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第1, 3, 4章については、暗黒KANONのkagamiさんのレビューが的を得ていてほぼ見事にシナリオをまとめられていますので、そちらを参照して頂ければよいかと思います。ここでは、kagamiさんのレビューで語られなかったいくつかの点に絞って書きたいと思います。
まず第2章はkagamiさんに言わせると凡作シナリオだそうですが、確かにその通りかもしれません(^^;)。ざっくり重要な点だけ解釈すると以下のようになるでしょう。
さやかの愛嬌あふれるその行動は、実際のところは8年間という時間によって塗り固められてきた彼女のペルソナ(※日常生活を生きていくために持つ行動様式)であり、それを支えていたのは律に対する憎悪の感情。彼女はとにかくよく笑い、男性から見ると非常にかわいさと愛嬌のあふれる女性。確かにそれは間違いなく多くのプレイヤーを魅了したことでしょう。しかし半面、ある一定以上近寄ってみると非常につかみどころのない、本心や感情の起伏が非常に少ない機械的な少女でもあります。極端な言い方をすれば、彼女は心ではなく頭で笑っている、とすら言えるかもしれません。彼女からどことなく感じさせられる、「本心ここにあらず」という雰囲気、そして考え出されて作り出されたかのような感情。8年間という月日はそれでも彼女を一つの個性としてしまってはいるものの、彼女の「本当の心」をそこから垣間見ることは到底不可能でしょう。
しかし律が最後に描いた、ひまわりと自分の絵を見てさやかは律の真意を知ります。そして律への憎悪がなくなったことにより、ペルソナによって塗り固められていた彼女の本心が現れ、彼女は「こころ」を取り戻すことになるわけです。最後に、ひまわりを見て故人に思いを馳せ、静かに涙を流す彼女。彼女は、心から泣くことも笑うこともできる、感情の豊かさを取り戻し、そして前に向かって歩いていくのです。
同じ物語を律の視点から捉えると、律が最後の最後に芸術家ではなく「父親になろうとした」というのが象徴的と言えます。もともと律がさやかの母親の絵を描いたのも、結果論的にはさやかのためになったものの、当人の意識としてはむしろ美術家としての意識の方が強かったでしょう。ただ、それを曲解し、心を封じていったことを知りながらもさやかのことを放置した律は、いかに芸術家として大成していようとも無責任な父親であるという非難からは逃れられないでしょう。死期が近づき、さやかの絵を仕上げた律が、果たして本当はどんな意図でその絵を描いたのか、それは知る由もないかもしれませんが、しかしさやかの不幸を作り出した「ひまわりの前に横たわるさやかの母親の絵」と対になる、「ひまわりの前に立って語りかけるさやかの絵」をもって、結果的にさやかを救ったというのが象徴的と言えるのではないでしょうか。
とはいえ他の章に比べると比較的突っ込み方も浅く、ファンタジー色を強く帯びた綿アメ的なシナリオと言われてもやむを得ないかもしれません。それでも、凡百の作品に比べれば遥かによく出来ているのですが……。
また、第4章のラストに関してですが、大きく分けて2つのルート(夏祭りルート、お土産ルート)に分かれており、学生服の少女ルートは夏祭りルートの派生ルート、水夏ED(終幕)はお土産ルートに後続するシナリオになっています。
夏祭りルートは、アルキメデスが自らの命をちとせに与えることでちとせが一命を取り止め、宏の命の返却と千夏とお嬢の融合によりお嬢が助かる、というものです。この際、このままだと宏は命の返却のために死んでしまいますが、千夏が他人の運命を弄んでまで集めた「3つの逝き場のない愛情」を力として使うことにより、宏も一命を取り止め、ちとせ・お嬢・宏の3人全員が生き残ります。また、次の夏祭りの際にお嬢が黒マントを羽織っていないことからして、お嬢は死神であることからも解放されていると考えられます。
なお、お嬢の好感度ポイントが不足している場合は、宏もお嬢もちとせも生き返るが、お嬢は記憶を失ってしまっている、学生服の少女ルートへと流れます。
