このページは、BS アニメ劇場で放映されたアニメ版「プラネテス」のネタバレインプレページです。このページを読んでしまうと、アニメ版の楽しみの大半を損なう危険性がありますので注意してください。
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アニメ関係ではここしばらく『神』と呼べる作品には出会えていませんでしたが、アニメ版プラネテスは数年に一作ぐらいの大作といってもよい、素晴らしい作品でした。
アニメ版を最終話まで通して見比べてみるとよく分かるのですが、石ころと見間違えそうな宝石の原石とも言える原作から、そのエッセンスを見事な形で再構築し、素晴らしいダイヤモンドに仕立て上げたのがアニメ版プラネテスだと言えるでしょう。シリーズ完結型の作品として、物語としての帰結点を(原作の主旨を履き違えないままに)きちんと作り込んでいる点も、私としては非常に高く評価できるポイントです。
この作品では非常に数多くのトピックが取り扱われており、明確にテーマが前面に押し出されているわけでもないのですが、その中でもアニメ版で中核となっているテーマと物語の帰結点を端的に言い表すのであれば、
複雑さを増す現代社会における新しい「個」の在り方
だと言えるのではないかと私は思います。
とはいえ、それがどのようなカタチで描かれているのかを読み取るためには、まずハチマキと田名部の物語、そしてそれが作品全体とどのような関係にあるのかを読み取る必要があると思います。これについて、以下の 3 つのトピックに分けて書いてみたいと思います。
ハチマキの『わがまま』と田名部の『愛』
『個人』としての物語の帰結点
社会や環境を『前提条件』として捉える「個」の在り方
アニメ版プラネテスでは、ハチマキや田名部といった個人レベルのドラマと、テロや巨大企業、国家といった政治色の強い社会規模のドラマとが並列的に進められていっています。しかし、後者を読み解く前に、まず前者のハチマキと田名部の物語に着目してみると、この二人は面白いぐらいに対照的なところを持っています。
一部の掲示板や知り合いの感想などから推測すると、特にシリーズ前半のハチマキのわがままっぷりと、田名部の見境なく振り撒かれる愛という言葉の浅さ、青二才ぶりに嫌悪した人も多かったかもしれません。ですが、純真とも言えるこの二つの要素は、この作品の中核となる構成要素でもあり、これを単純に青臭いと切り捨てるのはこの二つの本質的な重要性が分かっていないからではないか? とも思えます。以下に少し噛み砕いてみます。
ハチマキは言います。「わがままになるのが怖いヤツなんかに、宇宙は切り開けねェよ」と。
一般的に「わがまま」というと悪いことのように捉えられますが、この作品ではむしろ「わがまま」(個人のエゴ)は明日を切り開くための活力として捉えられています。
この点について分かりやすいのが、フォンブラウン号の開発責任者であるロックスミス博士。彼は、タンデムミラーエンジンの臨界事故からも分かるように、非人道的なまでのわがままっぷりを披露してくれます。その手段を選ばぬやり口はまさしく悪魔であり、愛のかけらもないと言えるでしょう。しかしそのエゴのカタマリは、同時に「宇宙」のような未開の場所を切り開き、「木星往還船」のような偉業を成し遂げる底力でもあります。
「次は失敗しません、ご期待ください」というトンデモないセリフに対してマスコミの非難が集まる最中、唯一、星野五郎だけは彼からの招聘を受ける決意を決める。それは、星野五郎(=火星往還の偉業を成し遂げた人物)自身が、「わがまま」(=個人のエゴ)こそが何かしらの偉業を成し遂げる源泉であることを知っており、ロックスミスの強烈なまでのエゴに、自らの底に眠るエゴを刺激されたからなのでしょう。
一応、念のため(^^;)に書きますが、田名部の言う「愛」とは、もちろん「好き」の延長線にある、特定個人に向けられる「愛」のことではなく、いわゆる「博愛主義」の「愛」のことです。もっと分かりやすく書くのであれば、「愛」とは『思いやり』、すなわち他者を思いやる気持ちや気遣いのことです。
