Fate/stay night A 凛ルートシナリオ解釈


※ 直リンクで飛ばれてきた方々へ → 作品全体のインプレページはこちらです。

凛ルート(アーチャールート):それでもなお信じ続けることの大切さ

 さて、第 2 ルートはヒロインこそ遠坂 凛ですが、テーマ的側面から考えると、このルートはむしろ英霊エミヤと士郎とが対決することにこそ最も重要な意味があります。先に書いた通り、未だ士郎が成し得ていない『悲惨な結末との対峙』、そしてそれとの対決、すなわち英霊エミヤ vs 士郎戦がこのシナリオの一番の見どころと言えるでしょう。

 しかしそのシナリオを詳細に紐解いて行き、英霊エミヤ vs 士郎の構図の中で遠坂 凛というヒロインがどういう役割と位置付けを担っているのかを理解すると、このルートの見事なまでの作りの良さが見えてくるはずです。この出来の良さは名実ともに歴代ぶっちぎりの No.1 シナリオではないかとすら思うほどです。

 ここでは、まずは英霊エミヤがなぜ士郎を恨んでいるのか、そして英霊エミヤが士郎になぜ負けてしまうのか、さらにその構図の中で凛がどういう位置付けを担うキャラなのかを考えてみたいと思います。このシナリオの魅力全てを解き明かすことは私には出来ませんが、その片鱗だけでもお伝えできればと思います。

■ 英霊エミヤが士郎を恨むワケ

 英霊エミヤの『望み』は、自分の発端である衛宮士郎を殺すことですべてを清算することでした。しかし英霊エミヤがなぜそこまで士郎を恨むようになったのか? ここを理解しておくとこのシナリオの意味を紐解きやすくなると思います。まずは英霊エミヤが今のような姿になり、士郎を恨むようになった経緯をまとめてみます。

 最初の士郎が目指したもの、それは「誰も殺さず、誰も裏切らず、みんなの正義の味方をしよう」なんていう、決して実現し得ない甘すぎる戯言、借り物の理想でした。しかし士郎も大人になるにつれて自らの甘さと現実を知り、借り物の理想を自らの理想、信念として受け入れ、そして切嗣と同じような道を辿っていくことになります。つまり、最小限の犠牲で最大限の幸福(結果)を追い求めるようになっていくようになるわけです。(実際、アーチャーとして現れた英雄エミヤは、「自らの甘さで誰も救えない」状況に陥ることがないよう、時として裏切りによる汚名すらも辞さず、最大限の『結果』を出すような行動を取っています。)

「そう、席は限られている。幸福という椅子は、常に全体の数より少なめでしか用意されない。その場にいる全員を救うことなどできないから、結局誰かが犠牲になる。
―――それを。被害を最小限に抑える為に、いずれこぼれる人間を速やかに、一秒でも早くこの手で切り落とした。それが英雄と、この男が理想と信じる正義の味方の取るべき行動だ。」

 しかしそうなっても、なお彼は人々の中から犠牲が出ることを望まず、真っ先に自分を犠牲にし、人々の幸福を望みました。その行き着いた先は、救ったはずの男に罪を被せられ、争いの張本人と言われて最後には絞首刑により殺されるという、あまりにも報われない結末。それでもなお彼は、自らの理想を捨てず、自分を犠牲にし、ついには英霊にまでなってみんなの正義の味方であろうとしました。

 しかし英霊としていくら働いても、つまりどれだけ最小限の犠牲を払って最大限の幸福を追い求めても、みんなが幸せだという結果は得られず、それに近づきすらせず、争いが絶えることはありませんでした。(凛の言うように、それが人間の本質なのだから当たり前と言えば当たり前です) しかも彼が英霊として呼び出される先は、人間自らの手によって破滅の危機に追い詰められたような場所ばかり。さらにそこで彼がやることはといえば、人間に害を成す人間を粛清するという、人間が仕出かした罪の後始末。それは人助けなどではなく(=すでに死んだものを生き返らせることなど出来ない)、まさしくただの「掃除屋」と呼ぶに相応しい、悪しき人間の粛清作業、後片付けでした。