一方、お土産ルートは、結果的にちとせ、お嬢、宏の3人が死神になってしまうというシナリオです。まず、千夏がお嬢を取り込み、その命をちとせに与えながらちとせの体を乗っ取ることを企みます。宏はお嬢に死神の仕事をさせるのを食い止めるために自殺を図ってそれを食い止めますが、あの世との狭間(草原のシーン)でちとせたちと会合します。ここでちとせはお嬢を友達とし、自らもまた死神になることを選択し、そして千夏は華子に諭され、お嬢の元へと還ります。華子の持つお嬢の時計が止まってしまったのは、ちとせや宏が死神となってしまったことで、その魂を運ぶはずだったお嬢の仕事が止まってしまったためです。
ちとせとお嬢と宏の3人が死神になってしまっていることは、お土産ED中にて「わたしは、頻繁に人から変わり者と言われる」と華子が語っていることからも分かります(3人は華子にしか見えない)。(華子になぜ3人が見えるのか……華子に死期が近づいているのか、それとも千夏に体を貸していたことによる影響なのかははっきりしませんが。)
また、水夏EDはお土産EDに後続していることは、ちなつとお嬢の仲の良さ、華子が不在で3人で話していること、室内であるにもかかわらずちなつが和服を着ていること、お嬢に「水夏」という「夏」のついた名前を与えることなどから推測されるでしょう。
ここで象徴的なのは、この二つのルート、すなわちちとせ・お嬢・宏の3人が助かる夏祭りルートと、3人が全員死神となってしまうお土産ルートを比較した場合、即物的な考え方では夏祭りルートの方がtrueルートになっていいはずであるにもかかわらず、物語としての終幕(物語としてのtrueルート)はお土産ルート側に用意されている、という点です。なぜ水夏ルート側をtrueルートとしているのでしょうか?
第3章を取り上げて比較してみると分かりやすいかと思うのですが、策謀の末に良和を手に入れた透子。ラストシーンで良和はすべてを透子に支配されていることを受け入れ、彼女に母親を求め、透子もそれに応えるというこの両者の関係、それは恐ろしいまでにいびつな愛の関係と言えるでしょう。また、第1章で小夜を殺そうとまでした伊月、第4章で他人の運命を弄んでまですべてを手に入れようとした千夏。愛は美しい側面ばかりでなく、いびつな面や汚い面までをも包含しており、それが人間の本質だということでしょう。
彼女達の行動は通俗的な善や悪の概念に縛られるものではなく、また良和や透子を見ていると何が正しいのかよく分からなくなってしまう、そんなところさえあります。しかしだからといって他者の幸せを踏み潰し、その上に自らの幸せを積み上げるということを許してしまってよいのかどうか。第4章の夏祭りEDルートの最後は、まさにお嬢と宏の「二人だけ」の世界の視点でハッピーエンドとして描かれていますが、そのための犠牲はどれほど多かったことか。これに比べると第4章の水夏EDは、確かに他人の幸せを踏み潰してしまったものの、それは最後に彼らの命によって精算され、彼らもまた肉体的には救われなかったもののその魂は救われたのだとしているのではないでしょうか。
人間の本性に踏み込んでいくことで、何が正しいのかすら麻痺してしまう、ある意味救いのない第1,3,4章(第2章はやや毛色が違うため除いておきますが)の展開の中で、最後の最後に、他人を貶めずともそれなりの幸福な世界は存在しうるとしたあたりが、このゲームの良心であり、私的にも納得できる部分でした。もし夏祭りルートがtrueルートで、みんな生き返ってハッピーだ、みたいな話だったとしたら非常に皮肉っけたっぷりの極めてダークな作品だと思えたような気がします。いかがでしょうか。
長々と書きましたが、私自身シナリオを完全に解釈できているとは言いがたく、ここに書いた解釈もどこまで正しいのかは正直疑問がありますが、またしばらく経ってからプレイしなおしてみたい作品ですね。
※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)