2. CLANNADに見る「せかい」の縮図


 さて、CLANNAD の世界の構図を掘り下げる前に、Key の前作である AIR を今一度思い返してみたいと思います。

 AIR についてはこちらのネタバレゲームインプレッションにそれこそイヤというほど書いたのですが、その作品としての難点を一言で言えば、「現実世界と向き合わないリアリティの欠如した箱庭世界の中で、現実回帰というサブテーマが声高に語られていた」ことだったと思います。父性の否定、欠けた家族、欠けた人間設定、現実にはあり得ない少女の性格設定、主人公の行動、そして不運の前提。そうした箱庭世界の中でいくら論理を積み上げて現実回帰を訴えても、それはマッチポンプのように自己完結的で、プレイヤーには響きにくいものになっていたように私には思えます。

 ところがこれと比べると、CLANNAD の世界観は非常にバランスが取れており、そこで語られたテーマは現実的なリアリティを持ってプレイヤーに迫ってくるものがあったように思います。これについて、2 つの側面(「人のつながり」と「冷たさを併せ持つ世界観」)から考えてみたいと思います。

立体的に描かれた、様々な『人のつながり』

 まず、この作品世界の一つの特徴として、『人と人とのつながり』が多彩なものであったということが挙げられるかと思います。恋愛ゲームはその人間関係が「ヒロインと自分という、たった二人だけの世界」に陥りがちですが、CLANNAD で描かれた人間関係は従来のギャルゲーとは一線を画するものでした。

■ 多彩で網目状に広がる複雑な人間関係

 例えば、このゲームの人間関係は、非常にバラエティに富んでいました。「CLANNAD」 = 「家族」に関係するものを取り上げてみてもこれだけあります。

 そして学校関係でも、直接的な友人や先輩・後輩、恩師と教え子(幸村と公子、公子と渚、早苗と子供たち)、OB と現役(美佐枝と智代)、さらに一般社会では仕事の上司(祐介と朋也)、お客さん(古河夫妻と公子)といった具合に、およそ日常的な範囲で繋がりを持ちうる典型的な「人のつながり」がことごとく含まれていました。一つのゲームの中でこれだけの種類の人間関係を持ち、なおかつそれぞれの繋がりが大切にされているものとなると、せいぜいとらいあんぐるハートシリーズぐらいなもので、なかなか類を見ません。

 またその人間関係が、ほとんどの場合において 1:1 だけの関係に留まらなかったことも特徴的でした。例えば、渚シナリオ(前半)では、朋也を媒介にして、渚、朋也、陽平、杏、椋たちがいつの間にか友達になっているし、あるいはことみシナリオでも、図書館に閉じ篭もっていたことみが、朋也を媒介にしていつの間にか杏や椋、渚たちと友達になっている。ある特定の二人の関係にフォーカスするのではない、網目状に広がる複雑な人間関係もまた、この手のギャルゲーにはあまり見られないものでした。

■ 横方向にも縦方向にも繋がっている人間関係

 そしてその人の繋がりは、横方向だけではなく縦方向にも繋がっていました。つまり、同世代の友人あるいは恋人としての人間関係だけではなく、世代間の人間関係もある。例えば、古河夫妻と渚、あるいは直幸と朋也といったような親子関係、あるいは幸村と朋也といった師弟関係がこれに該当します。

 しかし CLANNAD が従来作品と一線を画しているのは、その関係が一方通行ではない、という点です。

 例えば、古河夫妻は愛娘である渚を想い、渚の夢を自分たちの夢にしました。しかし渚と朋也は、秋生を昔の友人に引き合わせ、早苗に塾の先生の夢を諦めるなと言いました。あるいは朋也もまた最後に父の直幸へと感謝の言葉を送り、そして幸村ルートで朋也と陽平は、幸村から受けた恩を、人生で初めての感謝の気持ちを持って返しました。

 確かに、AIR でも 1000 年の長きに渡る輪廻の繰り返しと伝承による「人のつながり」は描かれましたが、そこにあったものは、親から子への一方通行の人間関係でした。しかし CLANNAD にあった縦方向のつながりはこれとは異なり、双方向の繋がりだったと言えるのではないでしょうか?