田名部の言う「愛」は、クレアというテロリストにすら向けられます。しかし、罪の所在や責任とは別の問題として、すべての相手を気遣う気持ちや心の持ち方が、田名部の言うところの「愛」だと言えるでしょう。
※どうして田名部がここまで執拗に「愛」を語るのか、その理由についてはアニメ版でも原作でも明確には描かれていませんが、原作の設定では田名部は捨て子であり、北海道のある夫妻によって育てられたという生い立ちになっています。
さて、シリーズ前半で田名部はハチマキのわがままっぷりを前に「愛がない」と言い放ち、シリーズ中盤ではハチマキは田名部からの愛を断ち切ろうとします。それはなぜかと言えば、個人のエゴ(わがまま)と、他者への愛という二つの概念が、なかなか相容れない(相容れにくい)ものだからだ、と言えるでしょう。
そのことをハチマキ側から分かりやすく示しているのが、シリーズ中盤でハチマキが心の闇の中で対峙する自らのドッペルゲンガーのエピソードです。あのドッペルゲンガーは、「妥協」という名の心の誘惑だと考えると分かりやすいでしょう。ハチマキが田名部のことを頑なに拒否する理由、それはハチマキにとって田名部の振りかざす「愛」の理論、「思いやり」の理論が、妥協へと繋がるものに見えるから。それはハチマキの力の源泉である、「どこまでも突き進もうとする欲求」そのものを阻害し、下手をすれば立ち止まらせてしまう誘惑すら持つ。その『立ち止まってしまうこと』への「恐れ」が、ハチマキを田名部から遠ざけた一番の理由ではないでしょうか。
愛(思いやり)に囲まれて育てられてきた田名部にとっては、他人からの思いやりを拒絶して自らのわがままを貫き通そうというハチマキの考え方そのものが、哀しく、放置できないものだった。だからこそ、シリーズ前半であれほどまでにハチマキに付きまとったのでしょうが、ハチマキにとってそれは自らを妥協させ、立ち止まらせる甘美な言い訳。彼は不器用だからこそ、自らのわがままにさらにのめり込み、他者を頑なに拒んで突き進もうとするわけです。
そんなすれ違う二人の物語は、24 話「愛」と 25 話「惑い人」の 2 つのストーリーで綺麗に決着がつけられました。その決着は、『互いに異なる概念の相互理解と尊重』を通して行われています。
田名部の博愛主義は、あらゆるものに対して見境なく降り注がれ、振りかざされるものでした。その「思いやりの気持ち」は確かに重要で大切なものだけれども、しかしクレアはそんな田名部の愛を、「あなたの愛は薄っぺらい」と切り捨てました。それがなぜかと言えば、田名部の言う「愛」(他者への思いやりの気持ち)だけでは、現実的に社会の貧富の差や弱者の問題を解決できるわけがない、つまり社会を救えるわけではないからです。
しかし、ではせめて個人の心だったら「愛」(思いやり)で救えるのか? というと、実はそれすらもノーである、という冷たい事実を突き付けられたのが、あの 24 話のラストです。田名部の言う「愛」で実際、誰が救えたのだろうか? 実際、貧富の差はなくならず、テロでは多くの命が失われ、そしてあれだけ愛したハチマキすらも、実は自分が救えたわけではなかったという驚愕の事実を、田名部はその極限状態で突き付けられたのです。
「……わたし……バカだ……先輩を救ったのは……私じゃなかった……
救ったのは……先輩が愛していたのは……愛していたのは……わたしじゃなかったんだ……」田名部の言う「愛」で本当に人を救えるのか。最も愛を向けているハチマキですら結局のところは救えていない、言い換えれば、当人の心の問題はその当人にしか本質的には救えない、しょせん人の心は孤独なのだという真理。田名部にとって驚愕の事実、『個』という概念を、極限状態で突きつけられるわけです。
