SNOW ネタバレゲームインプレッション

Last Update 2003/02/17

おねがい

 このページは、ネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。また、直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。

※ なお、このゲームインプレに関してはしぐれシナリオが好きな方にはあまり読むことをお薦めしません。下手をすると作品に対する評価を一転させかねませんので、予めご了承の上、お読みください。

はじめに

 このゲーム、雰囲気といい作りといい、Kanon と AIR を足して 2 で割った作品だと言われてもやむを得ない作品であり、それゆえ「劣化コピー作品」とまで称されるケースもあるようです。確かに私もその意見には少なからず賛同するのですが、半面、それだけで切り捨てられる作品なのかというとそうではない魅力も感じます。

 このゲームインプレでは、このゲームを単体として見た場合にどうなのか、それを考えるところから初めてみたいと思います。

納得感に欠けるシナリオ

 SNOW には各所に思考を誘導するような「見え透いた伏線」が数多く張られており、予定調和的に明かされていく数々の謎に納得しながらゲームを進めていったプレイヤーも多かったでしょうが、半面、ゲーム終了後にふと振り返ってみたとき、全体を通して整合性の取れたシナリオ解釈が見出せずに「???」となってしまったプレイヤーもかなり多かったのではないでしょうか。私自身、シナリオテキストからいろいろ考えてはみましたが、細部はともかく全体として整合性の取れたうまい解釈は見つけられませんでした。

 実際、個々のシナリオを見ると全体としての整合性よりもストーリーの流れや読後感の良さを優先させたと思える点もあります。例えば、なぜ澄乃シナリオでは澄乃が記憶を失っていくのに桜花シナリオでは大丈夫なのか。しぐれシナリオのエピローグでしぐれが人間として復活する理由は何故なのか。桜花シナリオで意識的にしぐれだけが無視されている理由は何故なのか。なぜ最終的に天罰は解けるのか。などなど。これらに関していくつかの Web サイトで様々な解釈が試みられていますが、シナリオ中でのヒントの少なさもあって、納得感のある解釈は残念ながら出てきていないようです。

 そもそも、もっと大きな視点から話の作りの大枠を見てみると、納得のいかない部分や疑問が残る部分もいろいろとあるのです。二つほど例を挙げてみます。

@ しぐれシナリオのエピローグ

 このシナリオは Legend 編で抱えることとなったしぐれの二つの問題点を解放するシナリオでした。

 しぐれによって降らされている万年雪の原因はこの二つの両方にありますが、この二つの両方を解決することによって、しぐれの魂を昇華させること、それがしぐれの解放劇となります。

 ここで注意して欲しいのは、一点目にある Legend 編のリプレイは、しぐれの解放劇という観点から見た場合には必ずしも過去の事実を書き換えることは必要ない(単に過去を別の形にシミュレートさせるだけでよい)、ということです。

 このシナリオのラストでしぐれが人間として復活するためには過去の事実が書き換えられた方がなんとなくすっきりしますが、しかしこの書き換えを行うためには白桜ではなく彼方が当時に存在していなければならない、当時に存在しなかった花火も存在しないといけない、さらにはそんな話になってしまうと白桜の尻拭いを彼方がしていることになる……とかなりの無茶が発生します。

 むしろ、このシナリオでは「しぐれが人間として復活せずに、単に心残りがなくなって消滅した」方が(悲劇ではありますが)大きな話の筋としては無茶がなくしっくり来ます。つまり、話の構造から見ると、このしぐれ復活自体が私には『蛇足』に見えるのです。

A シャモンは何者か?

 このゲームでは Legend 編の登場人物と現代の登場人物がきれいにマッピングできるようになっているのですが、唯一、シャモンだけがうまくマッピングできません。

 これだけ綺麗で分かりやすい対応関係をつけているにもかかわらず、なせシャモンにだけ敢えて謎を残したのか。もちろん想像の余地を残すためであるとか、さらには天の神様が猫になってみんなの行動をそばで見ているとか、好意的な解釈も可能ではありますが、私には敢えてここだけに大きな謎を残す必然性が見出せないのです。

 逆に、私はこんなことを妄想してしまうのです。例えば、(現代シナリオにおける)北里しぐれが存在せず、なおかつしぐれが白桜に恋愛の情を持っておらず、さらにシャモンがしぐれの転生体だったと仮定する(=しぐれシナリオを丸ごと削ってしまう)とどうでしょう? シャモンが桜花のそばに寄り添ったり、あるいは彼方を桜花のところに導いたり、さらには姉のように彼らを暖かく見守るような視線。なぜか桜花シナリオでは意図的に無視されていたしぐれの存在、そして桜花シナリオのエピローグで集まった全員が迎えた大団円。今までなんとなく納得できなかった要素、それらがすべて綺麗に一本にまとまってくるようには思えないでしょうか?

 どちらの例も私の勝手な妄想が入っていますし、実際にはスタッフ陣は全く違う『正解』を持っているというのが真実なのでしょう。しかしいずれにしてもヒントの少なさもあって、あちらを立てればこちらが立たずという状況、統一感のあるシナリオ解釈が見出せなくなっているのは事実ではないでしょうか。

それでも酷評されにくい SNOW

 私が知る限り、全体構造が不完全に感じられる物語は酷評を免れないことがほとんどなのですが、にもかかわらず SNOW の場合、不思議なことに(シナリオ面に限っても)完膚なきまでに叩いているレビューはほとんど見られません。それは何故でしょうか? 丁寧な演出効果や CG の美しさといった『見た目』に関する点を除いてシナリオ面に限定して考えると、その理由は二つあるのではないかと思います。

