Fate/stay night B 桜ルートシナリオ解釈


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桜ルート:すべてを覆す覚悟を伴ったホンモノの信念

 冒頭に書いた通り、第 3 ルートである間桐 桜ルートは良くも悪くも議論を呼びやすく、Web 上で見られる意見も賛否両論さまざまです。しかし桜ルートの是非は後でゆっくり吟味することにして、まずテーマ的なシナリオ解釈を行い、何をどのように語ろうとしているのかについて考えてみたいと思います。

 第 1, 2 ルートで語られたテーマ、それは一言で言えば「信念の尊さや美しさ」です。しかし第 2 ルートまでの解釈から明らかなように、そこに致命的に欠けているのは「その信念を守りきるだけの覚悟とその実践」です。第 3 ルートの目的はまさにそれを示すことにあるのですが、シナリオを時系列に見ていくことにより、どのような形でそれが示されたのかを考えてみたいと思います。

■ 「みんなの正義の味方」から「桜だけの正義の味方」へ

 第 2 ルートのところで解説した通り、ゲームスタート時の士郎の掲げる「みんなの正義の味方」というのは、切嗣から継承された借り物の信念でしかありませんでした。第 2 ルートではその借り物の信念はやはり間違いではなかったのだと確信し、自らの信念として取り込んでいくわけですが、第 3 ルートの場合には 180 度方向性を変え、借り物の信念を捨て、「桜だけの正義の味方」という、『自分自身で作り出した信念』を貫いていくことになります。

 ご存知の通り、桜は 11 年前に遠坂家から間桐家へと里子に出されています。行った先では体を弄られ、間桐家の魔術(他者から奪う魔術)に適するように体を改造され、刻印虫による責め苦を受け、臓硯の命に決して背けぬ操り人形にされてしまうわけです。見かけの清らかさとは裏腹に、その実は男を知る女魔(あま)である、とは言峰の言葉ですが、性的虐待を受け続けた長い年月はとても正気の沙汰と言えるものではないでしょう。

 しかし、だからといって彼女にはそれを打ち壊せるだけの力もなく、かといって自ら命を断つ勇気もありませんでした。彼女自身が言うように、凛とは対照的に彼女は臆病で、その地獄のような責め苦をただただ耐え抜くことしか出来なかったのです。

 そんな中、桜は皮肉にも凛と全く同じ時に、棒高跳びに挑む士郎を見てしまい、姉と同じようにその心の在りように惹かれてしまいます。その純粋さ、自分にはないそのひたむきな心の在り方に。そして彼女は約 1 年半ほど前から、士郎の家に入り浸るようになったわけです。彼女にとって、彼の心の在りようは「唯一の心の寄りどころ」だったのです。

 しかし彼女が彼の傍に居続けるためには、決して彼に嫌悪感を持たれてはならなかった。桜は自らの素性を隠し、あたかも自分は穢れも知らぬ少女で、先輩に憧れる純粋な少女像を演じ続けます。そのため、桜は士郎に対して懺悔にも近い罪の意識を持っています。桜にとっては士郎と結ばれることなど決してあり得ない。それでも、ただ傍にいるだけで彼女は幸せであれたのです。

自分は穢れている。あの人には相応しくない。だから彼の隣りに座るのは、もっと相応しい人でなくてはいけない。自分はその時が来るまで、今のように傍にいられるだけで良かった。それ以上の幸福など、求めては破綻する。……それは自分だけでなく。きっと彼自身にも、良くない終わりが訪れてしまうだろう。

 一方、士郎にとっての桜という女の子は、切嗣が息を引き取り、がむしゃらに無茶をし続けた士郎の元に現れた「平穏の象徴」でした。普段、士郎はそのことに全く気付きませんが、あるときふとそのことに気付くわけです。