■ 正だけでなく負の面も併せ持った人間関係

 そしてそこに描かれていた人間関係もまた、正負両方が描かれたという意味において非常に興味深いものがありました。

 この作品のラストで描かれた通り、人と人との繋がり、思いやりというのは非常に暖かいものです。ですが、人と人との繋がりが暖かいものばかりかというと、決してそうではないはずです。

 例えば渚にとって、古河夫妻の待つ「家族」は、渚が唯一笑顔でいられる『居場所』でした。あるいはことみにとっての両親は、偉大で自分のことをいつまでも暖かく見守ってくれている存在です。彼女たちにとっての家族とは、自分に「プラス」に作用するものでした。

 しかし朋也にとっての直幸は、まさに災厄としか言いようがない存在です。妻である敦子を失ったことで酒や博打に溺れ、挙句の果てには喧嘩で朋也の肩を壊し、その未来(朋也はこの学校のバスケ部のキャプテンでした)を潰し、挙句、家族の関係すらも朋也から奪いました。これによって朋也は学校で荒れ、まさしくどん底に突き落とされていくわけです。それでも朋也は自ら直幸との関係を断ち、渚とともに前向きに自立を始めることに成功したのですが、その存在も忘れかけ、仕事も恋愛も何もかもがうまく回り始めた矢先に突然襲ってきたのが直幸の犯罪でした。これにより朋也は再びその未来(転職の話)を失うわけですが、もはやこうなると、朋也にとっての直幸はその足を引っ張る疫病神としか言いようがありません。「親子」という一言だけで繋がり続ける、決して断ち切れない災厄。それはまさに「家族」という関係が持つ負の側面に他なりません。

 あるいは風子と公子の姉妹の関係にしても、必ずしもプラスのものとは言えない状況にありました。公子が祐介と結婚しないこと、それは明らかに風子の姉に対する願いではなく、朋也の言うように決して前向きなものとは言えません。不幸な事故によってすれ違ってしまった二人の思い、公子と風子の関係は、互いが互いを縛る「負」の関係を持っているのではないでしょうか?

 また、シナリオ上そのようには描かれていませんが、ここで述べた二つの「負の人間関係」は、一般世間的な常識ではとてつもなくマイナス方向に働き得るものであることにも注意しておく必要があります。

 例えば、身内から犯罪者が出たら、縁談が破談になってもおかしくありません。あるいは、身内に寝たきりの病人がいたら、相手の恋人がいくら気にしないと行っても、それが足枷になって結婚を躊躇するのも不思議ではありません。一般世間的な「普通」と照らし合わせて考えてみると、それぐらいマイナスになってもおかしくないものではないでしょうか?

 このように、「家族」というつながり一つ取っても、都合の良いものばかりではなく、正負両面を持つということが、作品の中にきちんと取り込まれていたように思うのです。

 ここではいくつかの側面から説明を試みてみましたが、まとめれば、人間関係に偏りや歪さが少なく、そして常にそれを両側面的に捉えているのが、この CLANNAD の作品世界における人間関係の特徴であり、類を見ない素晴らしさではないかと思うのです。

暖かさもあれば冷たさもある、偏りのない世界観

 そして、物事の見方が両側面的で偏りがないということは、この作品の世界観に関しても言えるのではないかと思います。つまり、前向きに頑張れば事態は必ず好転していくのだということを描きながらも、それでもなお現実世界が内包する厳しさ、理不尽さ、やるせなさを、きちんと作品に作り込んでいたように思います。

 その中でも特に象徴的だった「現実世界の理不尽さ」として、以下の 2 つを挙げてみたいと思います。

■ 不幸な偶然

 先に述べた風子の事故は、まさにこれからという最悪のタイミングで起こった青天の霹靂とも言うべきものでしたが、このゲームにはこの手の「不幸としか言いようのない偶然」が多数存在しています。

 例えばことみの両親の乗った飛行機の墜落事故。それは二人が研究を進めていた「超統一理論」、学会での特別講演に夫妻で登壇という、まさに人生の晴れ舞台の直前に起こった悲劇でした。

