それは舞い散る桜のように ネタバレゲームインプレッション

Last Update 2002/10/24

おねがい

 このページは、ネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。
 ※直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。

 また、内容的にかなり辛辣なことを書いています。このため、本作品が大好きだという方は気分を害される危険性がありますので、出来ればこちらからお帰り頂ければと思います。大変申し訳ありませんが、お互い不幸にならないためにも(^^;)よろしくお願いします。

はじめに

 このゲーム、発売されたのは6月末なのですが、私がプレイしたのはつい最近のこと。すでに様々なサイトでレビューやインプレが公開されていますが、それらを見てみるとかなり評価にバラつきがあるようです。今回のネタバレゲームインプレッションでは、私が考えるこの作品のテーマや、この作品に潜んでいた真理だと感じられたモノについてまとめてみたいと思います。

キャラ設定や舞台設定

 非常に多くのサイトで作品の設定が説明不足で分からないという不満事項が挙げられていましたが、普通に読み取る限り、さほど説明不足の感はありませんでした。おおざっぱに箇条書きでまとめると以下のようになるでしょう。

 上記はいくつか推測を交えてしますし、おそらく間違いもあるとは思いますが、設定上のキーポイントは、

という2点のみです。特に後者の「どうして相手の記憶が壊れるのか?」についての説明は全くありませんが、その理屈付けはこの作品においては『ファンタジー』なのでなくて当然です(どうして妖精は空を飛べるのか?という命題に対して明確な答えを返しにくいのと同じ理由で、いわば『世界の前提条件』なのです)。ONEにおいてなぜ主人公が消えてしまうのか?に対して理屈付けができない or しにくいのと同じ理由です。

本作品のテーマは何か

 ですが、なぜ上記の設定が納得できないのか? ONEの設定は許容できるのにそれ散るの設定は許容できないのか? それは設定そのものに原因があるのではなく、むしろ設定の『テーマ的な必然性』を読み取りにくいから、だと思います。上記の設定は、物語の展開(筋書き)から想定されるこの物語の『テーマ』から見ると、起こるべくして起こる悲劇になっています。

 そこで、この作品の終盤の展開を再びキーポイントに絞って箇条書きにまとめると、以下のようになります。

 舞人に悲劇が降りかかる(=設定)のは、展開的な側面から見ると、悲劇や絶望が起こってもなおそこに希望を見出し、明日もまた再び人とのつながりの中に生きていけるかどうかを試されているからだ(=テーマ的必然)、と言えます。このことから作品のテーマを抽出して言葉にすれば、

『人間のつながりとそれによって生み出されるモノ(恋愛や友情など)は、
 それがもたらす絶望までひっくるめて「理屈抜きに」価値のあるものだ』

などということができるでしょう。(話は表面的には恋愛にフォーカスしていますが、周辺のサブキャラまでひっくるめて見ると必ずしも恋愛だけにフォーカスしているわけではありません。ですので、テーマは『人間のつながりとそれによって生み出されるモノ』と大枠で捉えるべきでしょう。)

 この作品の表面的な設定はONEのようではありますが、過去のリフレインとその克服という話の展開はむしろKanonの構成に近いです。またKanonの構成に似ているのはその展開の部分だけではなく、ラストもまたしかりです。Kanonでは主人公祐一が過去のトラウマを克服した上で、いわばそのご褒美として『奇跡』が起こりますが、この作品にも同じことが言えます。2月下旬に舞人は桜香との会話の中で、以下のようなことを思います。

   畏怖という名の感情の前に、一人でいることを望んでいた日々。
   抱いてしまった感情を否定し、二人でいた日々。
   充実していたのはどちらなのか。幸せだったのはどちらなのか。
   考えるまでもない。俺は求めてしまったのだから。その日々を。一人でいる自由よりも二人でいる充足。
   素直に孤独を恐れ、素直に誰かを求められる力。
   俺が憧れたのは、きっと、そんな力なのだから。

  「…関係ないんだよ、もう。何が素晴らしいだとか、素晴らしくないだとか。
   俺はただ、自分の周りにあるものが好きでいたかった。自分の周りにいる人を好きでいたかった。
   俺自身を、好きでいてほしかった。ただ、それだけなんだ。」

 この時点では、過去の痛みを忘れたわけではないにせよ舞人は絶望の中に希望を見出す素直な気持ちを見つけ、人と交わることを望んでいる。このセリフを桜香に言っている時点で、舞人の物語としてはある意味完結しているのです。その上で、桜香によってヒロインの記憶が取り戻されるという『奇跡』が起こって、物語としては大団円を迎える、という構成になっているわけです。