そんな事で、今さらながら思い知った。
この家がいつもキレイだったこと。
使わない部屋も気がつけば手入れされていて、まるで切嗣がいた頃みたいに活気があって、生活の匂いがしていた理由。
学校の後輩。友人の妹。
そんなきっかけで知り合った桜こそが、俺以上に、この家を守ってくれていた。
この一年半、日々は本当に穏やかだった。
……その、あんまりにも当たり前すぎて気が付かなかったけれど。
藤ねえと俺だけじゃ得られなかったものを、桜は持ってきてくれていたんだ。

 そののち、臓硯という悪魔を知り、桜との関係を知り、彼女の懺悔を聞き、桜の涙を見て、士郎は初めて心の底から「守りたい」と思えるものを手に入れることになります。

「帰れません。いまさら、どこに帰れっていうんですか」
「……だって、もう知っているんでしょう? わたしがなんなのか、わたしの体がどうなっているのか、全部聞いたんでしょう? なら―――もう、これで。」
「……だって、終わっちゃいます。先輩。わたし、処女じゃないんですよ? 小さい頃、貰われた先で襲われて、初体験なんてとっくに終わってるんです。それだけじゃなくて、それからずっと、よくわからないものに体を触られてきました。それだけじゃないです。わたしは間桐の魔術師で、先輩にそのコトをずっと隠してました。」

―――俺は今まで、桜の泣き顔を見たことがなかった。
その意味を。こんな、自分を責めることでしか泣けない意味を、どうしてもっと早く気がつけなかったのか。
……いつか桜が言っていた。自分は臆病だから、強引に手を引っ張ってくれる人がいい、と。それがどういうことなのか、やっと判った。

■ 士郎が受け入れたモノ、士郎が切り捨てたモノ

 この独白をきっかけに、士郎は桜を守る覚悟を決め、「みんなの正義の味方」から「桜だけの正義の味方」になる決意を固めます。

他の誰が許さなくても、俺が、桜の代わりに桜を許し続けるだけだ。
……俺には桜を救うことはできない。ただこうして、傍にいてほしくて、傍にいてやることしかできない。
今はそうすることしかできないとしても、決心したものだけは、揺るぎのない本物だった。

「もう泣くな。桜が悪いヤツだってコトは、よくわかったから。
―――だから、俺が守る。どんな事になっても、桜自身が桜を殺そうとしても―――俺が、桜を守るよ。約束する。俺は、桜だけの正義の味方になる。」

※ 注意:「俺には桜を救うことはできない」というポイントに着目しておいてください。後で再度出てきます。

 しかし、士郎が桜を守ろうとする道、桜だけの正義の味方になろうとする道は、致命的に救いのない道でもあります。桜は士郎にこう言います。

「だめです、先輩―――それじゃきっと、先輩を傷つける。」

 実際、士郎の元には「桜だけの正義の味方であり続ける」という信念と覚悟を揺らがせるようなイベントがこれでもかというぐらい次々と降りかかってきます。その手始めは、自分は処女ではないという桜の独白。刻印虫によってもはや長くない命。さらには慎二からの日常的な性的虐待、そして極めつけは影を使った人喰いに桜が関係していたという事実。

 さらに、「桜だけの正義の味方であり続ける」という信念を貫くため、彼は数多くのモノを切り捨てていきます。その中でも致命的なものは二つ。

 一つは、彼が自らに対して立てた誓い。そもそも、人を殺め続ける彼女を守るということは、(借り物であったとはいえ)かつての信念であった「みんなの正義の味方」であることに真っ向から相反する。よって、彼女を守るということは、彼が、かつての彼自身(=自らに対して立てた近い)を覆し、それを裏切ることを意味します。

謝って許される事ではない。取り繕って無視できる罪でもない。俺が捨て去るものは俺自身だ。今まで信じ、支えてきたモノをなくして、生きていく事が偽りだとしても。
「―――裏切るとも。」
俺は、守りたいものを取る。この先。自分を騙し続けて生きようと、そこに、桜の笑顔があるのならそれでいい。