 英霊になった後はもっと多くの命が救えると信じきって。―――なんて、バカ。そんなことあるはずない。だって、英霊が呼び出されるという時点で、そこは死の土地と化しているんだから。
 英霊、守護者が現れる場所は地獄でしかない。彼らは世界が人の手によって滅びる場合のみ出現する。人間は自らの業によって滅びる生き物。だから、滅びの過程はいつだって同じはずだ。

 人を助けるために人を殺し続けるという皮肉、それはまさに彼自身が言うように「道化」以外の何者でもありません。追い求めた理想である「誰もが幸せである世界」など決して存在し得ない幻想(理想郷)であるということ、その事実を英霊という永久の時の中でずっと突き付けられ続けるのです。いくら英霊エミヤが理想を追い求める心を持っていたとしても、その心を永久に保ち続けることは不可能に近いでしょう。まさしく、彼は自らが信じた理想に裏切られたわけです。

「だが間違えるな。おまえが気取る正義の味方とは、ただの掃除屋だ。その方法で救えるものは、生き残った者だけと知れ。その方法では哀しい出来事、悲惨な死を元に戻す事は出来ない。
―――もともと、それが限界なのだ。正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片付けるだけの存在だ。」

 その結果として、アーチャーは道を見失い、二つのものを恨むことになります。

「オレはただ、誰もが幸福だという結果だけが欲しかっただけだ。―――だが、それが叶えられたことはない。生前も、その死後も。」
その果てに憎んだ。奪い合いを繰り返す人間と、それを尊いと思っていた、かつての自分そのものを。

 すなわち、一つは人間そのもの、すなわち、いつまでたっても奪い合いを繰り返すことをやめない、人間の本性そのものを。そしてもう一つは今の自分に至った原点としての自分、すなわち「みんなの正義の味方」なんていうあり得ないモノを尊いと思っていた、かつての自分そのものを恨むことになります。

■ 「みんなの正義の味方」であろうとすることの何が悪いのか?

 英霊エミヤは、過去の自分を恨み、再三に渡って士郎の理想のカタチを非難します。しかし、「みんなの正義の味方であろう」とする士郎の理想の一体どこが悪いというのでしょうか? 英霊エミヤが士郎を非難したポイントを一言でまとめれば、「士郎の言っている『正義の味方』とは、実の伴わない、他人から借りた理想論である」、ということに尽きます。

 実際、士郎の言う『正義の味方』は、実を伴わない戯言です。例えば、士郎は「犠牲者を出したくない」「すべての人間を助ける」などというあり得ない理想を掲げますが、そんなことは決して実現できません。例えば衛宮切嗣は、正義の味方を次のように定義しています。

“士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ。”

 何かを救うためには何らかの犠牲を払わなければいけない、ということ。もちろん全ての人を助けられる稀なケースも存在するでしょうが、ほとんどの場合には必ず何らかの取りこぼしが出てしまう。それを認めずに、「みんなを殺さずにみんなを生かしながら救う」などといった、現実的に不可能な理想を追い求めると、すべての人が死んでしまうという最悪な結末に陥ることだってあり得る。その場合には、人を守ったのではなく、己の理想を守って最悪の結末を導いた、ということになってしまいます。(だから、英霊エミヤは士郎のことを指して「理想を抱いて溺死しろ」と切って捨てたのです。)

 取りこぼしが出てしまうことを認める覚悟はもちろん、それにより生まれる罪も罰も背負うだけの覚悟もない。そんな当たり前の覚悟も出来ないくせに、「正義の味方」が本当に自分の理想などと言えるのか? とエミヤは問うわけです。

 では、なぜ士郎の言う「みんなの正義の味方」はこれほどまでに戯言なのか? それは、士郎の言う「正義の味方」が、他人からの借り物の理想に過ぎない(=自分の理想になっていない)からです。もともと士郎がここまで執拗に「正義の味方」に拘った理由は、幼い士郎にとって憧れの全てであった切嗣の信頼を、いつまでも守りたかったからでした。

