Fate/stay night @ セイバールートシナリオ解釈


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セイバールート:セイバーが求めた、誇り高き『自らの心の在り方』

 セイバールートは、1 巡目として無理なくそつなくまとめた綺麗なストーリーになっており、特にセイバーの気高さが際立ったシナリオになっています。研ぎ澄まされた文章の筆致と相まって、気品に満ちた美しさを帯びていると思います。

 セイバールートに関しては、Good End(すなわちセイバーがこの世に留まって士郎と結ばれるエンディング)を求める声も少なくないようですが、士郎がセイバーに惚れた理由を突き詰めて考えれば、そのようなエンディングはあり得ない(存在してはならない)ものだということは明らかです。それを示すために、アーサー王であるセイバーが求めた、尊き誇り『自らの心の在り方』について考えてみることにします。

■ アルトリアが切り捨てたモノ

 本編中で語られるように、少女であったアルトリアの願いはただ一つ、「ただ、みんなを守りたかった」ことだけでした。その願いをかなえるため、セイバーは常に最善の策を取り続けました。「少数を切り捨て、大多数を助ける」という最善の選択に支えられた奇跡の快進撃。それは確かに最善かもしれませんが、切り捨てられた少数の人々のことを思えば、気持ちの上では決して許されてはならない行為でしょう。しかしそれでもそうしなければ、人々を助けられないという矛盾。つまり、「みんなを守るためには、少数を切り捨てなければならない」という事実を受け入れなければ、国王という責務は務まりません。

「―――多くの人が笑っていました。それはきっと、間違いではないと思います。」
「奇蹟には代償が必要だ。君は、その一番大切なものを引き替えにするだろう。」
そう。少女はただ、みんなを守りたかった。けれど、それを成し遂げる為には”人々を守りたい”という感情を捨てねばならなかった。……人の心を持っていては、王として国を守る事などできぬのだから

 それでも、そのことを知りつつも、アルトリアはそれを受け入れます。つまり、人としての心を切り捨て、それを引き替えにしてみんなを守ることを望みました。彼女は情を切り捨て、自らの一般的な幸福(例えば士郎と結ばれて幸せに暮らすことなど)も切り捨てて、非情な国王として君臨したわけです。それは決して、並大抵の覚悟では出来ないものでしょうが、その『覚悟』こそが、アーサー王をアーサー王たらしめているものなのです。

■ セイバーの『誇り』とは何か

 アーサー王であるセイバーの心の在り方を理解するためには、そもそも『誇り』とはどんなものなのかを理解する必要があります。

 よく誤解されがちなのですが、「誇り(プライド)」とは「自尊心」のことであり、「見栄」のことではありません。基本的に、プライドや誇りというのは、『自分を尊び、他からの干渉を受けずに品位を保とうとする心理や態度』のことであり、そのベクトルは「自分の心のありよう」、すなわち自分の内側に向けられるべきものです。

 例えば「プライドが傷つけられた」という表現がありますが、これは妙な話です。本来、他人からどう言われようと「自分はこうあろう」と思う気持ちこそがプライドの本質です。価値観の異なる人たちから自分のプライドを「侮辱」されることはあるかもしれませんが、「傷つけられる」ことは本質的にありえません。もし他人によって傷つけられるのであれば、それはプライドではなく、「見栄」と呼ぶべきものでしょう。

 本作品中の言葉を借りるのであれば、『自分に対して立てた誓いをきちんと守り通そうとすること』、それが誇りやプライドの本質です。セイバーの持つ気高さの本質はここにあります。

 では、セイバーにとっての『誇り』とは何か? それは、彼女が自らの意思で国王になったこと、すなわち、国王としての誓いそのものにあります。自らを捨てても国を守ろうとする思い、それを貫き続けんとする誓い、それこそが彼女にとっての最大の誇りなのです。士郎がセイバーのことをただひたすらに美しいと思ったのは、まさにその誇りの在りよう、心の持ちようの美しさに惹かれたからに他なりません。

■ セイバーが一番欲しかったモノ

 しかしアーサー王としてのセイバーの行く末には悲劇的な破滅、自らの国の滅亡が待っていました。最後の最後に結果を出し切れなかったセイバーは、すべての原点、すなわち自分が王になったことそのものが過ちだっただと考え、すべてをやり直すために聖杯を欲しました。(注意:ここだけ見ると、セイバーが一番欲しかったモノは「国の平和」に見えるかもしれませんが、それは間違いです。以下にそれを解説します。)