そしてそれに追い討ちをかけるように酸素がなくなり、カルネアデスの板の選択(クレアから酸素を奪って生き延びるか否か)を突き付けられる。つまり、愛では人を真の意味で救えないという真理を知った田名部に突きつけられた、『生存』という名の究極の選択肢。
田名部がクレアから酸素を奪えば、少なくとも一人は生き延びられる。
足りない酸素の中、限界までは努力したという事実。
クレアは田名部の大切な人たちを殺したテロリスト、しかもクレア自身が死を望んでいる。
クレアを生かしたいと思ったのは田名部の言う「愛」ゆえだったが、それも打ち砕かれた。
という、いくらでも自分のエゴに対して『言い訳』が立てられる状況下で、それでもなお本質的に人を救うことができない「愛」を取るかどうか? という選択を田名部に迫るのが、このシーンなわけです。
ハチマキがこだわり、目指していた宇宙。それは外にある「宇宙」を目指したかのようで、実は自らの心の中に潜む、深遠なる内宇宙を目指していたと言えるでしょう。彼の腹の底から湧きあがってくる、遥か遠くの宇宙を目指したいという気持ち、それは自らの心の中にあるエゴ(わがまま)であり、ハチマキの力の源です。しかし、自らの決めた、自らが欲する道を進むために、他との関わりを断ってまでそれに没頭してとことん自己中心的に進んでいくことは、自己の中に潜む孤独という名の内宇宙に囚われることに他なりません。
ハチマキは、シリーズ後半で再三「どこに行くのか…?」と自問しますが、その彼が向かおうとしていた先は、暗示的に「内宇宙」になっていた、というわけです。しかし、それは救いのない行き先でもあります。
その惑い人が物語の終着点で行き着いた境地、それが人の繋がりによって形作られ、広がっていく宇宙を理解するということでした。25 話で海に溺れたハチマキが、孤独という内宇宙から解放されるプロセス、それはハチマキが断ち切れなかったもの(=他人との繋がり)を理解することであり、田名部から受けた思いやりを理解することであり、そして宇宙というものが必然的に人のつながり(=「愛」)を内包してしまうものだということを理解することでした。
「田名部。さっきお前に会ったとき、分かった気がするんだ。
……オレの宇宙ってさ、ちっぽけだったんだよ。
確かに、いろんな悩みや答えが出ないことっていっぱいあるんだけどさ。
だけどさ、この世に宇宙の一部じゃないものなんて、なくって……。
オレですらつながっていて、それで初めて宇宙なんだって……。
なんか、それでいいのかな、って……。ははっ、うまく言えないな。
だけど、田名部もそれが言いたかったんじゃないのか?
この世界はすべてつながってるって。そして、それをつなげているのが……」すべては宇宙の一部である……地球すらも、人間すらも、その繋がりすらも。彼が一番に求めた宇宙、それは自分の中ではなく、自分の外にあるものだということを象徴的に描いたのが、海に溺れたシーンだというわけです。
田名部と繋がりを持つこと、それは本当の意味で「個人のエゴ(わがまま)」を貫き通そうとする人にとっては枷(かせ)になるもの。しかし、人を愛さずにはいられないことを知る。田名部という港を得て、それによりさらに先へと進んでいけるようになる。それがハチマキの物語の終着点だったと言えるでしょう。
つまり端的に書けば、田名部は「個人のエゴ(わがまま)」というものを理解し、ハチマキは「人と人とのつながり(愛)」というものを理解する。24・25 話は、ハチマキと田名部が互いに欠けていたもの、つまり自分とは違う概念を互いに理解し合う、そうすることによって二人が一回りずつ成長すると言う物語になっているのです。
ただし、ここで誤解してはならないポイントは、ハチマキの中核となる考え方が「個」から「全」へと、あるいは田名部の中核となる考え方が「全」から「個」へと変わったわけではない、という点です。