なぜ正義の味方になりたいのか?
そこまで口にして、はた、と気が付いた。
……そんなの、どうしても何もない。
衛宮士郎は子供の頃から正義の味方に憧れている。
誰かの為になれるように、自分のできる範囲で、悲しんでいる人を助けるのだとやってきた。
それは昔も今も変わらない。けれどその原因。俺が、”誰かの為”になろうとした理由はなんだったのか。
「爺さんの夢は、俺が―――」
それが答えだ。おそらくは、自分にとって全てだった人の最期。
なんでもない自分の一言で、安心したと遺して逝った。
……その信頼を、守りたかった。
こうして、彼が消えてしまった後も。その安らぎが、彼にずっと続くようにと。

 しかし、「誰かの為になろう」「正義の味方であろう」というのは、気持ちだけで成し得るものではありません。士郎の場合、戦うことこそ決意したものの、やっていることは戯言そのもの。それは彼の甘っちょろい理想を見れば一目瞭然で、とても覚悟が出来ているとは言えません。

 つまり、英霊エミヤが再三に渡って指摘しているのは、士郎の言う理想の戯言ぶりであり、偽善ぶり。「死んだ人たちのために」「切嗣のために」「誰かの為になろう」「正義の味方になろう」などといった、「他人のために」「他人に何かをする」という、自分というものの介在しない理想(借り物の理想)では、いつまでたっても自分を叶えることなどできない、と切って捨てるのです。

「戦う意義とは、何かを助けたいという願望だ。少なくともおまえにとってはそうだろう、衛宮士郎。だが他者による救いは救いではない。人を叶えるのは本人の意思と結果だけだ。他人による救いなど、そんなものは金貨と同じだよ。使えば、他人の手に回ってしまう。」
「だから無意味なんだ、おまえの理想は。確かに”誰かを救う”などというおまえの望みは達成できるだろう。だがそこにはおまえ自身を救う、という望みがない。おまえはおまえの物ではない借り物の理想を抱いて、おそらくは死ぬまで繰り返す。」

 そんな借り物の信念に振り回された挙句に行き着いた先、それが今の英霊エミヤ。だからこそ英霊エミヤは、借り物の理想を信じ込み、今に至ってしまうことになった原点たる自分(士郎)のことを激しく後悔し、恨むのです。英霊エミヤが再三に渡って士郎の間違い(士郎の信念の甘さと、その出どころが他人であること)を指摘し、かつての自分を否定しようとしたのはこのような理由によると考えられます。

■ 「それでもなお信じること」の大切さ

 ところが、自分の理想(=誰もが幸福な世界)があり得ない理想(=夢)であり、しかもその理想が借り物であり、さらにその先が全く報われぬ英霊エミヤという姿であるという、絶望的なまでの事実と結末、身も蓋もない真実を見せ付けられても、それでもなお、士郎は英霊エミヤへと挑んでいきます。士郎 vs 英霊エミヤ戦、それはこの二人の信念のぶつかり合いに他なりません。

「―――そうだ。こんなのが夢だなんて、そんな事」
とっくの昔から、知っていた。
それでも、それが正しいと思うから信じつづけた。
叶わない夢、有り得ない理想だからこそ、切嗣は追い続けた。
たとえ叶わなくとも。走りつづければ、いつか、その地点に近づけると。

「―――おまえには負けない。誰かに負けるのはいい。けど、自分には負けられない――!」

出鱈目に振るわれた、あまりにも凡庸な一撃。
……だというのに。その初撃は、今までのどの一撃よりも重かった。

 英霊エミヤが指摘した士郎の過ちと間違い。そんなことは士郎はとっくに分かっていた。偽善や偽物だということも分かっている。それでもなお、『誰もが幸福な世界』を夢見ること、『誰もが幸せであって欲しい』『正義の味方でありたい』と思う気持ち、そう生きられたらどんなにいいだろうという憧れ。士郎の理屈は出鱈目としか言いようがない。でもそれらは絶対に否定できない、間違いなんかじゃない、という『信念』を持って振るわれた一撃。だからこそその一撃は、今までのどの一撃よりも重たい一撃だったのです。

