をもって「これが Fate/stay night の本質的結論です」と言われても、やはり素直には受け止めにくい人が多いでしょう。

■ 桜ルートではまだ解決されていない問題

 こうした意見に対して、「いや、『ただ一人を守る』というホンモノの信念を示したことが Fate/stay night の作品の本質なのだ」という反論をぶつけてくる方々もいると思います。しかしその反論は、最も基本的なところを見落としています。それは、そもそもこの作品の第 3 ルートまででは「信念の取り方についての妥当性が議論されていない」という点です。

 ここでもう一度、凛ルートから桜ルートへの流れを思い返してみてください。この流れでは、「実践が伴っていない口先だけの信念」が否定されているだけで、「借り物の一般論的な社会的正義感が信念として間違っている」などとはどこにも示されていません

 凛ルートと桜ルートの二つを比較してみると、その「信念」と、その「原因」「理由」について、以下のような対比が成立します。

  凛ルート 桜ルート
士郎の信念 みんなの正義の味方であり続ける 桜だけの正義の味方であり続ける
原因(その信念を採用することになったきっかけ) 切嗣の死に際に寄せられた信頼を守りたかった 桜の過去と現在を知り、桜の笑顔を守りたくなった
理由(士郎がその信念を維持し続けられる理由) 「誰もが幸せであって欲しい」と願う感情は、士郎にとって疑う必要すらない当たり前の感情であるため 個人的感情として、桜のことが好きであるため

 どちらの場合も、その信念の『正当性』(正しさ)を保証しているのは、「士郎自身の思いあるいは感情の強さ」であり、どちらの場合も、その先にさらなる『根拠』や『論拠』は存在しません。単に、桜ルートの士郎にとって、実践を伴うことのできる信念が『桜だけの正義の味方』であった、というだけであって、『みんなの正義の味方』であろうとすること(=凛ルートの士郎の在り方)が間違いである(or 偽物である)、とはどこにも示されていません。

 つまり、「個人的な感情(無根拠だが力強い思い)によってその正当性が支えられている」という意味において、どちらも信念の取り方としては正解であり、間違いではありません。(だからこそ、第 2 ルートの士郎の信念を指して「ウソ」あるいは「間違い」と称することを避け、「借り物」という微妙な表現を使っているのでしょう。)

 つまり、桜ルートまででは解決されていない問題があるのです。それは、

「適切な信念の取り方、あるいはそのバランスの良し悪し」

です。第 2 ルートの士郎の信念の在り方と、第 3 ルートの士郎の信念の在り方はあまりにも両極端ですが、そのどちらが正しいのか? あるいはそれらをどうバランスさせるべきなのか? についてはどこにも示されていないのです。

 ……となると、むしろ作品全体を束ね、全体結論を与えるハズの第 4 のルートが欠けている、と考えた方が納得がいくのではないでしょうか?

欠落している全体結論 〜 失われた第 4 のルート?

 上述したように、もし第 3 ルートが第 2 ルートの信念の内容そのものを覆すものでなかったとするのなら、(作品展開が一本道であったとしても)、テーマ的な構造としてはこの二つのルートは並列であるとみなせます。つまり、作品のテーマ的構造をイラストとして示すと、次のようになると考えられます。

 このような位置付けで第 4 ルートが存在していたのかどうかについては憶測を域を出ませんが、しかし、第 4 ルートが存在していた方が色々とバランスが良くなるのも事実のように思えます。例えば、以下のようなポイントが挙げられるでしょう。

 1 点目と 2 点目については、すでにここまでで説明していますので、3 点目と 4 点目について説明します。

■ バランス問題としての現実的な信念の在り方

 先に述べたように、「信念」の正当性は、理屈や論理では保証できないものですから、その寄りどころは個人としての感情や思いに頼らざるを得ません。この観点から、凛ルートと桜ルートの 2 つのルートのどちらが正しいのか? ということを一意的に決定することは出来ません。つまり、『みんなの正義の味方』(普遍的な価値観・倫理観)と『桜だけの正義の味方』(個人的な感情)については、(180 度方向性が違うとはいえ)、「どちらも正しい」、ということになるでしょう。

 確かに、二者択一的に、どちらが「ホンモノ」なのか? と問われれば、おそらく多くの人は『桜だけの正義の味方』(個人的な感情)こそが正解である、と答えると思います。しかし、それでもほとんどの人は、凛ルートをプレイし終えた瞬間には、士郎の痛ましいまでの信念の在り方に憧れ、感動もしたのではないでしょうか? 凛ルートの士郎の在り方に我々がやはり心打たれ、引かれるのは、「それが出来ないと分かっていてもそれに『憧れる』から」ではないでしょうか?