状況を鑑みれば、田名部がクレアから酸素を奪っても、あるいはハチマキが土星へ行く事を取りやめても、誰も文句は言わないし、むしろ積極的にそうすることを薦めるでしょう。ですが、田名部は最後の最後に結局、クレアから酸素を奪うことは出来ず、またハチマキも、やはり木星へと旅立って行きました。ハチマキを見送る田名部の落ち着き払った姿もまた、個(わがまま)を認めながらも愛(思いやり)を語る田名部の姿として、非常に印象的です。
つまり、24・25 話の示している結末は、二人の相互理解を通した成長劇ですが、それは決してそれぞれの軸足の置き方を変えるということを意味するわけではありません。軸足の置き方を変える必要はないけれども、自分とは違う物事の考え方を理解することによってより充実した生き方が出来るのなら、それは幸せなことだろう、そういうカタチを描いてくれたのが、この 24・25 話だったわけです。
しかし、この 24・25 話だけでは、物語の結末としては乱暴と言わざるを得ません。
なぜかというと、この作品は個人の物語として田名部とハチマキの物語を描いていますが、それと同時にテロリズムや巨大社会・国家の組織権力、持てる者と持たざる者といった、社会的な問題にまで素材を広げてしまっています。そうした社会的な問題に対する回答として、24・25 話が示した結論だけでは、やはり甘いといわざるを得ないでしょう。クレアの言うように、この理屈だけでは現実的に「今、まさに困っている」人たちを救いうる解にはならないのです。
つまり、理屈として「個人のわがままと、博愛の両方を加味した相互理解と相互尊重、バランスが大切なんだ」と言っても、それは『プラネテス』という物語の全体結論としては青臭い理想論といわざるを得ないわけです。
この点に対してプラネテスが出してきた回答、それが 26 話「そして巡りあう日々」でした。
作中で提示されている各種の社会問題的テーマに対するプラネテスの描き方、すなわち作り手の見解は明確なように思います。それは、
生まれ育ちや組織社会に関する問題は、個人の力では解決できない
です。
例えばテロ組織によるフォン・ブラウン号の墜落未遂事件。ストーリーライン上、これをデブリ課のメンバやチェンシンたちの協力、あるいは星野五郎たちの手によって救うことも出来たかもしれませんが、そういう描かれ方はしていません。むしろ彼らの無力感を描きつつ、事件は個人とは懸け離れた、テロ組織と国家との間における『裏取引』によって収束します。
このことは、作品全体から見ると極めて暗示的です。実際、冷静になって考えてみれば当たり前なのですが、我々のような「ちっぽけな一市民」が何かをしたところで、やっぱりテロ組織には勝てないし、貧富の差を解決できるはずもないし、巨大会社の組織に勝てるわけもありません。確かにそれらを打ち破るヒロイズムなストーリーは、胸がスカっとするものの、実に現実味のない絵空事でしかないとの誹謗を免れえません。
あるいは、ハキムやクレアというテロ組織側の観点から見ても同様なことが言えます。彼らは、宇宙防衛戦線の先端部隊としてフォン・ブラウン号に送り込まれるという重要ミッションを担っていた。にもかかわらず、最後には体よく取引材料として使われ、テロ組織からはあっさりと切り捨てられてしまう。ハキムにしてもクレアにしても、やはり社会や組織に踊らされていると言わざるを得ないのです。
社会という名の無機物が必然的に内包してしまう各種のジレンマや軋み、歪みは、個人の努力で一足飛びに解決できるような問題ではありません。むしろそれらは個人から見ると、受け入れざるを得ない『前提条件』として存在している類のものだと考えるべきでしょう。つまり我々は、社会という前提条件に振り回されざるを得ず、生まれ育ちはもちろんのこと、世界に数多ある理不尽も不条理も、それらは前提条件として受け入れることしかできないのです。
だとすれば、そうした複雑化した社会の中で、個人はその前提条件を受け入れ、個人としての『気の持ちよう』を変えていき、そして自分の出来る範囲内でのせいいっぱいのことをしながら前に進んで行くしかない。それを端的に表わしているのが、最終話のクレアの独白であり、ハキムとノノの会話なのではないでしょうか?