「……間違い、なんかじゃない……!」

頭にあるのはそれだけだ。
衛宮士郎が偽者であっても、それだけは本当だろう。
誰もが幸せであってほしいと。
その感情は、きっと誰もが想う理想だ。
だから引き返す事なんてしない。
何故ならこの夢は、決して。

「―――決して、間違いなんかじゃないんだから……!」

 英霊エミヤと士郎との戦いがこうも迫力に満ちていて熱く感じられるのは、それは力のぶつかり合いに信念のぶつかり合いが投影されているからです。

 士郎にとっての英霊エミヤとは、自らの理想を打ち砕こうとする『現実』の象徴。理想を追い、希望を信じる心のカタチ。
 英霊エミヤにとっての士郎とは、今一度確認すべき自らの原点にあった『理念』の象徴。現実と絶望を知り、後悔の念に満ちた心のカタチ。

 士郎には、自分の思いの正しさを信じ、前に向かおうとする信念がある。
 英霊エミヤには、実際に後悔の年月を積み重ねてきたという実績に基づいた信念がある。

 そもそも信念というものは、その正当性を論理的に示せるものではありません。その正当性を保証するもの、それは自らの心の強さでしかあり得ないのです。どんなに他人からツッコまれようとも、それでもなお無根拠に、理由もなく、胸を張って「間違いなんかじゃない!」と自分自身に対して言い切れるもの、それこそが本当の信念というものです。そのことを踏まえて考えれば、この戦いにおける士郎の勝利の意味とは、その思いがホンモノだということを自ら(自分自身と英霊エミヤ)に向かって示せたことにある、と考えられるわけです。エピローグで語られる以下のモノローグは、まさにそのことを端的に示しています。

あれは、初めから有り得ない出来事だった。
ヤツも俺も、あんな戦いで何か変わると信じていたわけではない。
ただ自分を確かめる為に、自分の影を叩きのめそうとしただけだ
だから勝利したところで得る物などない。
そんなものは初めから、病的なまでに張り付いて離れない。
負ければ終わり、勝ったところで賞品はなし。

■ 英霊エミヤが士郎に勝てない理由

 このように、士郎 vs 英霊エミヤ戦は、信念のぶつかり合いという観点から解釈するとすっと読み解ける要素も多く、基本的にはこの線に沿って読み解けばこのシナリオを十分に味わうことができると思います。

 ただ、さらにもう一歩踏み込んでこのシナリオを味わうためには、この二人の戦いが、士郎の勝利ではなく、英霊エミヤの敗北で終わったという点に着目する必要があるように思います。

 英霊エミヤは士郎に胸を貫かれましたが、それでもセイバーが指摘したように、サーヴァントなのだから十分に反撃は出来ました。にもかかわらず、英霊エミヤは士郎に反撃しなかった。つまり、自ら敗北したのです。これは何故か? ここのところが分かると、このシナリオにおける凛の役割がはっきりしてくると思います。

 実はこのシナリオにおいて、英霊エミヤは自分の行為(士郎を殺そうとすること)それ自体が八つ当たりであることを自覚しています。以下がそのテキストです(一部省略)。

「……それは嘘です。たとえそうなったとしても、貴方ならばその”誰か”を自分にして理想を追いつづけたのではないですか? 貴方は理想に反したのではない。守った筈の理想に裏切られ、道を見失っただけではないのですか。そうでなければ、こんな―――自分を殺す事で罪を償おうなどとは思わない。」
「オレが自分の罪を償う? バカなことを言うなよセイバー。償うべき罪などないし、他の誰にも、そんな無責任なものを押し付けた覚えはない。」
「―――これはただの八つ当たりだ。くだらぬ理想の果てに道化となり果てる、衛宮士郎という小僧へのな。」

