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このゲームの構造的な上手さ(『時間』という要素の使い方や人間関係など)については多くのレビューが触れていることであり、今さら重複して触れることでもないので割愛しますが、主要3キャラシナリオの中でも特に一際輝いていたのは水月EDだったように思います。作品のテーマでもある「癒えない痛み」と、それが昇華された「想い出」とを、絵本を媒介にして非常にファンタジックに描いています。すべての要素に一通りの結論を出していることなどから見ても、おそらくはこの水月EDを中核として他シナリオを組み立てていったのではないか、と思えるフシがあります。
特に水月シナリオや茜シナリオでシナリオを動かしていく原動力となっているのが、非常に対照的な、遥の強さと主人公の弱さです。(ここで言う強さというのは、より的確には現実に対する受容力の違いのことであって、精神的な強さ・弱さや、遥が見せる脆さ・儚さとは違うもの。モトコが語る「彼女は強いわ」の真意を指す。) この遥の圧倒的なまでの強さは、逆説的ながら茜バッドエンド1(遥隠し妻)で垣間見ることができます。水月が遥に流れていく主人公を見て自分を維持できずに壊れていくことなどと比較すれば、遥のぞっとするまでの強さと怖さ(愛美などと違って正常心を保ったまま確信犯的にやっているところが恐ろしい)は全キャラの中でも一際際立っています。
ところがそう考えると、当の本人の遥シナリオではどうでしょうか。遥の強さどころかむしろ弱さ・儚さが目立ち、しかも遥が強さを発揮しそうなところですべて主人公がその芽を摘み取ります(選択肢の配置場所を見るとある意味明らかです)。主人公(プレイヤー)が遥を助けたいと思うほど遥はそれに甘え、主人公が満たされるかわりに遥の自立(3年間という時間の克服)が遅れていく。……もちろん、プレイヤーがそうした選択をすることが間違いだとは言いませんし、誰にも言えませんが、他シナリオ描写と比較すると極めて逆説的な描写に思えてなりません。
また、主人公には遥を選択することによって遥をダメしているかもしれないという意識は当然なく、当事者である主人公にとっては予定調和的な、3年越しの初恋成就物語。しかし遥が3年間という時間を本当に取り戻したのは、ラスト直前での水月との会話ではなかったでしょうか。最後の最後で「いつか、きっとまたみんなで笑える日がくるよ。水月は、絶対それを信じてる。そのために、いなくなるんだから。」と語る遥が掴んだ強さ。主人公不在で成長した遥、そして最後に遥に癒される、弱いままの主人公。それもまた必然的な展開であったのかもしれませんし、そんな二人だからこそ上手くやっていけるのでしょうが、ゲーム作品として見た場合、本質的な痛みを回避し、ファンタジー的な心地良さを演出しているようにも思えます。それが悪いとは言いませんが、私はやや物足りなさを感じます。
……それにしても一見水月との方が馴れ合い・持たれ合い的な関係に見えますが、むしろ遥との方がお互いの弱さを補完しあう関係になっている、というのがなんとも逆説的で面白いように思えます。
ところで、このゲームは鬱ゲー(^^;)と称されるほど主人公が思考の泥沼のどん底に叩き落されていくゲームですが、そのどん底から這い上がってくるのもまた主人公の思考によるものです。その思考の悪循環を打ち切ったのは、主人公自身が「本当の気持ち」に気付くことだったわけですが、私はこのロジックに不自然さを感じてなりませんでした。
このゲームの主人公は必要以上に自省的であり、そしてまた自省的であるが故に自己の本質が隠されてしまっています。要するに、反省するという意識的行動によって、無意識の衝動が抑え込まれて隠されてしまっているわけです。そのことに気付いて、無意識の衝動=本当の気持ちに基いて進む道を決めていく、というのが筋書きだと思いますが、意識というラッピングを剥いだ後に現れる個人的無意識の領域は、果たしてそんなに単純で綺麗なものなのでしょうか?
この主人公はその個人的無意識の領域に、遥・水月・茜のいずれかへの恋情・愛情を自覚しますが、個人的無意識の領域には主人公の醜さや汚さもまた存在するのではないかと思えてなりません。つまり、主人公は、「他人を傷つけたくない」という言い訳の元、自分の個人的無意識を認識することから逃げていましたが、しかし彼が認識した個人的無意識もまた、彼にとって都合のいい言い訳だけだったのではないでしょうか?