それにもかかわらず疑問点だらけの『物語』

 確かに筋書きの大枠を「最大限に善意に解釈すれば」上記のようなテーマが見えてくるし、その前提となっている設定の必然性も分からなくもないのですが、それでもなお私にはこの『物語』は疑問点の多い失敗作だったように思えます。私がそのように感じる理由は、多くのインプレやレビューが指摘するところの「設定が語り明かされていない」という点ではなく、「物語が展開上フォーカスしている部分やキャラクターの性格設定と、物語のテーマとが大きくずれている(しかも確信犯的に)」という点にあります。

 特に致命的な具体例をいくつか挙げてみましょう(問題点はこれらだけではありませんが、とりあえず)。

@ 主人公が苦しみながら成長する様の描写を忌避したシナリオ

 物語の展開から言うと、12月上旬に起こる悲劇は物語の展開上の『必然』ではあるのですが、この物語の展開やテーマから考えると、悲劇が起こること自体が重要なのではなく、悲劇から生まれる『絶望』を舞人がいかに消化していくか(ポジティブな思考へと転化させていくか)の方がずっと重要です。しかしその「冬の季節」はというと、春の季節、夏の季節、秋の季節の描写に比べるとあまりにも薄すぎ、その部分はプレイヤーの想像に大きくゆだねられてしまっています。いわば、主人公自身が苦しみながらも変わっていく最も重要なそのプロセスの描写を忌避したわけです。

A 都合の良すぎるキャラクタ―の性格設定

 現実に則して考えてみた場合、人間同士の付き合いというのはそうそう自分の思う通りに相手が動くものではありません。しかしこの物語に出てくるキャラクターたちはどこまで行っても「プレイヤーにとって都合のいい存在」を貫き通しています。最初に必要以上の好感度があることはギャルゲーのお約束だとしても、希望はどこまでいっても「恋するプリンセス」を、青葉はどこまでいっても「かわいい妹」を、小町はどこまでいっても「主人公のご機嫌取り」を崩さず、その主人公(プレイヤー)の期待を最後の最後まで決して裏切りません。

 例えば小町シナリオで二人が破局を迎えた理由。もし仮に現実で小町と主人公と同じ関係があった場合、小町が叛旗を翻してくる可能性はいくらでも考えられるでしょうし、破局が起こったのならそれは主人公が言うように「小町の好意に甘えつづけて愛想をつかされた」と解釈できるでしょう。しかしこのゲームの場合、主人公が言ったこのセリフは後悔どころか単に自分への甘えを含んだ捨てゼリフでしかなく、しかもその実態は「小町も主人公も『降りかかる悲劇の被害者』でしかなかった」という描かれ方をしています。

 つまり、あくまで悲劇は『降りかかるもの』、自分たちは『悲劇の被害者』でしかなく、自分たちは『決して悪くない』。さらにはヒロインが主人公に対して叛旗を翻して噛み付いてくるということは決してない。どこまで行っても『主人公にとって都合のよい世界』、自分に向けられつづけた好意は不可解な悲劇がない限りは絶対に変わることがない……この物語のテーマを考えた場合、この性格設定と展開の組み合わせを単に「ギャルゲーのお約束」で片付けてしまってよいのでしょうか?

 ……それにしたって、

  舞人「いつでも会えるんだからさ、離れたってどうってことないよ。青葉ちゃんが俺を忘れない限りは。」
  青葉「忘れないよ。私、絶対に忘れないよ。」

とまで直接的に図々しく言わせてしまうのはさすがにやりすぎではないか、と思ってしまいましたが。

B 都合の良すぎる物語展開

 主人公は最後に桜香に対して「俺は認めない。絶対に。必要なんだよ。彼女が。彼女と一緒でないと、もう笑えない。」というわけなのですが、このセリフでは『何を』認めないのでしょうか? そして彼が欲している『彼女』とはどんな存在なのでしょうか? 文脈に沿って考えれば、彼が認めないのは『彼女がいない絶望の世界(=冬)』であり、さらに彼が欲している『彼女』とは上述した通り『自分にとってもっとも都合のいい存在』である彼女です。

 この言葉を文字通り受け取ってしまうと、主人公は成長するどころか昔より退化しているとすら言えます。その様は悪意的に解釈すれば、おもちゃ売り場で母親に駄々をこねる子供のようで、自分のわがままをうまく消化する(=逃避する)ということすら出来ずにいるようにも見えます(※注意:諦めるとか逃避するというのもネガティブではありますが消化の一形態だと私は思います)。そして最後には、桜香によってその悲劇は取り除かれ、天からの贈り物として『春』が訪れる……あまりにも都合の良すぎる物語ではないでしょうか? 季節の移り変わりと同じように黙っていても春が訪れる、そんな都合のいい人間関係って、あり得るんでしょうか?