 これから分かるように、実は、英霊エミヤは原点たる自分(士郎)を殺すことで自らの罪を清算しようとしているのではない。なぜなら彼自身も、みんなの正義の味方なんてのが在り得ないこと、それでも夢を目指すことの大切さをよく知っているからです。それでもたまには自分の信念に対して、これで本当に良かったのか?と疑念や迷いを感じることもあるでしょうし、報われない道化と成り果てた自分を見てやりきれなくなり、八つ当たりをしたくなることもあるはずです。(それは人としての当然の迷いである、と言ってもよいでしょう。)

 だからこそ、先に書いた通り、英霊エミヤにとっての士郎とは、今一度確認すべき自らの信念の原点にあった、『理念』の象徴なのです。そのことを踏まえて考えれば、彼が士郎に勝てなかったのは当然です。なぜなら、士郎は「それでも正義の味方であろうとする気持ちそのものが大切なんだ」ということを剥き出しにして戦ってくるからです。だから士郎(=理念を持っていたかつての自分)に(負けることはなくても)勝てるはずがないのです。

 しかし英霊エミヤが士郎に「負けた」真の理由は、さらに別のところにあります。英霊エミヤがかつての自分に立ち戻り、士郎の信念を認めてしまった理由、そのきっかけを与えたのが、実はこのルートのヒロインである遠坂 凛なのです。英霊エミヤは士郎に敗北したとき、自らこう言い出します。

「……まったく、つくづく甘い。彼女がもう少し非道な人間なら、私もかつての自分になど戻らなかったものを。」

 英霊エミヤのこのセリフの真意はどこにあるのでしょうか?

■ 英霊エミヤにとっての遠坂 凛

 結論を先に書いてしまうと、このゲームにおける遠坂 凛とは、英霊エミヤや士郎がたどり着くべき一つの理想の姿なのです。彼女はまさに清濁あわせ飲み、何の迷いもなく、鮮やかに正義の味方で在り続けることができる。そんな彼女に出会い、共に過ごしたことが、英霊エミヤがかつての自分に戻るきっかけを与えているのです。

 凛はご存知の通り、魔術協会が特待生として迎え入れようとするほどの若き天才魔術師。士郎もまた密かに憧れを抱いていた、才色兼備の学園一の優等生。そんな彼女の魅力は、その中身の多彩さとバランスの良さから次々と生まれてきます。

 彼女は、聖杯戦争に勝利するためには手段を選ばない、と言います。その計算高さも様々なところで見て取ることができるし、桜のことも「バカな娘」だと一刀両断した上に、彼女の過ごしたあまりに酷い日々を「理解しようとも思わないわ」とまで言ってのけてしまう。にもかかわらず、死にかけている士郎を切り札である父の形見のペンダントを使ってまで助けてしまうし、いつだって妹のことを気にかけているし、最後の最後で桜を殺すことも出来ませんでした。

 たいていのことはうまくやってのけてしまう。仮に失敗してもいつまでも挫けない。無茶なことは無茶と諦め、無理に結果を求めない割り切りの良さもある。それでも努力することの大切さを人一倍強く感じている。努力が報われないことがあることを理解しながらも、報われて欲しいと願わずにはいられない。計算を重ねて戦略を練る割には、押さえきれない激情でとんでもないことをやらかしてしまうこともある。最も冷徹でありながら、最も人情に富み、最も信頼関係を重んじる。ある意味、矛盾だらけの行動。しかしそれらの闇も光も、彼女の中には入り混ざったカタチでバランスよく整っているのです。

 さらにそれだけでなく、彼女は士郎やエミヤ、セイバーと違って「自分が楽しむ」ことも知っているし、自ら新しい道を切り開いていく力強さも持っている。さらにはそんな自分の在りようそのものに誇りを持っています。(※彼女にとっての誇りは『自分の在り方』そのものであり、セイバーや士郎、エミヤのように、心の在り方や自らの誓いに対して誇りを感じているわけではない、というのも象徴的です。)

 一見するととっつきにくいけれども、その内実は非常に人間味あふれた性格の持ち主。そしてその在りようは、セイバーや士郎、エミヤなどの悩みや迷いを越えたその先にすでに存在している。それが遠坂 凛というキャラクターなのです。(そう考えると、この作品の全体構成が、凛に始まり凛に終わる、というのも象徴的ですね。)