クレアはテクノーラ社という大会社の組織の中で社会の裏側の汚物をイヤというほど見せつけられ、ついにはテロ組織に荷担し、最後にはテロ組織からも切り捨てられてしまう。一足飛びで大きな解決を目指し、打ち砕かれたクレアは自らを自嘲気味に「しょせんは小者だってこと」と言う。しかし、その出所後の夢は翻訳だと語るクレアには、ゆっくり着実に前を目指そうという清々しい前向きさが伺えます。それはきっと、かつての彼女には考え付くことすらなかった「問題解決のカタチ」でしょう。
また、ハキムとノノとの会話も象徴的でした。生まれながらにしてルナリアンであるノノにとっては、ハキムの持つ概念自体が考えも及ばないもの。それを「苦しみを知らぬ無知な無邪気である」と切り捨てることはたやすいかもしれません。しかしハキムにとって、ノノのセリフ、そして月から見た地球は、少なくとも問題のすべてが外因問題なわけではなく、その一部が自分の心の中にあるものだということを気付かせるに十分なものだったのではないでしょうか?
エーデルがいつの間にか正社員になり、ドルフが最後の最後にテクノーラを離反して独立を果たす。それは前提条件を受け入れながらも努力を続けた彼らの賜物であり、個人として成し得る、社会に対する精一杯の問い掛けである、と言えるのではないでしょうか?
つまりこの作品の全体構造をまとめれば、
無機質な化け物である、国家やテロ組織との間では生臭い駆け引きと取り引きによる解決があり、個々人のレベルでは、すべては個人の心の持ちよう、心の在りようの問題へと帰着する。
そして個人の心の持ちようの問題は、田名部やハチマキによって描かれたような、偏見と無理解を改めて個人のわがままと互いの思いやりを尊重する、個人の物語へとつながる。
という 2 重の構成になっていると考えられるのです。
解決できない問題を前提条件として受け入れ、田名部やハチマキのように偏見や無理解を改め、個人の『気の持ちよう』を変え、そして前に進んでいく……最後に田名部やハチミキが、再び DS-12 の宇宙船から地球を見たときにそれがまた違った輝きを持って見えるのは、その心の持ちよう、気の持ちようが違うからなのではないでしょうか?
解決できない多彩な問題を抱えたこの社会において、安易な結論や結末を求めたくなる気持ちは誰にでもあると思います。しかしそうした安易の結末や結論は、物語としての純度はともかく、本質的な問題解決には繋がらないものでもあります。そう考えると、この作品は様々な社会問題などを取り扱いつつ、解決できない複雑化した社会における精一杯の個人の在り方を示したものであるように、私には思えるのです。
確かに、広げた風呂敷に対する回答としては陳腐で当たり前のものだと言えるかもしれません。ですが、同時に私はそれこそが本質であるとも思うのです。
本編中に様々に示されている価値観は、どれにも一理があり、どれか一つが正解なわけではなく、相互に矛盾し相反するものもたくさんあります。その多様な価値観、内包される様々な問題の中で、個々人が心の持ち方や在り方を考え、様々な考え方や概念を互いに理解し合い、取り込み、自分に出来るせいいっぱいをやっていく。その個々の物語の集合が、人類の歴史につながっていく……というのが、アニメ版プラネテスのエンディングの意味するところなのではないでしょうか?
プラネテス(惑い人)というタイトルに対する回答としては、田名部とハチマキの二人の物語だけでも十分かもしれませんでした。しかしそれを一回りも二周りも大きくし、社会的な前提条件を踏まえた上での現実解をフィクションという形で見せてみせた本作品は、おそらくアニメ史上でも数少ない名作と言えると思います。同じく谷口監督によるリヴァイアスも名作と呼ぶに足る作品でしたが、本作は同様のテーマをより深掘りして見せたという観点からも、アニメ史上に残る稀有の名作と言ってよいのではないでしょうか?
スタッフの皆様、本当に素晴らしい作品をどうもありがとうございました。Good Job!
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