※ちょっとだけフォローしておきますと、このセリフはおそらく蛇足というか、間違って書かれてしまったものなのかもしれません。例えば青葉シナリオでは2/14に以下のようなセリフが語られますが、これを見る限り、主人公はとても上のような駄々をこねそうなキャラクターには見えません。上で挙げたセリフは額面通りに取らない方がよいのでしょうが、それにしても物語の鍵となるシーンでそういったセリフを語らせてしまっていることはやや異常であるように思います。

後悔だけはしない。あの今となっては短い時間、彼女がそばにいてくれた幸せだけは確かなのだから。身に染み付いてしまっている規則正しい生活慣習。その教えを遵守することが、いまの俺には彼女の供養に思えたのかもしれない。しっかりと生きていこう。たとえ、一人でも。

C 都合の良すぎるキャラクターの扱われ方

 もう一点、このゲームの主人公にとっての都合の良さを説明するという意味でちょっと別の例を挙げてみたいと思います。

 このゲームで私が文句なく一番好きなキャラクターは雪村小町です。このキャラクター、最初に出てきたときはただの妄想ストーカー少女であるかのように見えてしまうのですが、よくよくシナリオを追ってみると実はそのすべてが小町の自作自演である、ということが分かってきます。幼い頃、初めて自分の居場所を作ってくれた主人公。ずっと主人公を追いかけ、走っても突き放しても必ず追いすがってきた笑顔は、そのすべてが主人公への想いゆえのもの。『主人公にうまく突っ込ませるように予めオチをつけた上で』語られるマシンガントーク、『主人公をうまく笑わせるように』語られるギャグ、『主人公からの命令には決して背かず、それでいながら主人公にイヤな感じを与えないように細心の気遣いがなされた』ひとつひとつの言動。そのことを分かった上でもう一度シナリオをリプレイしてみると、どのセリフ一つをとっても、どの行動一つをとっても、すべてが主人公への気遣いによって一貫しているということが恐ろしいほどによく伝わってくる、そういうキャラクターなのです。

 その小町に対して、恋愛否定組である主人公は半ば「自分に好意があるのかな?」と思いつつもそれを打ち消すように行動してきた、また主人公の鈍さゆえに小町の深すぎる想いにも気付くことができない……というのがこの作品の前提条件でした。

 ここで青葉シナリオを振り返ってみてください。青葉シナリオでの主人公と青葉の関係は形式的に家族愛の兄・妹から始まっており、肉体関係があっても関係がはっきりせず、けじめがついていませんでした。その状況に綺麗に終止符を打つのに使われているのがかぐらというキャラです。かぐらは青葉の同級生で、主人公に青葉と同じように密かな想いを抱いていた。そのかぐらが主人公に対して『告白』という最終兵器を突きつけることにより主人公に決断を迫り、主人公から青葉に対する決意を引き出す、というのがこのシナリオの筋書きです。この展開をテクニック的に見れば非常に上手い、としか言いようがありません。

 しかし主人公が(肉体関係こそないものの)半ばその気持ちに気付きつつもずるずると関係を引きずっていること、また一方的に密かな(?)想いを持っている、というのは小町もまた同様です(つまりかぐらと小町は非常によく似ている)。ところが青葉シナリオではキャラ個別ルートに入った瞬間から小町はほとんど出てこなくなり、その関係も曖昧にされたまま、極端に言えば『なかったもの』と扱われています。……展開上のきっかけさえあれば「姉・妹」の関係になっている小町から主人公に告白して決断を迫るようにすることは可能だったかもしれません。にもかかわらずなぜ敢えて小町を使わずにかぐらというキャラを使ったのでしょうか? なぜ本編のような展開になっているのでしょうか? 青葉と比較されるのがなぜかぐら『のみ』でなければならなかったのでしょうか? 「告白する」というアクションを取らない限り(=視界に入ってこない限り)、たとえ想いに気付いていもその子は無視でよいのでしょうか? これをマルチシナリオ形態を取るギャルゲーの形態的な制約だと言ってしまってよいのでしょうか? こうした部分には必然性よりもむしろ作為が感じられてしまいます。