 英霊エミヤは、凛のことを指してこう言います。

「鮮やかな人間というモノは、人より眩しいモノをいう。そういった手合いにはな、歯を食いしばる時などないのだ。……で。私見だが、君は間違いなくその手合いだ。遠坂 凛は、最後まであっさりと自分の道を信じられる。」

 凛は士郎や英霊エミヤのような悩みを越えた先にいて、悩むことも迷うこともなく、「正義の味方であろうとする」なんていう信念も誓いもなく、それでいながらあっさりと彼らが目指した「正義の味方」をやってのけてしまっている。だからこそ英霊エミヤにとって凛は眩しいのです。

 英霊エミヤにとって、凛はいつだって前向きで、現実主義者で、それでいながらとことん甘かった少女。その姿にいつだって励まされたのが士郎であり、英霊エミヤだったわけです。だから、凛に出会い、共に過ごしたことが、かつて自分のあろうとした姿を英霊エミヤに取り戻させるきっかけとなったのです。

■ 凛にとっての士郎と英霊エミヤ

 このように、士郎やエミヤにとって、凛の在り方はとても鮮やかで、憧れる存在です。にもかかわらず、逆に凛もまた、士郎や英霊エミヤに惹かれています。彼女が士郎に惹かれた理由は、第 3 ルート(Heavens feel)の 2/12 に端的に語られています。

「羨ましかったんじゃなくて、負けたって思った。自分でも無理だって判ってるのよ。何をしたって無理だって判ってるのに、ずっとそれを繰り返してた。……たとえ無駄でも。挑むコトに、何か意味があるんだって信じてるみたいにね。」
「正直、そんな無駄はわたしには出来ない。昔からそうなの。わたしは事の成否を測って、今の自分には出来ないって判断したらすっぱり手を引く性質でさ。出来ない事はやらないし、それを力不足だとか残念だって思う事もない。そのあたり冷めてるっていうか、ひどい人間なのよ、わたし。」
「けど、時々思うことだってある。事の成否なんて考えず、ただ物事に打ち込める事が出来たら、それはどんなに純粋な事なんだろうって。……ま、そんな風に迷うほど子供だった頃、いきなり自分と正反対のヤツを見せられたらショックでしょ。」

 凛は苦労したことがない、と言います。それは確かに才能に恵まれていたが故に「苦労したことがない」(or 少ない)という面もあるでしょうが、しかし自分の能力の限界を良く知っており、無理だと思っていることに無理矢理挑むような無茶な真似はしないから、ということでもあります。

 にもかかわらず凛は、どう考えても飛び越えられない高さの棒高跳びに何度も挑む士郎を見て、(自らも気付かず)その心の『在り方』に惹かれてしまいます。なぜならそうした心の在り方は、凛には絶対に持ち得ない心の在り方だからです。(でも、そんな心の在り方に惹かれることこそ、凛の持つ優しさの本質なのだと私には思えます。)

 ただし、凛は士郎や英霊エミヤの持つこうした心の在り方に惹かれてはいるものの、それだけでは凛の心の殻を破ることは出来ず、恋愛関係には発展しません。プレイヤー(士郎)の視点から見ていると気付きにくいかもしれませんが、士郎と凛は体こそ重ねたものの、実は本当の意味での恋愛関係とは言えません。凛が本当に心を開いたのは、士郎ではなく英霊エミヤだからです。

 凛はもともと意地っ張りということもあって、他人に対してなかなか自分の心の内を見せることがありません。凛にとって今の士郎は、(身も蓋もなく言えば)見ていると心配で仕方がない、手助けせずにはいられない実力不足の存在。これでは彼女が愛しさや恋心を寄せる対象にはなかなか成り得ないでしょう。

 しかしそんな彼女への最大の不意打ち、それは最後の最後に英霊エミヤの心の深さとその傷の深さを知り、裏切りも何もかもすべてみんなの幸せのためにやっていてくれたということに気付いたこと。それによって彼女の心の殻が壊され、彼女は言うべきではない言葉を口にしてしまうのです。