例えば遥シナリオにおいて、水月を抱いたという慎二に孝之は衝動的に飛び掛かります。なぜでしょうか? シナリオテキスト上は慎二が水月の弱さに付け入って水月を汚したからだと言いますが、この衝動的な行動を果たしてそんな理性的なロジックで説明できるのでしょうか? この後、ある程度の踏み込みはあるものの、彼は最後まで、目を背けたくなるような自身の汚さの本質にまでは踏み込まなかったように思えてなりません。
主人公がこのゲームで行ったことは、すでに出ている結論に対して、その裏付け(個人的無意識)を探すことだったと言えなくもありません。そのこと自体は別に良いのですが、実はその裏付け(個人的無意識)もまた自分自身に対する体のいい言い訳になっているというのがこのゲームの実体に思えてなりません。確かに決断するための拠り所は個人的無意識であっても良いかもしれない。しかしそれは自分の決断に対する言い訳であってはならず、自分の決断によって誰かが傷つくという事実は永久に十字架として背負っていかなければならない。それだけの覚悟をするプロセスの描写が、実はごっそりと抜け落ちていたのでは?とも思えます(少なくとも覚悟を決めているようには最後まで見えなかった)。ある種の開き直りとも取れるし、主人公が乗り越えたのは相手に対する憐憫の情を打ち切ることだけだったようにも思えます。ここにもまた、私は物足りなさを感じてしまいました。
もう一つ、本作品が名作になれなかった理由として、空白の3年間がまたプレイヤーにとっても空白となってしまった点があると思います。水月と重ねてきた月日の重みをプレイヤーが実感として感じられるか否か、です。
実はそれが欠けている、もしくは不十分だと、このゲームの根幹がゆらぐ部分があります。それは、このゲームにおいて、主人公(プレイヤー)があるキャラを「選択」したことに対する理論的裏付けが存在しない(描写されていない)という点です。例えば遥シナリオにおいて、本質的なところで主人公(プレイヤー)が遥のどこに惹かれて、なぜ遥を選んだのか、ということに対する答えは明文化されていませんでした。確かに、遥と水月のどちらを「切り捨てるか」ということに対しては、「二人を傷つけたくない=自分が傷つきたくないから」という答えを見出すのですが、遥と水月のどちらを「取るか」ということに対しては答えが明確化されていません。
主人公の選択ロジックの根幹にある「無意識の衝動」を表現するためにはそれを明文化してはならないのは当然ですが、マルチキャラEDにおいて自分のお目当てキャラ以外に関して「無意識の衝動」を持つことは、シナリオテキスト側からの十分なサポート(細かい日常描写やミニエピソードなど)がなければなかなか難しい。「切り捨てること」ではなく「選択すること」の重要性を語りながら、それに対する裏付けがプレイヤーの感情になっている点が、ゲームとして弱かったといわざるを得ません。「あそこで遥以外を選択することはオレには出来ん〜っ(^^;)」という人が多かったようですが、それは裏返せば水月のキャラ造形に失敗しているということです。(まあ遥が強すぎるのは確かなんですが。さくら似だし(爆(^^;))。)
もちろん、選択することに対する裏付けがプレイヤーの感情になっていることは決して悪いことではなく、むしろ良いことです。そもそもマルチキャラEDですべてのキャラクターを解くことは義務ではないはずだ、とも私は思います。ですが、フォローが少し足りなかったのは残念ながら事実ではないかとも思います。
さて、どうも最後までプレイして煮え切らなかったせいか、長々と書いてきましたが、個人的無意識からくる衝動が、意識では押さえきれない(=感情は理性や理屈に勝る)というところに踏み込み、それを上手く描写した点は非常に高く評価できるものだと思います。本当に、素直に賞賛に値するものでしょう。KeyがKanonで定式化した、無味無臭な主人公を用いて理詰めでプレイヤーに感情を理解させていくタイプのビジュアルノベルが主流を占める中、究極的な判断には理性も理屈もないということを示した本作は、マンネリ化しているビジュアルノベルの一つのブレイクスルーとなりうるものではないでしょうか?
荒削りな部分、踏み込みが甘い部分も少なからずありましたが、しかし確かに次世代型のビジュアルノベルの形の一つをおぼろげながらも示すことが出来たという意味において、本作が今後の業界に与える影響は少なくないのではないか、そう思います。今後のアージュの新作、是非とも期待したいものですね。
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