 @からCは私の主観も多分に入っていますし穿った見方なのかもしれませんが、それでも私にはこの作品の至るところに見られる設定や展開が『卑怯な奇麗事』に見えてしまうのです。加えて、制作元のBasiLの製品紹介のストーリーのページには、本作品について以下のような説明がなされています。

この物語は、主人公の精神的な成長を通して「恋愛」という人間関係がもたらす暖かさ、そしてその先に潜む冷たさとを問う、甘くせつないラブストーリーです。
(※下線は原文にはありません。)

 もちろんこの語りをそのまま文字通り受け取るつもりはないものの、果たしてこれが、本気で人と人との関係性について語ろうとしている作品だと言えるのでしょうか? 人と人との関係性について語ろうというのなら、制作スタッフはなぜ敢えてこのような都合の良すぎる設定や展開を選択したのでしょうか?

 敢えて百歩譲って解釈するのであれば、「ゲームという世界で、実際の人間社会で起こるようなシビアな人間関係を描く必要はない、温かいファンタジーの中で人のつながりへの情動を描いたのだ」ということになるのでしょうが、さすがにこれは譲りすぎではないかと思えます。また、最近はシビアな現実的な人間関係の中に光を見出すような描き方をする作品も少なからずあるわけで、この作品の『プレイヤーにとってのあまりの都合の良さ』はテーマ性と相まって、私にとって正直なところプレイしていて非常に気持ちが悪く、居心地が悪いものでした。

この作品に潜んでいた真理

 ……とまあ散々なことを書いておきながらも、それでもなおなぜこの作品を私が切り捨てられずにこんな長文インプレを書いているのかというと、それは八重樫つばさシナリオで図らずも本当に価値のある真理が浮かび上がっていたと思ったからです。その真理とは、

『物事の価値は(一見そう見えても)理屈では決まらない。
 心の奥底から来る情動によって決まるものであり、そこに人間の営みが生み出す素晴らしさがある。』

というものです。これについて、もう少し詳しく説明したいと思います。

 先に私はこの作品のテーマは

『人間のつながりとそれによって生み出されるモノ(恋愛や友情など)は
 それがもたらす絶望までひっくるめて「理屈抜きに」価値のあるものだ』

だと書きましたが、そもそもなぜ『価値』があるのでしょうか? それは、人間のつながりが時としてどんなに人の心を苦しめることがあったとしても、それでもなお人間は心の奥底から湧き上がる感情(「情動」あるいは「情緒」と呼ばれるもの)によって他人とのつながりを求めるからです。このつばさシナリオではまさに、理性 vs 情動という対比を持ち込むことによって、『人のつながりにはなぜ価値があるのか?』という真理に近づいているのです。様々なレビューやインプレで引用されている作中のセリフですが、

  「恋の魔法、なんてよく言うけどさ、あれって実に言い得て妙なのね。
   その人のちょっとしたしぐさを、ある日気がついたらいいなって思ってる。
   一般にそれを恋って呼ぶわけだけど、それって結局のところただの勘違いよね。
   だからいつかその思い違いに気が付くわけ。そしたら、はい、恋の魔法はおしまい。」

 理屈で考えれば(理性的に推論すれば)物の価値なんて『勘違い』に過ぎないことも多々ある。それにもかかわらず、つばさは自らの情動が生み出した物の価値−『恋の魔法』に敗北するのです。

  「だから、さ。私のひねくれた理論の例外になるくらい、舞人を好きになっちゃおうかなって。
   それが私の結論。そしたら私、舞人にお願いしにいくよ。彼女にしてくださいって。」

 まとめると結局のところ、『人間とのつながりを求めようとする気持ち』は情動的なものであり、そして「情動によって感じられる物の価値」は「理性によって推論される物の価値」を圧倒するもの。それは冷静に考えれば勘違いかもしれないけれど、それでなお、そこにこそ人間の営みが生み出す素晴らしさがある。その真理が浮かび上がっているのがこのつばさシナリオだと思うのです。