その、何の後悔もない、という顔に胸を詰まらされた。
いいのか、と。
このまま消えてしまって本当にいいのか、と思った瞬間、
「アーチャー。もう一度わたしと契約して」
そう、言うべきではない言葉を口にした。

 英霊エミヤに向けられたこの言葉は、その「心の在りよう」に惹かれた、凛からの初めての『告白の言葉』だったと思うのです。

 確かに、凛が士郎や英霊エミヤに惹かれたのは、二人が等しく持っていた「心の在り方」でした。けれど、実際に凛の殻を破ったのは、英霊エミヤの持っていた年輪の厚み、幾多の年を越えてボロボロになった英霊エミヤの心そのものだったのではないでしょうか。

■ 二人が交わした言葉の意味

 ここまでいろいろと書いてきましたが、以上のことを踏まえると、エピローグにおいて凛と英霊エミヤが交わす会話の意味も、すっと読み解けてくるのではないかと思います。

「―――凛」
「私を頼む。知っての通り頼りないヤツだからな。―――君が、支えてやってくれ。」
それは、この上ない別れの言葉だった。
……未来は変わるかもしれない。少女のような人間が衛宮士郎の側にいてくれるのなら、エミヤという英雄は生まれない。そんな希望が込められた、遠い言葉。

 そもそも、士郎と英霊エミヤの戦いにおいて士郎が勝つことの意味、それは借り物だった信念「正義の味方」を、自分の信念として確立することでもあります。ということは皮肉にも、結果的に英霊エミヤは士郎を育て、自分と全く同じ道を進ませてしまったことになってしまっているのです。

 もしそのループ構造に逃げ道があるとするのなら、それは凛という存在しかあり得ない。なぜなら、凛という存在は、士郎とエミヤの目指す遥か彼方先に存在している人間だから。だから、凛が士郎の傍にいて、「自分」というものを士郎に持たせることができたのなら、もしかしたらエミヤという英霊は生まれないかもしれない。そんな希望を込めて、英霊エミヤは士郎を凛に託すわけです。

 けれども、仮にそれをしても、凛が憧れ、心を寄せた英霊エミヤが救われることは決してない。だからこそ、せめて出来ることとして、英霊エミヤから託された思いを精一杯受け止め、彼に満面の笑みを返すのです。

既に死去し、変わらぬ現象(カタチ)となった青年に与えられる物なんてない。それを承知した上で、少女は頷いた。
何も与えられないからこそ、最後に、満面の笑みを返すのだ。
私を頼む、と。そう言ってくれた彼の信頼に、精一杯応えるように。

「うん、わかってる。わたし、頑張るから。アンタみたいに捻くれたヤツにならないよう頑張るから。きっと、アイツが自分を好きになれるように頑張るから……! だから、アンタも―――」
―――今からでも、自分を許してあげなさい。
言葉にはせず。万感の思いを込めて、少女は消えていく騎士を見上げる。

 彼女に残されたものは失恋の痛み。けれども、彼女は前に進む。

「―――ふんだ。結局、文句言い損ねちゃったじゃない。」
ぐい、とこみ上げた涙を拭って、もういない彼に話し掛ける。
その声は清々しく、少女はいつもの気丈さを取り戻していた。
それも当然。あんな顔をされては落ち込んでいる暇などない。

 おそらく凛はこれからも、彼から託された願い、彼から受けた信頼に精一杯応えるために、士郎の元に在り続けることでしょう。だから、凛ルートの True End でも、二人はまだ恋愛関係というよりは師弟関係。この先、士郎と凛が本当の恋人に発展するには、もう一つか二つはイベントが必要でしょうね(^^;)。

 結果的に二人がどうなったのか、それは分かりません。けれどもその先にあるハッピーエンドを期待させてくれるエピローグだからこそ、このエンディングはより一層、心に残るのではないでしょうか。