(※ このことは、(テーマ的観点からは)おそらく士郎に移植されたアーチャーの腕が結局士郎に馴染みきらなかったこととも関係していると思われます。イリヤは士郎にこんなことを言っています。「余計な忠告をするねシロウ。リンが知ってるのは、英霊の腕を移植された人間の痛みだけよ。だからリンはこれがどういう事になるか判ってない。シロウがどうなっちゃうかも解ってないの。けどそれも仕方ないわ。だってシロウとアーチャーの関係を知っているのは、この世でわたしだけなんだから。」)

 もう一つは、自らの手で人を殺めてしまうこと。それも、セイバーという、最も彼自身を助けてくれた人を。(ここに、敢えて選択肢「セイバーを助ける」「この腕を振り下ろす」が出てくることも象徴的です。ルールブレイカーをなぜ使わないのか、という指摘はごもっともなのですが、この選択肢は、最後の最後にその信念と覚悟をプレイヤーに問う象徴として存在しています。だから、セイバーを救える分岐ルートがこの第 3 ルートに存在しないのも、テーマ性から考えると当たり前です。)

俺はこの道を選んだ。桜を助ける為に他人を殺した。親しい人を、最期まで俺を守ってくれた少女を、この手で殺めた。後悔も懺悔も許されない。……誰かの味方をするということ。ただ一つ愛する者(エゴ)のため、大切なものを奪い続ける。
その先に。喪ったものに見合う輝きなど在りはしない。
「でも、セイバー―――ありがとう。おまえに、何度も助けられた。」

 彼の進む先に、失ったモノに見合った輝きなどないということを知りながらも、自らの信念、その思いに間違いはないと、その道を貫き通していくのです。

……この思いに間違いはない。
桜を必要とした自分。桜が必要とした自分。
―――初めて。多くの命よりも、一つの命を、守りたいと願った。

 思わず目を背け、耳を塞ぎたくなるような数々の驚愕の事実を受け入れ、さらに彼がそれまで大切にしてきた数々のモノを切り捨てていく。自分の誇りや道徳観、普遍的価値観、自らの命といったすべてのキレイゴトをかなぐり捨てて突き進んでいく士郎の姿、それはまさに、自らの信念を覚悟を持って貫き通す姿に他なりません。彼は桜のすべてを受け入れ、そのかわりに桜以外のすべてのものを裏切り、切り捨てていく。どんなに悲惨な現実にぶち当たっても、それこそ世の中全てを敵に回しても突き進む、それこそが信念を貫くということなのだと、全力で示しているのがこのルートだというわけです。

■ 桜の持つ心の闇が復讐者アヴェンジャーに囚われるようになった経緯

 このルートでは桜の黒化がどんどん進んでいき、ついには士郎自身が桜と対峙することになります。しかしなぜこのルートで、桜はアヴェンジャーに囚われることになったのでしょうか? それを理解するためには、桜の持つ心の闇について考える必要があります。

 桜の心の闇、それは誰しもが持つ妬みや嫉み、恨みの心です。陽の当たらない地下室に閉じ込められて性的虐待を 10 年以上に渡って続けられてきた桜。その生き様は姉である凛とはあまりにも対照的で、彼女がこの世界の不条理に対してそうした心の闇を持つのは当たり前といえば当たり前すぎることです。

 ただ彼女の場合には性格が内省的すぎるため、常に自分が悪いのだと、その悲劇を自らの内側に抱え込んでしまい、その心の闇が他者に攻撃心として向けられることが決してありませんでした。ここがアヴェンジャーとの違いです。アヴェンジャーは世界の理不尽に対して怒りを持ち、その心を外界に対してぶつけるものですが、桜にはそれがない。臓硯は桜をアヴェンジャー降霊のための聖杯として用意し、性的虐待を加え続けることでその心の在り方をアヴェンジャーに適合させようとしたのですが、それが出来なかったのです。