@ 物語の分かりやすさ

 まず一点目の理由として、非常に不快感の残りにくいシナリオになっている点が挙げられるでしょう。確かに私のようなシナリオ解釈屋にとって設定の整合性のなさは致命的ではあるのですが、にもかかわらず、このゲームの場合には一点、完璧なまでに整合性が取れている部分があるのです。それは、『各キャラクターが信じる幸せと、その結末の一致』です。

 この SNOW の場合、各人が考える『幸せのカタチ』はこの上なく分かりやすいです。澄乃は彼方と結ばれること、旭は彼方のそばにいること、しぐれは彼方と共に過ごすこと、桜花は両親と共に過ごすこと。桜花に限っては全体エピローグということもあってやや微妙なエンディングになってはいますが、基本的に各シナリオのエンディングはこの『幸せ』に対して一直線であり、しかも「そもそも幸せって何だっけ?」などと悩み始めることなど一切ありません。プレイヤーは伏せられた『謎』に対してあれこれ思索することはあっても、『概念』的な部分であれこれと悩まされません。これほどプレイヤーにとって分かりやすい物語はなく、『幸せの成就』という観点から見た場合に不快感の残りにくい物語になっています。

A 主人公(彼方)の行動の上手さ

 もう一点の理由として、(あまり直接的に意識している人は少ないと思いますが)彼方の行動の上手さという部分もあるのではないかと思います。

 この作品を転生ものだと考えて、白桜=彼方であると解釈してしまうと見えづらくなるのですが、しぐれシナリオや桜花シナリオの至るところに、白桜と彼方の『違い』を意識したテキストが見受けられます。確かに設定上は桜花シナリオラストで桜花→さくら、白桜→彼方、菊花→澄乃という構図を見せていますが、なぜ彼方は呪いのような天罰を逃れることができたのでしょうか? つまり、白桜と彼方の違いはどこにあるのでしょうか?

 彼方にあって白桜にはなかったもの、それは「過去や規則、既成概念に縛られない」という点であろうと思います。これはシナリオ中では「…でも、もし俺がその伝説に出てくる男だったら…きっと、もっと気楽に考えているんだろうなぁ」というテキストであるとか、あるいは鳳仙(芽依子)のセリフによく出てくる「自分を信じろ」というセリフによく現れています。このポイントをしつこく掘り返すような無粋なテキストこそないものの、彼方の行動のフォーマットは基本的にこの「過去や規則、既成概念に縛られない」で統一されています。

 かといって彼方は甘さや軽さだけのキャラクターというわけでもありません。口先では自由奔放を語り、内省的な思考ロジックを見せないものの、実際には思慮があり、無茶な行動は取らず、しかも情のある行動を各所で見せます。

 以上二つの観点に基づいて考えれば、桜花シナリオで Legend 編に対して一切の言及がなかったのも「現在を生きる」彼方からすれば当たり前のことですし、桜花とさくらを最後まで決して同一視しなかったのも彼方ならでは、です。(作品中でははっきりとした理由付けがなされていませんが、天罰が消えたのもこの辺りに理由があると考えると割とすっきりすると思います。)

 ある種、白桜が X ゲームにありがちな典型的なダメ主人公像をなぞっているのに比べると、彼方の方は行動がスマートで、しかもそれを殊更にアピールすることをしない。もちろん、それを認めるような時代背景などもあるし、彼方も別の観点から見れば甘さだらけのキャラではありますが、この部分に作品としての甘さと心地よさが存在しているのではないか、そんな気がしてなりません。

 結局、これら@Aと関連しますが、この作品の全体を通して「幸せに対して素直に生きよう」とでも言うべき姿勢が貫かれており、多くの人はこの分かりやすいテーマ性に共感するが故に、多少の構造の不完全さに対しては目をつぶってもいいやと感じているのではないかと思うのです。(少なくとも私はそうです。)

まとめ

 作品を貫く「幸せに対して素直に生きよう」とでも言うべき姿勢、これはエンターテイメント作品ならではのものであり、エンターテイメント作品として SNOW を捉えるのであれば、しつこすぎない演出、丁寧な画像効果、皆無な誤字脱字、アクの強くないテキストなどなど、SNOW には数多くの見るべき点があろうと思います。外見的な違いを標榜しつつその内実は Kanon や AIR の泣きの『構図』だけをトレースした作品が趨勢を占める今の状況において、エンターテイメントとしてのこの丁寧な作品作りは特筆すべきものであろうと思います。

 しかしだからといって、Kanon や AIR との類似性を抜きにして手放しで誉められる作品かというとやはりそういうわけにもいかないでしょう。確かに Kanon や AIR のように作り手の信念をテーマとして力強く語りかけてくる作品とはそもそもベクトルが違うのだから土俵が違うのだ、という論理展開をすることも可能かもしれません。しかし一方で Kanon や AIR といった過去の資産なくしては作り得なかった作品でしょうし、「同じ Visual Arts 系列だから」という作品そのものとは全く無縁な理由でなぜかこのようなパクリが許容されているというのが現実ではないでしょうか。

 SNOW のスタッフ陣が持つ丁寧な作品作りは確かに一目置くことができると思います。しかし、いやだからこそ、コンセプトや思想の良さを持ちつつもそれをエンターテイメントとして上手く伝えることのできないようなもったいないクリエイターの人たちと組んでもらうことはできないのだろうか、とも思ってしまうのです。AIR になかった作りの分かりやすさや丁寧さがここにあり、AIR にあった思想の良さはここにはない。相互にうまく補完することができるのなら、さらに前進できるのではないか……甘っちょろい理想論であると知りつつも、なおそうした期待を私は抱いてしまうのです。


※mailto:akane@pasteltown.sakura.ne.jp (まちばりあかね☆)