 あるいは、陸上のスプリンターで、その人生には走ることしかなかった勝平を襲った骨肉腫という重病。汐の原因不明の病に至っては、ようやく愛娘との和解を果たし、歯車がうまく噛み合って回り始めた矢先に発病します。

 もちろんこれらは「物語という名の展開上の必然」とみなすことも可能ではありますが、こうした事故や病といった不幸は、決して物語の中だけの「あり得ない物語的な偶然」ではないはずです。私自身、身の回りを見回してみても、突然の脳卒中で父親を亡くした人、脳内出血で倒れて未だ後遺症を残した母親をずっと介護している人、旧友の突然の訃報、ある日突然恋人を火事で失った人など、枚挙に暇がありません。しかもそうした不幸は「よりにもよってなぜこの人に…」と言いたくなるような人たちに起こる。プレイヤーの年齢にも依るのでしょうが、こういった「不幸としか言いようのない偶然」は、実際の現実世界にもたくさんあるのではないでしょうか?

 そして朋也や公子がそうであったように、期せずして起こったそうした偶然の不幸が、その人たちのその後の人生を大きく変えてしまうこともまた、決して珍しくはないことだと思うのです。

■ 有紀寧ルート : 「一般常識」という名のレッテル張り

 またこの作品には、はみ出しモノに対する世間の冷たい空気がこれでもかというぐらいに描かれていました。

 例えば、陽平は普段はお調子者の様子を強く見せていますが、時と状況によっては非常に真摯な態度を持って、親身になってくれる友人でした。あるいは、有紀寧を慕ってくるガラの悪い不良たちも、有紀寧への思いやりがあり、和人を慕って一周忌に集ってきます。智代も、かつての話を聞きでもしない限りは、非常に快活で好感の持てる女の子ですし、朋也にしても、直幸の犯した犯罪がなければ何の問題もなく転職によりステップアップを図っていたことでしょう。

 しかし、彼らに対する世間の風当たりはとてつもなく冷たい。学生時代の陽平や朋也はいつでも遠巻きにされており、有紀寧やその周りの不良たちもまた世間から疎まれている。智代に至っては、当人の実像をろくに見ることもなく、張り紙には落書きがされ、悪評がどこからともなく立ちこめてくる。彼らへの攻撃を暗黙的に容認しているもの、それは「世間の常識」、一般常識という名のカタチのない正義なのではないでしょうか?

 そんな「世間の常識」を指して、有紀寧はこう言いました。

「みなさん、世間からは不良だというレッテルを張られてるだけです。
 それは、言動が乱暴だったりする時もあります。
 それを他人から非難されることもあります。
 ですが、みなさん、男気があって、とても優しい方たちです。」

 確かにそうした「世間の常識」は、『統計』的にはおそらく正しいのでしょう。しかし前述の智代の例や、有紀寧ルートの勇という名の少年のエピソードからも分かるように、その『統計』はある特定の『個人』に対して常に当てはまるとは限りません。なまじ『統計』という裏付けがあるだけに説得力を持つ半面、そうしたレッテル張りは、同時に人の思考を奪い、真実の姿や本当に大切なものを見失わせる危険性を常にはらんでいると思うのです。

 有紀寧は、勇くんの母親に対して次のような指摘をしました。

「勇くんの考えは間違ったことではないと思います。
 学校を休むことが悪いことだとは勇くんもわかっていると思います。
 でも、それを承知で自分を変えようとここに来たんです。
 それは学校では教えてもらうことのできない勉強のようなものなんです。
 自分で考えて、行動して、もしそれが失敗だとしても得る物はあるんです。
 大切なのは勇くんが自分で行動したということなんです
 教えられてきたことを、ただ素直に頷くだけの人間になることが良いことだは思えません
 悪いことはしました。怒られてもそれは仕方がないことです。
 でも、今回のことの全てを否定してあげないでください。お願いします。」

 この発言に対して勇の母が何も言い返せなかったのは、レッテル張りによって、自分がきちんと息子のことを見てあげられていなかったことを有紀寧にズバリと指摘されたからではないでしょうか?