用意した“適合作”(=アヴェンジャーを降霊する聖杯としての桜)はあろうことか戦いを嫌っている。
アレ(=桜)は他者からの強制で崩れる精神ではない。
そのように壊れるものなら、11年前にとうに砕け散っている。
アレ(=桜)は反撃する刃を持たぬだけの(=決して他者に対して復讐心を向けることのない)、この世で最も堅固な要塞だ。

 その堅牢な要塞を見事に突き崩したのが、姉である凛への確執に他なりません。臓硯は凛が聖杯戦争に出ることを巧みに話し、桜を聖杯戦争に引きずり出します。さらに凛が士郎を巻き込んだことで、その確執は姉への憎しみへと発展します。

『士郎。わたしはいよいよとなったらあの子を殺す。それがどちらにとっても最良の方法よ。―――それを、貴方もよく考えておきなさい。』
一番聞きたくない言葉を、一番言ってほしくない人に、姉は冷たく突きつけたのだ。
姉さんは卑怯だ。どうして、どうしてそんな判りきった事を、ここにきて先輩に押し付けるのか。遠坂の魔術師としての責任。
そんなのは自分だけでいいのに、先輩まで引き込もうとする。ただ一人わたしの味方である先輩まで、姉さんと同じ立場にさせようとする。
「―――姉、さん」
……憎い。自分でも身勝手だとわかるぐらい憎い。
先輩に間桐 桜を見捨てさせる。そう仕向ける遠坂 凛が、本当に酷いと思った。

 その憎しみは臨界点を越え、他者への恨みへと変わっていきます。

……けどヘンだ。それはわたしの願いでもあるのに、どうしてこんなに憎いんだろう。わたしが消えればいいと姉さんは言う。わたしも自分が消えればそれでいいと判っている。
「……やだ。そんなの、いやだ。」
できない。もう失うのはイヤだ。もう一人になるのはイヤだ。温かさを知ったから、寒いのはもう怖いんだ。温かさを知ったから、今まで温かかった人たちが憎いんだ。
……わたしは消えてなんてやらない。
……わたしは殺されてなんかやらない。
だって、だって、
「―――だって。わたしは、何も悪くないんだから。」

 その心の在りようと外界への攻撃性、それはまさに復讐者アヴェンジャーの在り方そのもの。加速度的にアヴェンジャーとの心の同化が進み、ついには桜が慎二を殺めることでその同化は決定的なモノとなります。黒化した桜が放った言葉、それは自らの心の闇を世界に向け、世界の理不尽に復讐するアヴェンジャーの言葉に他なりません。

「わたし、この世界がきらいなんです。わたしを捨てた遠坂の家。わたしとは何もかも違う、なに不自由なく生きてきた姉さん。怖いお爺さまと可哀相な兄さん。わたしの痛みも知らず、平穏に過ごす街並み。そういうのが、今はすごく許せないんです。……これが八つ当たりだって理解しています。けど、悪い事だって判っていても思ってしまうんです。―――そう。今までわたしを助けてくれなかった全てに、わたしを思い知らせてあげたらどんな顔をするのかって。」

 心のスキに次々と付け入られ、黒化が進んだ桜の至ったその姿、それがあの復讐者アヴェンジャーの影をまとった桜の姿だったわけです。

■ 守ることと救うことの違い

 ところが、実は士郎のやり方では、このようになってしまった桜を「許す」ことや「守る」ことは出来ても、桜をその心の闇から「救う」ことが出来ません。なぜなら、士郎のルールブレイカーは確かにアヴェンジャーと桜との間の契約を断ち切ることは出来ますが、桜とアヴェンジャーの同化しきった心のカタチを元の姿に戻すことは出来ないからです。