 さて、ここまで凛ルートについて細かい解釈を試みてきましたが、総じて言えば、士郎と英霊エミヤが「同一人物」であるという設定を極めてうまく使いながら、

というテーマを力強く示しつつ、そこに清濁合わせ飲む凛という少女の恋愛成長劇を見事に絡めた一作に仕上がっているのだと思います。

 特に凛の失恋を通した成長劇は、彼女を成長させてくれる年上の良い男(英霊エミヤ)という存在があったからこそ実現しているわけですが、士郎と英霊エミヤが「同一人物」であるという設定をうまく使うことによって、寝取られ的な構図を排除しています。こうした「第三者の年上の男」による成長は現実世界の中ではよくあるものの、ゲーム世界の中で描かれることは皆無といってもよく、それを嫌悪感のない形で見事にやってのけたこのシナリオはまさに稀有な存在といってよいと思います。正直なところ、本当に舌を巻きました。

 しかし、一見完璧な構成に見えるこのシナリオにも、実は落とし穴があります。それは、「士郎が英霊エミヤに勝利してしまう」というウソです。

 そもそもどうして英霊エミヤが士郎を恨むようになってしまったのか? それは、借り物と知りつつも青臭い理想論を掲げ、それを自らの信念として取り込み、それでもなお突き進んだ結果、現実に絶望し、道に迷ったからです。つまり、「理想は理想、夢は夢、実現できるものではないと知りながらも、なお道に迷った」のが英霊エミヤ。

 そんな苦難の末に辿り付いた英霊エミヤに対して、どうして士郎はそれをあっさりと「間違いなんかじゃない!」と切って捨てられるのでしょうか? それは、(厳しい言い方をすれば)士郎が英霊エミヤのような苦労や辛すぎる経験をまだ十分にしたことがないからです。だからこそ何とでも言えてしまうし、その思いとしての純度や強度も高くなるのです。

「オレは後悔なんてしないぞ。どんなことになったって後悔だけはしない。
 だから―――絶対に、おまえの事も認めない。
 おまえがオレの理想だっていうんなら、そんな間違った理想は、俺自身の手でたたき出す。」
「……その考えがそもそもの元凶なのだ。おまえもいずれ、オレに追いつく時が来る。」

 英霊エミヤからすれば、士郎が言っていることなど、実践や実績の伴わない口先だけの「子供の戯言」に過ぎないのです。

 しかし、いかに士郎の言葉が戯言であり、英霊エミヤの言うことが真実であったとしても、我々プレイヤーの願いはやはり士郎と共にあります。つまり、士郎が英霊エミヤを打ち破ることの本当の意味は、『プレイヤーの願いや思いが、現実の厳しさに打ち克つ』ことなのだと思うのです。

 だから、士郎が英霊エミヤに勝ってしまうことに我々は共感を覚えるけれども、それはやっぱり超一流のニセモノ、というのは言い過ぎにしても、少なくとも青臭い理想論に過ぎない、という側面を持っています。実際、このルートの最後にそれを端的に示すモノローグもあります。

打ち合わせたのは互いの信念。俺は自らの希望を通す為に、自らの理想と相対した。
結果はまだ出ていない。
どちらが勝ち、どちらが残ったのかは、今の自分には判らない。
答えが出るのはずっと先の話だろう。

 先に書いた通り、この戦いは英霊 エミヤがかつての自らの理想を再び受け入れたことによって終結している。つまり、士郎はまだ英霊エミヤという『現実の過酷さ』に本当に打ち勝っているわけではない(=まだ実績が伴っていない)のです。

 まとめなおすと、このルートではあくまで信念を支える心の強さを理屈の上で示したに過ぎず、それが現実に打ち勝てるかどうかは別の話として保留されています。では、借り物ではない「自分ならではの」信念に対して、覚悟を決めて、すべてをふち壊してでも実際にそれを守り通してみせることが出来るのかどうか? それが次の桜ルートで問われることになります。

→ 桜ルートのシナリオ解釈へ進む


本ページへのリンクはご自由にどうぞ。ご意見、ご感想などありましたら、掲示板またはメールにてお願いいたします。
Pasteltown Network Annex 〜
Pastel Gamers / まちばりあかね☆