 とはいえ、こうしたレッテル張りは現実世界にはこれでもかというぐらいに存在しています。その理不尽に対して声高に「そのレッテル張りはいつも正しいとは限らない、それだけではない部分まで含めて、きちんと相手の姿を見るべきだ」と叫んだところで世の中が変わるわけではない。正しいと正しくないとによらず、レッテル張りとそれによる思考停止は、この世の中に厳然として存在するものだと思うのです。

 この作品中で言えば、朋也や陽平、渚、智代、杏たちは、進学校という、「世間常識的に正しいとされていることをやることが一番評価される」環境の中にありながら、そういうレッテル張りによって人を見ることをしない珍しい人種です。しかし例えばその杏ですら、追い詰められたとき、そうしたレッテル張り的な考え方から完全に逃れることができません(例えば智代ルートでは、杏は「どうして…どうして、あんたなのよ…喧嘩が強いだけの…」と言います)。その人を見たときに抱いてしまう『印象』まで含めれば、レッテル張り的な思考から逃れることはとてつもなく難しいことであり、その存在を否定することも不可能だと思うのです。

 ここで述べたような「不幸な偶然」、あるいは「一般常識」という名によって保護されたレッテル張りによる社会からの疎外。こうしたものは、その当人の努力や実力だけではどうにもしようのないものです。

 確かに、この作品では、当人の努力や実力といったものが、事態を好転させ、物事をプラスに動かす様子がさまざまなルートで描かれていました。しかし、そういう『努力や実力では解決できない理不尽なモノ』が常につきまとうように存在するのが現実世界であり、CLANNAD の作品世界もまた、都合の良いものも悪いものも両方を内包した世界に仕上がっていたのではないでしょうか?

『現実世界』と『人生』の縮図としての作品世界

 そしてまた、この作品世界の中で取り扱われたイベントも非常に多彩でした。主要なものをピックアップしてみれば、部活、学園祭、生徒会、学生寮、家出、同棲、就職、結婚、妊娠、出産、育児、といった具合に、人生における主要イベントのほとんどが取り扱われていました。

 確かにこのゲームでは、こうした人生の主要イベントとして本人自身の『死』が扱われていませんが、これはこの作品が『生』に焦点を当てていることの裏返しだとも思います。CLANNAD 前半部では、ケーススタディ的な描き方が重視されていることからも推測されますが、この作品は AIR と違い、とにかく『生』、生きることを主体として捉える考え方を提示しているように思うのです。

 そしてここまでの一連の話で取り上げたような、「人のつながりの多様性」、そして「偏りのない世界観」、さらに「人生における主要なイベント」という要素があるからこそ、この CLANNAD の作品世界は、『現実世界』と『人生』の縮図そのものとしての意味とリアリティを持つと思うのです。

 もちろん、ここまでで述べてきたような「理不尽なイベント」、あるいはレッテル張り、負の人間関係といったものは、物語的な必然として利用されている側面も確かにあります。しかし、取り扱われている要素の多彩さは類を見ず、必ずしも「作者にとって都合のよいものだけを取捨選択して作り上げた箱庭世界」にはなっていないのではないでしょうか? 常に物事が両側面的に捉えられ、「正の面」と「負の面」の両方が可能な限り作品世界に取り込まれていた、だからこそ従来の Key の作品群に比べても、圧倒的な実在感、リアリティを持つように私には思えるのです。

 つまり、CLANNAD という作品は、言ってみれば人間世界を作品世界内でシミュレートし、その厳しい世界の中でどう生きていくのかを、プレイヤーに問い掛けてくるものだと言えるのではないでしょうか? 確かに、自宅出産を始めとして、デタラメとしか言いようのないイベント、あるいは恣意的としか思えないストーリー展開も多数あったとはいえ、その節目節目でプレイヤーに投げ掛けられてくる問いには、今までの Key 作品にはなかったリアリティがあるように感じられました。

 ではこうした厳しい人間世界の中で人はどう生き抜いていくべきなのか、その問いに対する CLANNAD という作品の回答はどんなものだったのかを、次に考えていってみたいと思います。



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