 つまり真に彼女を助けるためには、彼女を守るだけではなく、彼女をその心の闇から救う必要がある。しかし、それは彼女を「守る」という方法では成しえないものです。実際に、彼女を心の闇から救う役割を担っているのが、桜をアヴェンジャーにする最大のきっかけともなった、姉である遠坂 凛なのです。

 そもそも桜にとっての『遠坂 凛』は、世界の理不尽さの象徴、羨望の全てといっても過言ではありません。なに不自由なく生き、何でもそつなくこなし、いつも綺麗なまま笑い、皆からの羨望も一手に引き受ける姉の姿。自分は毎日犯され続けているのにいつまでたっても助けに来てくれない、唯一の希望であるハズの姉。あまりにも違いすぎる姉妹の 11 年間。さらにはアヴェンジャーと同化して、彼女に報復できる圧倒的な力を得たはずだったにもかかわらず、宝石剣ゼルレッチによって追い詰められるという始末。そんな凛は、桜にとっては世界の理不尽さの象徴としか言いようがないものです。

……その憎悪は、姉である彼女に対するものではなく。
世界と自分自身に向けられた、出口のない懇願だった。

「わたしだって好きでこんな化け物になったんじゃない……! みんなが、みんながわたしを追い詰めるから、こうなるしかなかったのに……!」

 ところがそんな妹からの、救いを求める叫びを、凛は守ることも許すことも同情することもせず、一蹴して切り捨てます。

虐げられた魂。救われない体。それを。
「ふうん。だからどうしたって言うの、それ」
可哀想ね、なんて。彼女は、一切同情しなかった。

「そういう事もあるでしょ。泣き言を言ったところで何が変わるわけでもないし、化け物になったのならそれはそれでいいんじゃない? だって、今は痛くないんでしょ、アンタ」

冷酷な全肯定。……少女の叫びは、行き過ぎてはいたが、温かさを求めただけの行為だった。
それを否定された。怪物である自分を肯定された。
そうなったのはおまえが弱かったからだ、と。
いつも、いつも潔癖で完全だった姉が、誤魔化しようのない真実を口にした。

 凛が指摘したこと、それは桜が心の闇に囚われる最大の原因となった桜自身の『甘え』です。すなわちただ痛みを受け止めるだけで何もしようとすらしない彼女の心の弱さ、他人に同情を求めるだけで自らは何もしようとしない甘えそのものをズバリと指摘したのです。なぜなら桜の苦悩は桜にしか理解できないし、桜自身の心の力でしか本質的には解決できないものだからです(※ このポイントはこのルートの Ending を解釈する上で非常に重要で、後で再び出てきます)。桜にとって最も必要なこと、それは彼女自身が甘えを断ち、自らが心の持ちようを変え、行動していくことだからです。

 つまり、桜の最大の思い違いである、「姉は恵まれている、自分は恵まれていない、だからどうしようもないんだ」という(自分が行動できない理由を他人になすりつける)基本ロジックを打ち砕き、それは桜の心の弱さ、甘えなのだと突きつけたのです。人の苦悩はその本人にしか理解できない。それを桜に叩き付けた一撃が、凛の以下のセリフなのです。

「そういう性格なのよ、わたし。あんまり他人の痛みが分からないの。だから正直に言えば、桜がどんなに辛い思いをして、どんなに酷い日々を送ってきたかは解らない。悪いけど、理解しようとも思わないわ」
簡潔な言葉。彼女は嘘をつかない。苦しみを訴える妹に事実だけを口にして、

けど桜。そんな無神経な人間でもね。わたしは自分が恵まれているなんて、一度も思えた事はなかったけど
まっすぐに。精一杯の気持ちを込めて、間桐桜という少女を見返した。

 しかしそんな正論を、よりにもよって凛に指摘されて、桜が逆上しないはずがありません。彼女の言葉の真意(=桜自身の心の弱さこそがすべての元凶であるから、それを直さなければ救いはない、ということ)を無視し、桜は凛に逆上するのです。現におまえは恵まれているじゃないか、そんなヤツにそんなことを言う資格はない、言われる筋合いはない、と。