 この真理に比べてみれば、『人間同士のつながりは価値あるものだ』などというテーマはいわばサブテーマ程度にしかなりませんし、またこの真理には普遍性があるが故に、この真理を元に作品世界の様々な事象を『意味付け』していくことが出来ます。実際、作品構造やED、物語展開をバッサリと切り落とした(無視した)上でこの真理を中心にして作品を解釈し直した、優れた二次解釈も存在します。ゲーム批評サイト臥猫堂ののり氏による本作品のレビューはまさにその好例であり、さらにのり氏のレビューは『情動は時として痛みを伴うけれども、それすらも情動は希望に変えていくことができる』といった情動の自浄作用とでも言うべきところまで踏み込んで語っています。作品の二次解釈レビューとして、まさに『作品を越えてしまった』レビューの一つとして素晴らしい逸品と言ってよい、一見の価値あるレビューだと思います。

 しかし、なぜつばさシナリオでは、制作スタッフが事前に定義したであろうテーマを越える『真理』が浮かび上がってしまったのでしょうか?

 それはとらいあんぐるハートシリーズと同じ理由であったと私は考えています。作品の構造や展開から語られたテーマが、事前に作者が設定したテーマを越えることはまずありませんが、心を持った、感情を持ったキャラが自然に生み出す意味や価値には無限の可能性が秘められています。このゲームは前述した通り、トップダウン的な作品構造や舞台設定・キャラ設定については疑問符だらけですが、ボトムアップ的なキャラクターの細かい動きに着目すると、そこにはとらハシリーズなどに劣らない、極めて繊細な描写がなされています(これは表面的なギャグのことだけを指しているのではなく、小町やつばさのように内面的な心の葛藤や相手への気遣いなどまで感じられるほどの繊細さがある、という意味)。こうしたキャラクターたちによって織り成される日常生活の中にひっそりと潜んでいた真理。それが前述したものだったと思うのです。

 しかし制作スタッフはこの真理が潜んでいたことに果たして気付いていたのか、もしくはこの真理を描くこと自体が作品の目的だったのか、と考えると残念ながら(希望のノリで(^^;))「ありえない」としか私には思えません。いや、OPムービーでつばさシナリオ(個別ルート)内のセリフを先頭に持ってきていたことから考えるともしかしたら気付いてはいたのかもしれませんが、少なくともこの真理を中心として作品を組み上げていくことは出来ていないのではないでしょうか。もしこの真理こそが作品のテーマであったのなら作品中の様々な設定との間のギャップはあまりにも大きすぎますし、情動による価値というのはいわば『物の見方の一つ』のようなものなのですからそこに全く踏み込むそぶりすら見せない中間ED以降の展開はおかしな話です。また作品のテーマというのは通常、すべての物語が終わった上で「作品全体から滲み出るような」構成にするといったように『作品全体』で語るのが普通ですが、果たしてこの作品全体からどのようなテーマを感じられたでしょうか? またそれは作品のありとあらゆるベクトルと方向性が一致しているものでしょうか?

 もしこの真理こそがテーマであったと言うのなら、この作品の構成は「テーマ(情動の価値)を語るための手段(人のつながり)が作品の主目的(テーマ)になってしまった」ように私には感じられてしまうのです。

まとめ

 かなり延々と主観的な感想を書いてしまいましたが、まとめれば、作品を高く評価する気にはとてもなれないにもかかわらず、そこに生きていたキャラとそれが産み落とした真理に対しては高い評価を下したくなる作品、それが本作品「それは舞い散る桜のように」だったと思えます。正直に言って全体としては「駄作だった」と思いながらも細かいところでは光るものも数多くあり、ネタバレインプレを書かずにはいられなくなってしまう、そんな不思議な作品ではありました。

 いろいろと不満はあれど、今回BasiLの作品を初めてプレイさせてもらってみて、次回作はボトムアップ的な強みをさらに生かしたものになること、トップダウン的な物語構造をより洗練させたものになることを願いたい、そんなことを思いました。

 でも最後に一言。雪村小町はかわいいっす。ええ、どんなにワナだと分かっててもかわいいんですってば。(^^;)

[Special Thanks]

 今回のネタバレインプレをまとめるにあたっては、臥猫堂ののりさんとのディスカッションが非常に役立ちました。これなくして今回のもやもやした感覚を払拭することは出来なかったです。ありがとうございました。
※臥猫堂さんのところは面白いレビューが多いです。特にPhantomのレビュー(憑物落とし)は派手な演出と高いエンターテイメント性ゆえに見落とされがちな作品の構造を見事に解き明かしており、一見の価値ありです。


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