 つまり、人の心の在り方は二者択一論的なものではなく、そうした「あり得ない理想」への憧れと、「何があっても守り通したいもの」との間で、優先順位を付けつつ心のバランスを取るのが、本当の人の在り方なのではないでしょうか? 例えば、

といったように、優先順位をつけて、可能な限り全力で頑張る、というのが現実的な人の在り方であったようにも思うのです。

 そう考えると、凛ルートで示された「借り物の普遍的な倫理観」と、桜ルートで示された「個人的な思いに基づいた最優先事項としての価値観」を、二者択一論として取り扱うこと自体、非常に荒っぽいと感じます。また、例えば士郎が守り通したいものが「イリヤ」であった場合にも全く救いはなかったのか? と考えてみると、(桜ルートのように)社会に対して徹底的な反旗を翻すまでの必要はなかったかもしれない(バランスを上手く取れたのかもしれない)のではないでしょうか?

■ 「自分が楽しむ」というコンセプトの共存

 凛ルートや桜ルートからも分かるように、信念というものは力強い思いによって支えられているものであり、それを貫く際に「見返り」や「結果」、あるいは「救い」といったものを求めるべき性質のものではありません。そういう意味においてどちらのルートも「信念としては正しい」のですが、しかしそれにしたって、凛ルート True End や桜ルート Normal End に関しては、信念を貫いた先に、「士郎自身にとっての」救いがあまりにもなさすぎます。

 それは何故か、ということを考えてみると、それは、信念を与える原因(きっかけ)やそれを貫く生き方の中に、「自分が楽しむ」というコンセプトが完全に抜け落ちているためだと考えられます。例えば凛ルートの場合には、10 年前の惨劇で自分だけが助かったという負い目を感じており、桜ルートの場合には、桜の悲劇に全く気付けなかったという暗黙的な負い目を感じています。その負い目によって感じる罪悪感と、その贖罪が、彼自身の「生き方」になってしまっているわけです。そこには当然「自分が楽しむ」というコンセプトなどない。ですから、そこから派生して生まれた「信念」、それを支える「感情」もまた、必然的に救いのないものになってしまいます。

ヤツは俺に、自分たちは似ていると言った。今なら解る。共に自身を罪人と思い。その枷を振り払う為に、一つの生き方を貫き続けた。
―――その方法では振り払えないと判っていながら、それこそが正しい贖いだと信じて、与えられない救いを求め続けた。

……そう。最後だからこそ誓いを守る、ではない。
あいつはそういう風に生きてきた。今までそれ以外の道を歩かなかった。
だから、一分後に自分が死ぬとしても―――それ以外の、本当に正しい生き方を知らないだけ。

 つまり、士郎が「自分が楽しむ」という自分本位のコンセプトを導入しない限りにおいては、士郎が救われることは決してない、ということになるわけです。このことは、凛も士郎に対して指摘しています。

「―――じゃあなに。アンタ、自分の為に魔術を習ったんじゃないの?」
「え……いや、自分の為じゃないのか、これって? 誰かの為になれれば俺だって嬉しいんだから」
「あのね。それは嬉しいんであって楽しくはないのっ! いい、わたしが言ってるのは衛宮くん自身が楽しめる事よ。まわりがどうこうじゃなくて、自分から楽しいって思える事はないのかって訊いてるのっ!」

 ただ、ここで注意しなければならないのは、「自分が楽しむ」というコンセプトと、「他人のため」というコンセプトは、別物であっても相反するわけではない、という点です。第 2 ルートの士郎は、誰かのために何かをしたいと思う気持ちは当たり前じゃないか、と言いますが、実際その通り。士郎の場合、他人に対して感じる責任感、義務感、罪悪感は、「他人が幸せであって欲しい、そのためだったら頑張れる」という士郎の感情と表裏一体のものであり、それは士郎の人としての美徳の根源に他なりません。

 ただ問題なのは、「他人のため」に偏りすぎると、凛ルート True End や、桜ルート Normal End のように、(第三者的に見た場合に)救いのない結末に陥ってしまう、ということなのです。

 かといって、贖罪や救いをすべて捨て、「自分のため」に偏りすぎても、第三者的に見て救いのない結末に陥ってしまいます。それが桜 True End です。桜 True End の場合には、最後の土壇場で、自らを犠牲にした贖罪と、そこに救いを求める生き方を捨て、かわりに自分本位のみの生き方を手に入れます。