――――あの女は(ねえさん)許さない(うるさい)

 そして凛はいよいよ桜を殺す覚悟を決めるわけですが、ところが最後の最後の土壇場で、凛は桜を殺すことが出来ませんでした。

遠坂凛は、自分の死ではなく、抱きしめた少女を救ってやれない事だけを後悔して、
「ごめんね、こういう勝手な姉貴で。……それと、ありがと。そのリボン、ずっと着けていてくれて、嬉しかった」
舞い散った赤い花のように、祭壇に崩れ落ちた。

 それを見て、桜は初めて、姉が自分に向けてくれていた、本気の厳しさと本当の優しさに気付き、今までの自分の過ちと間違いを悔やむのです。

抱き返す事もできなかった手は固まったまま。
少女は愛してくれていた姉の血に濡れ、強く、自身を呪い始めた。

 この流れから分かるように、桜をその心の闇から救うことは、実は姉である凛にしか出来ない。彼女の間違いを指摘できるのは肉親である姉だけだし、時として厳しく桜を叱り、「傷つける」ことも辞さなければ、その心を救うことは出来ないからです。だから、単に「守る」方法だけでは桜の過ちを正し、その心を救い、成長させることは決して成し得ないのです。

 これにより桜は逃げ道(言い訳)を封じられ、初めて自分の過ち(自分の心の弱さ)に気付くことになるのです。

■ 士郎の選択 〜 「桜だけの正義の味方」であること

 しかし物語はまだ終わってはいません。まだ、士郎がやるべきことが二つ残っています。一つは、ルールブレイカーにより、アヴェンジャーとの契約を断ち切ること(凛によって憑き物が落とされているため、本当の意味で契約を断ち切ることが出来る)。もう一つは、彼が追い求めた信念である「桜だけの正義の味方」であることを貫き、あらゆるモノ(社会的な罪や責任も含みます)から桜を守り、彼女の笑顔を取り戻すこと、です。(※ ここから先は注意深く読まないと、作品の本質を見失うことになるため、少し長いですが丁寧にシナリオを追ってみます。)

 とはいえ、桜が犯してしまった罪、奪ってしまったものは返せない。それはもはや償う事さえできない大きな罪。後戻りもできなければ、救いも決してありません。

「……わたし、いっぱい人を殺しました。何人も何人も殺して、兄さんも殺して、お爺さまも殺して、姉さんも殺してしまった……! そんな―――そんな人間にどうしろっていうんです……! 奪ってしまったものは返せない。わたしは多くの人を殺しました。それでも、それでも生きていけっていうんですか、先輩は……!」

 ……そうか。
 後戻りの出来ない道。
 償う事さえできない罪が、桜を追い詰めていた

 救いはない。
 どうあっても、桜の意思でなかったとしても、多くの人の命を奪った咎は、桜の心に在り続けるだろう
 影から解放され、元に戻ったところで、桜の中には昏い影が残ったままだ

 一般的な社会の「正義」では、どんな事情があったとしても、たとえそれが桜の意思でなかったとしても、あれだけの規模の殺戮を(直接的なカタチでないにしても)犯してしまった桜が、社会的な罪や罰を逃れることは決して出来ないし、彼女の心は決して赦されない。その絶望的な状況の中、なおも他者に必死に心の救いを求めようとする桜の言葉を、士郎は凛と同じく、真実の言葉で切り捨てます。

「―――当然だろう。奪ったからには責任を果たせ、桜」 …… @(後述)

 これから桜は間違いなく、社会的な罪や罰に問われることになる。それは一般的な倫理観や社会的正義からすれば当然とも言えること。しかし士郎は、そうした社会的な罪や罰からも桜を守る、といいます。