 ところが、士郎はその考え方そのものが間違っていると指摘します。起きてしまったことをやり直してはならない、現実を覆さず、その痛みと重さを抱えて進むことが失われたモノを残すということ、やり直したいなんてのは我が儘だ、というのです。彼女はこれを聞いて決定的に反発するのですが、最後には士郎の言う通り、やり直そうとする行為そのものが誤っていたことに気付きます。なぜなら、彼女が自らに立てた誓い(人の情を捨てて国王としてあろうとする誓い)を守り通すということは、その悲惨な結末までひっくるめて受け入れる、ということでもあるから。彼女が唯一誇れるもの、それは自らに立てた誓い、王になろうとした意志そのものであり、それこそが彼女が一番欲しかったものだからです。

「―――聖杯は欲しい。けれど、シロウは殺せない。」
「聖杯が私を汚す物ならば要らない。私が欲しかったものは、もう全て揃っていたのだから。」
……そう、全て揃っていた。騎士としての誇りも、王としての誓いも。アルトリアという少女が見た、ただ一度のとうといユメも
その言葉を、確かに聞いた。聖杯を求めていた彼女の告白。そんな物は必要ないのだと告げた、迷いのないその言葉を。

 つまり聖杯を手に入れてリセットをかけるということは、自らの誓いと誇りを捨てることであり、それは彼女自身を汚すものに他ならないのです。だから、最後にセイバーは言うのです。聖杯が自分のあり方を汚すものであるのなら、たとえそれがすべてをやり直せるものであっても、そんな物は要らない、と。

 彼女が本当に欲しかったモノ、それは幸せな国を夢見て、それを目指すために自らに立てた誓いを貫き通そうとする、誇り高き『自らの心の在り方そのもの』だったのです。

■ 士郎とセイバーの二人が守り通したモノ

 そのことを踏まえて考えれば、本ルートに、セイバーを現世に留めて二人が結ばれる Good End が存在し得ない(存在してはならない)ということも明らかです。

 士郎は、セイバーが報われないということを知りながらも、その生き方そのものの鮮やかさ、美しさ、心の在り方に惹かれました。もし仮に、彼女を現世に留め、士郎と共に生きてしまったら(=彼女が一般的な幸福を取り戻す)、それは彼女が自らに立てた誓いや彼女の誇りを汚すことになります。それはセイバーを殺すことであり、その生涯を否定することであり、端的に言えば士郎の我が儘に他なりません。セイバーは「人の心(=一般的な幸福)」が欲しかったのではないのです(それは意地の張り合いであったかもしれないけれど)。

 自らを賭しても「正義の味方」であろうとする士郎。自らの心を捨てても「国の人々の平和を守る王」であり続けようとするセイバー。二人はお互いに、自らに立てた誓いを精一杯守り通そうとする、その誇り高き姿に惹かれ合ったのです。

あの別れには、全てがあった。
俺がしたかった事。あいつが夢見たもの。
それは意地の張り合いで、本当はあいつの手を捕まえて、少女の夢を叶えるべきだったのかもしれない。
それでも―――お互いが美しいと感じたものがあって、それを必死に、最後まで守り通した

 二人は互いが惹かれた理由でもある、「お互いが美しいと感じたもの」(=誇り高き姿)を最後まで守り通すために、別れた。それは、愛する者を最も愛するが故の必然の結末です。名残はあれど、悔いはない。それがこのセイバーの True End なわけです。

 このルートで士郎がセイバーから学んだこと。それは、己を賭しても守るべき信念の尊さ、自分が信じたものを守り通すことの大切さに他なりません。それはすなわち、信念の何たるかを理解することだと言えるでしょう。

 このように、セイバーは最後まで、自身が立てた誓いである「王としての責務をまっとうすること」を果たしました。たとえ結末が滅びであっても、その誓いは最後まで守られ、過去を誇り、その先にある結末を受け入れたわけです。

 しかし士郎の側は、信念の大切さを知り、正義の味方であろうとすることを選び取るに留まっています。つまり、セイバーとは異なり、彼が選んだ「正義の味方であろうとする」ことの信念の先にある「悲惨な結末」を受け入れることは出来ていません。士郎はあくまで傍観者としてセイバーの行く結末を見るに留まり、自らの行く先にとんでもなく悲惨な結末があることなど考えすらしていない、というわけです。

 士郎がセイバーと同じように、自ら選択した信念の先にある「悲惨な結末」を受け入れることが出来るかどうか、それを見せられても突き進むだけの覚悟が出来るかどうか? それが次の凛ルート(アーチャールート)で問われることになります。

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