約束をした。全ての事から桜を守ると。
俺は勝手に消えていい命じゃない。
桜を―――桜と一緒に、生きていきたい。

 しかし、それは「すべての」責任、義務、罪悪から自らを解放するということでもあり、士郎の人としての美徳をも捨ててしまっていることになります。ここでも、「自分のため」と「他人のため」という二つのコンセプトが二者択一論的に扱われてしまっており、それを共存させることができていません。これでは、全体結論としての説得力、納得感に欠けるように思えます。

 このように考えると、第 4 ルートの中で、士郎が人としての美徳を持ちつつ、それでいながら自分本位の「自分が楽しむ」というコンセプトを確立し、それらをバランスを取りながら両立させていく方が、作品のグランドフィナーレとしては望ましい、ということになるのではないでしょうか。

 仮定の話ではありますが、もし桜ルートの先に、普遍的倫理観と個人的感情をうまくバランスさせ、個人的な感情を突き詰めた「結果」として、たまたま『全員』が救われているようなルートが描けたのなら、多少展開に無茶があってもそれこそが大団円だったのではないか? そして「普遍的価値観」と「個人的感情」をうまく融合させる鍵を担うのが、「自分が楽しむ」というコンセプト(生き方)であったのなら、士郎自身も救われる、見事なストーリーとなっていたのではないか? ……それこそ理想論にすぎないのかもしれませんが、私にはそのように思えるのです。

 そして、そのような第 4 ルートが存在した場合には、遠坂 凛というキャラクターが物語の突破口となりうるように思います。凛ルートや桜ルートを見れば分かる通り、彼女は士郎や桜の遥か彼方先に存在する、清濁併せ飲むキャラクターです。何の苦もなく、意識することすらなく、一人だけの正義の味方も、みんなの正義の味方もやってのけてしまう。最も冷徹でありながら、最も人情に富み、最も信頼関係を重んじる。闇も光も入り混ざったカタチでバランスよく整い、それでいながら「自分が楽しむ」ことも知っているし、自ら新しい道を切り開いていく力強さも持っている。さらにはそんな自分の在りようそのものに誇りを持っている。それはまさに、Fate/stay night という作品が提示してきた様々な問題の先に存在する『解のカタチ』そのものなのではないでしょうか?

まとめ 〜 未完の大器と呼ばざるを得ない悔しさ

 本ネタバレゲームインプレでは、作品解釈を起点として、存在しない第 4 ルートの可能性を示唆してみました。それが正解であるのかどうかは私には分かりません。しかし、以下の理由から、本作品はやはり『未完の大器』と呼ばざるを得ない作品であるように私には思えます。

 どちらであっても未完の大器、とまでいかなくとも、完成を急いだあまりに自滅した作品、ということになるでしょう。

 ただその一方で、そのことがここまで悔しく、本当に心惜しく思えた作品が、他にはないこともまた事実なのです。なにしろ、伏線の張り方、世界観、ストーリーライン、情報の出し方、キャラクター関係の緻密さ、テーマの深堀の仕方、それぞれのセリフに篭められた思い、美しすぎる筆致などなど、プラス要素を挙げだすとキリがない作品なのです。

 実際、個別ルートのシナリオ解釈も、解釈すればすれほど味が出てくる深みを持ったシナリオであり、ここまで解釈にハマった作品は私にとって AIR 以来と言っても過言ではありません(ちなみにファイルサイズで比較してみても、このサイトの最長インプレである AIR ゲームインプレッションとほぼ同サイズあります)。このインプレも纏め上げるのに 1 週間以上かかっていますが、それほどまでに味があった作品など昨今類を見ません。それだけに、未完の大器と呼ばざるを得ないのが悔しくてたまらないのです。

 私は普段ファンディスクでの補完など決して望まない人間なのですが、この作品に限って言えば、もし第 4 のルートが存在していたのであればファンディスクでそれを補完して、この作品を真の意味で完結させて欲しい、そう願って止みません。一人のファンとしての、わがままな希望なのかもしれませんが……。

Special Thanks

 このネタバレゲームインプレッションをまとめるにあたっては、本サイトの掲示板での意見交換が大変役立ちました(順不同)。特に、自分と異なるご意見を多数示していただいたことが、私自身の作品理解を深めていく上でとても参考になりました。

 この場を借りてお礼申し上げます。皆様、ありがとうございました。


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