「そうだ。罪の所在も罰の重さも、俺には判らない」
「けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を、ずっと理想に生きてきたんだから―――」
 ……A(後述)

「おしおきだ。きついのいくから、歯を食いしばれ。」
「帰ろう桜。―――そんなヤツとは縁を切れ」

 士郎が真の意味で「どんなコトをしても桜だけの正義の味方であり続ける」のであれば、そうした社会的な正義を覆しても、桜の笑顔を守らなければならない。一般的な倫理観も正義感もかなぐり捨てて(=みんなの正義の味方であることなど捨てて)桜に問われる社会的な罪や罰から守ること、それが士郎が自らを賭してまで最後にやってみせたことなのです。

■ 長き贖罪の日々 〜 桜ルート Normal End

 しかしここで注意しなければならないのは、桜に問われる罪、桜が行わなければならない贖罪には、正確には 2 種類ある、という点です。

 一つは、『他人から』桜に対して問われる、社会的な責任問題。
 もう一つは、たくさんの人を殺してしまったという事実に対して、『桜自身が』感じる罪の意識。

 先に挙げたシナリオテキストのうち、@は桜自身が感じる罪の意識について救いを求めようとする言葉を切り捨てたものであり、Aは桜に問われる外部からの社会的な責任問題から守る、という宣言です。(理由は後述します)

 そのことが読み解けていると、実は Normal End でも、永遠とも言えるたった一人の長き贖罪の日々を経て、すべての伏線がきちんと回収されていることが分かります。

ホント勝手だ。言うだけ言って、守ってくれないのは一番タチが悪いと思う。だから、簡単に許してなんてあげない。いっぱいワガママを言って、わたしの何倍も困らせてやるんだから。

ん―――けど、やっぱり許してあげよう。
偽善だって言うけど、その言葉だけで、ココロがこんなにも穏やかになる。無責任だけど、そう言ってくれた人を、わたしは愛して、愛されているんだから。

思い出せるコトなんて言葉だけになったけど、言葉は口にするだけで物語になって、懐かしい日々を繰り返す。
「あ、笑った。わたし、先生の笑顔好きだな。うちの強欲ばーさんと違って、すごい美人なんだもの」

 そもそも、たとえ士郎が「桜だけの正義の味方」であったとしても、士郎には『桜自身が』感じる罪の意識から桜を救うことが決して出来ません。凛が桜を切って捨てたように、士郎が凛に「当然だろう」と言ったように、本人が感じる罪の意識は、本人自身の贖罪によってしか本質的には祓われないものなのです。

 英霊エミヤが言う「人を叶えるのは本人の意思と結果だけ」だという考え方は、TYPE-MOON の作品に一貫する基本的な理念でもあります。

 だから、士郎は桜に降りかかる社会的責任から守ることは出来ますが、彼女の心の中の罪の意識の贖罪は、彼女自身が長い月日を経て贖っていくしかない。そういう意味で Normal End は、悲劇ではあるが、すべてが論理的に綺麗にまとまっている「常識的な」(=Normal)エンディングなのだと言えるのです。

■ 第 3 ルートのテーマをさらに補強する『真の』エンディングとしての True End

 しかし、たとえすべての伏線が回収されているとしても、また論理的に綺麗にまとまっているとしても、桜ルートの Normal End にはやはり「救い」はありません。いや、もともと設定上、構造的に救いがないように作られているのですから、本来、救いなどあるはずもないのです。それでも「桜を守る」ためにその救いを得るのなら、もはや何もかも本気でぶち壊すしかありません。それを実際にやって見せたのが、桜ルートの True End です。

 桜ルートの True End でぶち壊してみせたものは大きく分けて 2 つあります。

 一つは、一般的な社会的倫理観や社会的正義です。Normal End にも確かに「桜が社会的罪から逃れる」という反社会的な事実があるわけですが、しかしそれでもそれは(少なくとも形式上は)士郎の死によって清算するという形を取っています(それで桜の社会的罪がなくなるわけではありませんが、少なくとも形式上は等価清算している)。ところが True End はというと、イリヤによる第三魔法(Heavens feel)の行使によって士郎は生き返り、桜のそばで桜の笑顔を守り続けます。TYPE-MOON の言葉を借りれば、みんな生き残って『ハーレムエンド』。これではあまりにも大局的な倫理観に欠けると言わざるを得ません。

 もう一つは、本来救えるはずのない「桜の心の中の罪の意識」からも桜を守ってしまうという偽善。大空洞で桜が叫んだ、決して許されるはずのない自分自身の罪の意識は、本来 Normal End を見れば分かる通り、一生かかっても祓われることのないもののはずです。しかしそれを「士郎と居続ける」ことによって軽減させてしまうという、恐るべき偽善をやってのけてしまいます。それは、TYPE-MOON がここまで一貫して主張してきた、『人を叶えるのは本人の意思と結果だけ』という基本理念すらも覆してしまうものです。

 これらは恐るべき『偽善』としか言いようがないものですが、それでも、無理矢理にでも「桜を守り、幸せにする」ためにはこれらの禁忌を犯すしかない。それでも「桜だけの正義の味方」を貫き、TYPE-MOON 自らの主義主張すらも壊してみせたのがこの True End なのです。

 そのことを踏まえれば、なぜ True End で出てくるラスボスが言峰 綺礼であるのかも分かります。綺礼は、作品中、自らの目的に対して『最も手段を選ばない』男の一人として描かれています。つまり、自らの目的のために、手段を選ばず信念を貫き通そうとする士郎が最後に倒すべきは、やはり同じように『最も手段を選ばない男』であるべき。そしてそれは道具など使わない、小細工なしの、自らの欲望、エゴ剥き出しの魂の殴り合い。だからこそ『素手』による殴り合いになるのです。

 つまり True End というのは、本ルートのテーマ性をさらに補強し、一般的な倫理観すらも、TYPE-MOON 自身の主張すらも覆してみせた、最凶かつ最悪の『ホンモノ』の Ending なのだと言えるわけなのです。

 そこまでするか? と思われる方もいらっしゃるでしょうが、むしろ、そこまでするからこそ、第 3 ルートの『やるからには覚悟を決めて貫き通せ』というテーマ性が輝いてくるのだとも言えます。もちろん、作品の作りの上手い下手の問題はありますし、プレイヤーに納得感が得られるのかどうかは別の話です。しかし、テーマ的側面から見た場合の一貫性は、Normal End よりもむしろ True End の方にある、と言ってよいでしょう。(もちろん、「壊れてしまった」エンディングではありますが、その是非はまた別の問題でしょう。それは後で検討します。)

 

 ……というわけで、長々と書いてきましたが、この最終ルートである桜ルートは、まさに彼の信念を貫き通す覚悟とその実践を示した強烈なものであり、そこに至る作品全体の流れもまさに見事だった、としか言いようがありません。桜にうまく感情移入できた方々であれば、あの True End をして、「士郎、えらい! よくぞ桜を守り切った!」と諸手を上げるプレイヤーも少なからずいるのでは、と思います。(もともと作品描写の弱さから桜への感情移入が難しいので、数としては決して多くもないとは思いますが。(^^;))

 しかし、仮に論理的に一貫性があったとしても、それがプレイヤーにとって「面白い」モノなのかどうか、「納得できる」モノなのかどうか、というのはまた別の話です。「いや、言いたいことは分かるんだけどね、でもねぇ……」と言いたくなってしまう危険性のある作品、それが本作であると思うのです。

 ここまでは「出来不出来」「上手い下手」の話を一切抜きにして、純粋にテーマ的な側面のみから作品のストーリーラインを見てきたわけですが、ここからはいよいよ、Fate/stay night という作品全体がどうだったのかについて考えていってみたいと思います。

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